犬猿
ぎゃあ! と、エルバロの悲鳴が飛んだ。
静観を貫いていた冒険者組合長のエティックも、これには堪らず椅子を投げ出して立ち上がった。
オーバンス将軍の振り下ろした巨剣は、烈火の如き威力を伴ってセレティナの頭蓋へと走り迫る。
鋼さえ穿ち割る将軍の一撃には、容赦というものが無い。
殺った、と瞬間に理解したエルバロは反射的に目を覆った。
巨剣はセレティナの頭蓋を食い破ろうとして――
――ぴたり、と彼女の目前で静止した。
寸でのところで抑え込まれたエネルギーは、暴風となって部屋の中を駆け巡った。
観葉植物は飛び上がる様にその葉を散らし、窓ガラスはガタガタと騒ぎ立て、エルバロとエティックは思わず尻餅を突いた。
爆発と見紛う程のパワー。
……しかしセレティナの群青色の瞳は瞬きを一つするでもなく、オーバンスの巨剣の切っ先を見据えていた。
そこに恐怖や動揺の類は見受けられない。
セレティナの心は、その光景と現実の前でさえ明鏡止水そのものだった。
オーバンス将軍はやがてゆっくりと巨剣を彼女の視界から下げると、濁りひとつ無い群青色の視線に答えた。
「……何故、避けなかった?」
探る様な将軍の視線に、セレティナが返したのは柔らかな微笑みだった。
「止めると分かっていて、何故避けましょうか」
「……成る程。噂以上……いや、期待以上だティーク君……うちの軍に是非とも欲しいくらいだ。しかし試す様な真似をして悪かった。気を悪くさせたかね?」
オーバンス将軍はそう言って、巨剣をしっかりと鞘に収めた。
セレティナは「いえ」と首を横に振って。
「お眼鏡に適い光栄です」
癖で王国式の淑女のお辞儀をしてしまいそうになるが、少し遅れて男性らしく頭を下げた。
オーバンス将軍は満足そうに頷いた。
「なあ、俺は試さなくていいのか?」
リキテルは、少し不満そうだ。
オーバンス将軍はそんな彼の様子が可笑しくて、カラカラと笑ってみせた。
「ご不満かね」
「……いや」
「君の強さなら剣を使わずとも分かっている。それだけ剣気を剝き出しにされていたらね。さっきから肌がチクチクと痛くて敵わんよ」
「……さよか」
リキテルは、今度は詰まらなさそうに唇を尖らせた。
そんな彼の爪先を、セレティナは再び踏んづける。
「左様でございますか、だ。口を慎め馬鹿者」
「へいへい」
彼らのやりとりに、将軍はやはり肩を震わせて笑っていた。
「そんなに畏まる事はない。君らは自由の象徴たる冒険者なのだからな。……それよりエルバロ、エティック、いつまでそうしているつもりだ」
将軍は未だに尻餅をついたままの二人に呆れたように問いかけた。
「オーバンス将軍……室内で貴方に暴れられるとこちらの身が持たない。自重してくれ……」
「ば、化け物め……」
前述がエティック、後述がエルバロ。
彼らは頼りない平衡感覚で椅子に縋りながら立ち上がった。
そんな彼らに、オーバンス将軍は挑戦的な笑みを浮かべた
「だが、これで彼らの実力はわかってくれただろう?」
二人は、呆れて何も言い返すこともしなかった。
*
議場のテーブルに、漸くセレティナとリキテルが着いた。
セレティナらは特記戦力として特別に招かれた異例な存在なのだが、この場において二人を非難するものは誰ひとりとしていない。
分かっているのだ。
今この崖っぷちのウルブドールに真に必要なのは身分や金じゃない。
純粋な、力が必要だという事を。
「先ずは斯様な席にお招き頂き感謝致します。オーバンス将軍、エルバロ都市長殿、それからエティック組合長。つきましては……」
「御託は良い。出来るのか?」
「は……。と、言いますと」
目を丸くするセレティナに、エルバロは親指の爪を噛みながらイライラした視線を彼女に向けた。
「僕の大事な『家』の周りをうろついている黒いゴミ共の掃除を君ならできるのかって聞いてるんだ! それくらい直ぐに察しろ! これだから要領の悪いガキは嫌いなんだ!」
まるで子供の癇癪だ。
今にでも物に当たりそうなエルバロの態度に、僅かにささくれ立ったのはリキテルだった。
「逆に聞くけど、どうにかできると思うか?」
「なに?!」
「俺達は二人だ。多少腕は立つ、が、たったの二人だぞ。都市長サンも見たんだろ? 外の奴らを。俺と、ティークと、そこの将軍のおっさんを兵士の頭数に入れてもこの数の差は覆らない。中級上級の魔物が現れないと考えても、こっちがすぐに空っぽになって御仕舞だ」
「ぐっ……!」
「ここは議場なんだろう。感情でモノを語るなよ、お坊ちゃま」
「なっ……!」
その言葉は、エルバロの神経を逆撫でるのに容易だった。
茹で蛸の様に顔を真っ赤に染める彼は、勢い良く立ち上がった。
「なんだと貴様! 平民……それも卑しい冒険者の身分でこの僕に舐めた態度を取りやがって……! 身の程を知れ!」
「弱い犬ほど何とやら……」
「~~~~~~~っ!!!!」
激情に髪を逆立てるエルバロに対して、リキテルの態度は余りに冷ややかなものだった。
その度が過ぎた傲慢な態度のリキテルの後頭部を、セレティナは思いっきり剣の鞘で殴ってやった。
ガツン! と硬い音が部屋に鳴り響いた。
「いっっ……っっってぇ……!」
「お前は少し黙っていろ」
ごろんごろんと床を転がり回るリキテルを無視し、セレティナはエルバロに向き直った。
「私の相棒が大変な無礼を働きました事をお許しください。見ての通り、痛い目を見させておきましたので……」
困った様に眉を下げるセレティナに対し、エルバロは全くといってよいほど溜飲が下がらない思いだったが、再び噛みつきそうな彼を制したのはオーバンス将軍の熊の様な手だった。
「エルバロ、もうそこまでで良かろう。お前も少しティーク君に言い過ぎた。相棒として彼はティーク君の名誉を守ったに過ぎない。それ以上事を荒立てるならこの部屋から出て行ってもらうが?」
粛々と告げ、ティーカップを傾ける将軍に対し、エルバロは大きく舌を打った。
「……くそっ!」
悪態を吐きながら乱暴に着席したエルバロに対し、セレティナは礼儀正しく頭を垂れた。
「エルバロ様の御慈悲に、深き感謝を」
「……いいか! 次に僕に無礼を働いた時は――」
「……エルバロ」
「分かっている! クソ!」
「……有難うございます」
かくして話し合いは、不穏な空気から始まった。
エルバロは、苛立ちとストレスで頭がどうにかなってしまうようだった。
事実、彼が頭を掻き毟るたびに大量の毛髪が落ちていくのだから。
(……平民め……冒険者風情が……僕をコケにしてくれたお礼は、必ず返してやる……)
エルバロの腹の奥では、汚泥の様な怒りが湧き起こっていた。