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ズレ

 

 橙の空は、やがて紫を帯び始めた。

 日がまだ沈まぬ内に、空にはガラス玉を散りばめた様に星が瞬いて、地上では街に点在しているオイルランプも柔らかな光を充実し始めた。


 見渡せるだけの家屋の煙突からは夕餉を拵えるための煙が空に伸びている。


 その光景だけを切り取れば、平和そのものだっただろうに。





 ――夕暮れの空には、悪魔の黒いシルエットがぽっかりと浮かびあがっていた。






 蝙蝠の翼に、山羊の頭。

 ひょろりと伸びる手足。

 漆黒よりも更に黒い燕尾服を着こみ、体が振れる度に体からは陽炎のように黒炎が揺らめいた。



死を纏いて黒(リヴェ・ゼディア)より出づる者(・イギーベディー)』。



 名が与えられ『上級』として畏れられるその魔物は、下界で狼狽える人々を興味深げに眺めていた。

 山羊の頭に収まるのは、グロテスクな紅色に染まる四つの目だ。

 虹彩が割れた四つ目はぎょろぎょろと忙しなく動き回り、その魔物を見た者に更に異形たらしめる印象を植え付けることだろう。


 山羊は、嗤う。

 見た目に反して、童の様な無邪気な嗤い声だった。


 そうして線の細い右手が、ゆらりとウルブドールに翳されると、山羊の掌から一粒の種が零れ落ちた。


 種は不規則に脈を打ち、紅色に光る尾を引きながら、街の中へと吸い込まれていく。






 ◇






 ウルブドール北部エリア。

 今そこは、悲鳴と血の臭いに溢れていた。


 力無き市民は恐怖に犯されながら我先にと街の中央へと逃げていく。


 それを追いかけるのは、無数の狼だ。

 しかし狼といえど形を模しているだけであり、“それ”は実際の狼とは程遠い。

 漆黒に硬い体毛に覆われ、目は六つ。全身は歪な斑模様が点在し、ツンとする腐敗臭の様な体臭を放っている。


 それがただの狼ではなく、魔物であるのは明白だが、ここでは敢えて狼と呼ぼう。



 狼は飢えているのか、逃げ遅れた市民を押し倒すや何頭も殺到し、その血肉を食い散らかしている。


 魔物に理性というものはない。

 だから足の遅い老人や女子供から、命を散らしていく。


 憤慨した男共は果敢に撃退を試みるも、戦の心得の無いものがどうして魔物と戦えようか。

 悲劇は更なる悲劇を生み出し、死は更なる死を呼び込んだ。




 地獄の直中(ただなか)を、セレティナとリキテルは流れに逆らって駆けていく。


 大通りは既に人の濁流だ。

 彼らは家屋の屋根を伝いながら、地獄の深部を目指していく。



「……見たところ、有翼種は見受けられない。どこから奴らは湧き出たんだ」



 歯噛みをするセレティナに、リキテルは視線を変えずに答えた。



「多分大蜘蛛の時みたいな母親か、奴らを連れてきた運び屋がいるんだろうよ」


「元凶の息の根を止める必要がある、か」


「何にせよ、そいつは門の警備を飛び越えてこれるほどの魔物だ。ゾクゾクするな」


「ゾクゾク……状況が分かっているのか?」


「ああ……分かっているさ。強ぇ奴がこの街にやってきて、俺らはそいつらを殺す必要がある。簡単な話だ」



 リキテルは両脚に納めたククリナイフを鷹揚に抜くと、鼻歌交じりにその剣身の煌めきを確かめた。

 それは、余りにも楽天的というか……。



「……リキテル、これは戦争なんだ。お前のその心の余裕は買っているが、もう少し気を引き締めた方がいい」


「おいおい、小言か?」


「私達は市民を護る為にここまでやってきたんだ。そんな調子じゃ――」







「護る為?」







 セレティナの言葉を反芻するリキテルは、余りにもきょとんとしていた。


 何を言っているんだ? という理外を示す様な顔は、彼の素直な心境を物語っていた。

 ……ここで、セレティナとリキテルの意識に明白なズレが生じる。


 リキテルは、呆れたように笑った。



「俺は別に、最初からそんな大層なお題目を掲げているつもりはないんだけどなぁ」


「……それは……どういうことだ? お前は、騎士なんだろう」


「騎士だよ? 騎士なんだけどさぁ……弱い奴が強い奴に殺されるなんて、当たり前の事だろう。別に街の人間が死のうが死ななかろうが、俺にはどっちゃでも構わない」



 楽天的に語るリキテルの口ぶりに、しかし虚構は無い。

 正直者が真を語るに相応しいものだった。


 セレティナは、そこでリキテルという人物を計り誤っていたことを思い知る。

 この男は、他者の為にその剣を振るっているわけでもなく、弱者の死によって心を動かされる男なのでも無いのだと。


 ならば、リキテルは何の為にその剣を握っている。

 何の為にこのウルブドールへ来た。



(まさか、本当に興味本位だけで……?)



 そんな訳は無い。

 どんな人間でも、命を懸けるには必ずその心の奥底に核がある。


 しかし、リキテルという男は……。



「じゃあ、ちょっくらお先に暴れてくる」



 リキテルはセレティナの思考を待たずにそれだけ告げると、ひらりと屋根から飛び降りた。


 地獄に足を踏み入れるには彼の足取りは余りにも軽く、その台詞は余りにも軽薄だった。




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