落日
浅く、胸が上下する。
セレティナは『エリュティニアス』を鞘に収めると、薄く滲んだ額の汗を拭った。
疲労感は、ある。
しかし体を焦がす様な熱量も、鉛の様な重さも、今のセレティナには無い。
「……」
彼女は、自分の掌を見やった。
白磁器の様に美しい掌は血色が良く、震えは無い。
それだけで、彼女の体が健康である事を示すには十分だ。
セレティナは拳を握りこむと、首筋にそっと指を這わせた。
そこに感触は無い……が、確かに彼女の心は俄かに粟立った。
「ディセントラ……」
思い出されるは『黒白の魔女』のシルエット。
ディセントラがセレティナに何を残したのか、何の為にこれを刻んだのか……そも、この快調はこの紋章の所為なのか……。
セレティナは『薔薇に絡みつく蛇』から指を離すと、ふるふると首を振った。
(今は考えたところで仕方がない。それよりも……!)
『エリュティニアス』を腰のベルトに差し込み、人々の波をかき分けていく。
石門の前には大きな人だかりが出来ていた。
横たわるウッドバックを魔法士と衛生兵が取り囲み、そしてそれを見守る人間が大勢いるからだ。
ウッドバックが上げた戦果は、筆舌に尽し難いものだった。
彼が門を閉じなければ、きっとこのウルブドールは堕ちていただろう。
獣人や巨人と言われる亜人種は、一般的には獣や魔と交じり合った穢れた混血種と認識され、純粋な人間からは忌避されるのが常だ。
だが、横たわるウッドバックを見る彼ら人間の目は、暖かい。
本物の英雄を見るに値する尊敬の眼差しだ。
見る者誰もが彼の状態を案じている。
しかし血の池に横たわるウッドバックの呼吸は速く、そして浅い。
見るまでもなく彼は傷を背負い過ぎた……致命傷だ。
魔法士が灯す淡い緑色の光はウッドバックの傷に吸い込まれていくものの、彼の傷は次々と血を吐き出していく。バケツに並々注がれた止血薬を衛生兵がぶちまけるも、それも意味を為さない。
そう……本当にそれらが意味を為していないのだ。
「……まさか」
その状況を見たセレティナは思わず息を飲んだ。
そして、直感する。
彼女の予感が正確であるなら、ウッドバックの体はもう……。
青褪めるセレティナは人ごみをかき分けて、ウッドバックの前に立った。
『天使』がそこに立つことで、兵士達の喧騒はやにわに静まりかえる。
きっと、何か奇跡を起こしてくれるに違いないと、そんな浅はかな期待を持っているからだ。
魔法士達の回復魔法は、やはり機能していない。
片膝を着き、その様子を見ていたセレティナの口が真一文字に引き結ばれた。
悪い予感は、的中するものだ。
今、ウッドバックを苛んでいる彼の体の状態を彼女は知っていた。
「ユフォ、ヨウファ」
セレティナが囁くように呼ぶと、影の中から陽炎のように揺らめいて、二人は姿を現した。
「何とか……できないか?」
祈る様なセレティナの言葉に、二人は無機質な表情を保ったままに首を横に振った。
セレティナは浅く息を吐くと、小さく「そうか」とだけ言葉を零す。
その反応は、やはりどこか諦観めいたものを感じさせるものだ。
群青色の鮮やかな瞳が、僅かに濁り始めた。
それから彼女は、ゆっくりとウッドバックの顔の近くへと歩んでいく。
「もう、治療を止めてください。それ以上は貴重な魔力と薬を浪費するだけです」
手を上げ、魔法士と衛生兵に高らかに声を飛ばす。
男ばかりの戦場にソプラノは良く通り、彼らは手を止めて振り返った。
セレティナは続ける。
「彼の体はもう回復魔法を受け付ける事はありません……余り知られておりませんが、これは魔法薬を過剰摂取した弊害です」
そう言って、セレティナはウッドバックの頬に手を添えた。
血色は悪く、震え、冷たい。
魔法薬を一度に大量に服用すると、あらゆる回復作用を拒絶する肉体へと作り変えられてしまう。
これは先程セレティナが述べたように一般に知られている知識ではない。
というのも、そもそも魔法薬自体極一部にしか流通されていない為、大量に服用できる程量産されていないからだ。
ウッドバックの頬を伝う流血が、セレティナの手の甲に落ち、緋色が純白を侵していく。
彼女はそれを気にも留めず、友の荒くなる息遣いを労った。
「……では、天使様……彼は、もう……」
衛生兵の一人の弱々しい語りかけに、セレティナは瞼を落として顔を横に振った。
「……彼は、よく頑張りました。どれだけの想いが、どれだけの信念が彼を突き動かしたのでしょうか。……彼は、彼の尊い生き様は、正しく本物の英雄です」
セレティナの表情が、哀しみに歪む。
泣きそうにも、苦しそうにも、悔しそうにも……友をまた一人救えなかった哀しみは、彼女の心を蠱毒の様に蝕んだ。
もう少し来るのが早かったら……。
彼が魔法薬に頼る状況になる前にセレティナが手を差し伸べられたのなら……。
ウッドバックを救おうとしていた人間は皆、表情に影が差した。周りを囲んでいた兵達も、水を打ったようだった。
ウッドバックは、助からない。
鈍痛の様な沈黙が、辺りを濁していく。
しかし、その静寂を灰色が切り裂いた。
「何をしている! 治療を続けてくれ!」
人の波間を掻き分けて、覚束ない足取りで現れたのはイミティア・ベルベットだった。




