悲しみの夜
「……はぁ……はぁ……っ……!」
イミティアは、目を覚ました。
ねっとりとした熱を帯びた彼女は、仄立つほどに大量の嫌な汗をかいている。
ゆったりと身を起こすと、ベッドのシーツはイミティアの汗で蒸らされ、多分に湿気を帯びていた。
その部屋は、イミティアの見知った部屋だった。
ウルブドールでの活動の拠点としていた高級宿屋の一室……イミティアの部屋なのだから。
窓の外に目をやれば、驚くほどに綺麗な半月がぽっかりと浮かんでいる。
イミティアの早鐘を打つ心臓と、暴れる呼吸とは対照的に、外は鉛の様な静寂を湛えていた。
「…………」
イミティアはサイドテーブルに置かれていた水差しをコップを使うことなく唇に宛がうと、一気にそれを傾けた。
よくよく温くなってしまった水を、イミティアは口の端から零しながら、喉から胃の底へ流し込んでいく。
(……熱い)
空になった水差しをサイドテーブルにとんと置き、イミティアは粘っこい溜息をひとつ吐いた。
嫌な夢を見た。
十四年も前になる、嫌な過去を見てしまった。
イミティアはロケットを握りこんで、そのレリーフの感触を指の腹でなぞる。
それは半ば癖となってしまった彼女の行動だ。
不安な時、イライラしている時、長考する時……そのロケットを触っていれば、イミティアの心はやにわに綻んでいく。
「……ふぅ」
動悸はやがて治まり、篭るような熱は霧散していく。
ベッドを抜け、窓を開けると初春の硬い冷気が飛び込んできた。
深呼吸してみれば、肺に冷たい空気が滑っていき心地が良い。
しばらくそうしていると、イミティアの部屋の扉が少し遠慮がちにノックされた。
イミティアが何か言う前に、扉はやはり遠慮がちに開いた。
「頭領。起きていたのですか」
訪問者――レミリアは、目を丸くしていた。
湯浴みはもう済ませてあるのか、彼女のトレードマークである落ち着いたローポジションのポニーテールは無く、色艶の良い紺色の後ろ髪が背中の辺りを小川の様に揺蕩っている。
イミティアは力無く笑うと、近くの椅子に腰掛けた。
「起きていた、というより今起きた……と言った方が正しいかな」
「左様で……。御加減は?」
「最悪だ、体は汗でベトベト。湯浴みがしたい、湯はまだ残ってるか?」
「ええ、今ならまだ大丈夫です」
「そうか、それは助かるな」
「それではお着替えの準備をしてきますね」
「いや……それより、ウッドバックはどうなった?」
少し、イミティアの表情に影が落ちた様にも見える。
レミリアは眼鏡のフレームを押し上げると、僅かに言葉を選ぶようにして、恐る恐る答えた。
「……ウッドバックさんは、亡くなりました」
「……そうか」
イミティアの返答に、揺らぐものは何もない。
ただ、どろりと溶けた鉄の様な悲しみが沈殿しているだけだ。
イミティアの様子にチクリと胸が痛み、レミリアは彼女から目を逸らした。
「……弔いは、簡易的なものですが済ませておきました。非常時ですから、本当に簡素なものですが……」
「いや、助かるよ。どれだけ簡易なものでも、その心持ちが大切なんだ。手配したのは君だろうレミリア、感謝するよ」
「……怒っていますか」
「……何をだ?」
「頭領を、起こさなかったこと……」
罰の悪い子どもの様な表情をするレミリアに、図らずもイミティアの心は温かくなった。
「怒るものか。きっとあたしが起きていたら意地でもウッドバックに回復魔法を掛け続けただろう。そうすればあたしは今頃お陀仏さ」
それに、とイミティアは続ける。
「ウッドバックは、やり遂げた。あたしを殴ってでも止めてくれる奴がいて、助かったよ」
イミティアは、笑った。
微笑みの仮面を張りつけて、心はきっと哭いている。
それでも、彼女の言葉に偽りは無い。
これは、我儘だ。
死にゆく相手に、何もしてやれない自分が嫌なだけ。
ウッドバックが死ぬことなんて、彼女は理解していた。
だから、あの回復魔法はそんな自分の心を慰めるだけの茶番。
でも、止められない。
自分を止める事はできない。
そうでないと、オルトゥスを失くした痛みをまた思い出してしまうのだから。
イミティアの微笑みは、脆かった。
亀裂が入り、ともすれば張り裂けそうな悲しみを孕んでいる。
それが分かっているから、レミリアはイミティアの顔を見上げることはできない。
「それよりだ。あの金髪のおチビ、凄かったな。油断していたとはいえあたしがあっさり気絶させられるなんて」
声音は、明るかった。
話題を逸らしたいのだろう。
レミリアは敢えてそれに乗ることにした。
「彼は冒険者だそうですよ。名前はティーク。お連れの赤髪の方はリキテルと仰るそうです」
「ティークにリキテル、か。ここいらじゃ聞かない名前だな。あれだけの腕を持っているんだ、噂になってもおかしくないだろう」
「ええ……。その事についてなんですが」
「何だ?」
「リキテルと名乗った青年なのですが、彼が着用している鎧はどう見ても王国手製……それからティークと名乗る少年が持っていた剣は恐らくかの宝剣『エリュティニアス』でしょう」
「……王国の装備……? その『エリュティニアス』っていうのは?」
「かの伝説の鍛冶師ヲルヴァウスが打った名剣七本に数えられる宝剣です。あれを持っている、というだけで一介の冒険者に枠組みに収めるのは極めて不自然でしょう。あの二人組、何か秘密を抱えているかもしれません」
「ふぅん……。王国の装備に、宝剣を抱えた凄腕の“冒険者”ね……。何にせよ、こんな破滅寸前の都市に何をしに来たんだか」
そう言って、イミティアは煙草に火を付けた。
正直、今の彼女にとって冒険者二人組の話題は上辺だけの関心だ。
今は、ウッドバックを失った悲しみをただ慰めたかった。
煙草の煙は、彼女の心を知ってか知らずか、苛立たしいまでに自由に空を漂っている。