赤い閃光
肌を、不快な感覚が這い回る。
痛みの信号は無く、己の血肉を食い破られる感覚がまるで他人事のようにさえ思えた。
ウッドバックは、前進する。
鈍重な足取りで、己の後に血の川を引きながらも、小蜘蛛に群がられた巨人は歩み続ける。
門を閉じろ、家族を守れと。
その強烈な意思が、死に体をどうしようもなく突き動かすのだ。
「ウルゥアアアアアアアアア!!!」
ウッドバックは気が狂ったように斧を振り回した。足元を蹴散らかし、全身を掻き乱して集る小蜘蛛を振り解く。
彼は巡らぬ脳と震える指先に鞭打って、イミティアからふんだくった魔法薬の小瓶二本をそのまま口に放り込んだ。
ガラスごとバキバキと嚙み潰して飲み下すと、淡い光が体に灯る。
体は再生を始め、巡らぬ脳と霞がかった視界が開けていく感覚が返ってくる……が。
--追いつかない。
魔法薬の回復量は、彼を襲う小蜘蛛共のダメージに追いつく事はない。取り戻した英気と肉体は、再び小蜘蛛共の餌になるだけだった。
……だが、時間は稼げる。
ウッドバックは既に門を閉じる事しか頭にない。
自分が死に、朽ちようとも、あの巨大な石門を閉じる事ができるのなら、彼は満足だ。
ウッドバックは僅かに蘇った肉体と英気を振り絞る。
滴る血液と爛れ落ちる肉を零しながら、己を鼓舞するように高らかに吠え、力強く一歩を踏み出し、そして--
--彼の前に、大蜘蛛が現れる。
ズンと巨体が降りかかると、橋が僅かに撓んだようだった。
ウッドバックの喉が思いがけず干上がり、それと同時に、苦々しく呻く。
黒の巨体が、巨人の彼のそれより大きく、聳え立つ。
「……クッソォァ………!!」
精神が一気に磨耗し、胃の腑からボコボコと熱いものがせり上がった。
犬死……絶望……そんな後ろめたいイメージが、彼の手足を搦めとる。
万事休す……彼だけではない。
後ろに控えている兵士達も、イミティアでさえ、理不尽な現実に鳥肌が立った。
よろよろと足を挫くウッドバック。
そんな彼を見るにつけ、大蜘蛛はせせら笑うように脚を擦り合わせ、しゃきしゃきと鋭利な音を奏でた。
しゃきしゃき。
不快なその音と、自身の心臓の拍動の音だけが、ウッドバックにはやけに大きく聞こえていた。
己の死と、それからここを突破される恐怖……自身の不甲斐なさ……ぐるぐると脳裏を駆け巡り、それらを処理できないでいる。
「……ハァ……ハァ……ッ……!」
大蜘蛛が、前脚を振り上げた。
細く尖る先端は、万物を貫く威力を秘めている。
大蜘蛛はそれを、容赦なく振り下ろした。
ウッドバックの眼前に、恐ろしい速度でそれが迫る。
「ウッドバック!」
遠巻きに見ていたイミティアは、堪らず悲鳴をあげた。
もう、助からない。
誰もが巨人の死を悟ったそのとき--
--空から降った赤い閃光が、二人の間に割って入った。
耳を劈き脳を刺す、恐ろしい響音。
研ぎ澄まされた剣の残光が二つ閃いたその瞬間、大蜘蛛の二本の脚は容易くいなされる。
何が、起きた。
誰もがそう思って、誰の思考を待たずに展開は先へと進んでいく。
バランスを失った大蜘蛛の巨体は後ろにのめり込み、埃と砂を巻き上げながらひっくり返った。
その光景を、誰もが疑った。
図らずも、戦場に一拍の静寂が訪れる。
ウッドバックは目を見開き、赤い閃光を--目の前に佇むその男を見た。
男は、笑っていた。
犬歯を剥き出しにして、琥珀色の瞳は瞳孔が開き、獣の様な笑みを浮かべているのだ。
赤色の猫っ毛は僅かにそよぎ、握られた一対のククリナイフはくるくると軽快に風を切っている。
男は--リキテルは、心臓の高鳴りを抑えられない。
強者との、魔物との対峙は、如何ともし難く彼を高揚させてしまうのだから。
退屈してたんだ、という彼の独り言は、余りにも軽く、余りにも野性味に溢れている。
「さぁ、始めようか」
べろりと長い舌を舐めずって、リキテルは狙いを定める黒豹のように腰を低く低く……彼が最も獲物を狩りやすい姿勢をとった。




