死の大海
追手は、来ない。
「…………」
馬上で揺られながら、セレティナは振り返った。
蹄が大地を叩く音と共に徐々に、少しずつだがレヴァレンスの都市の明かりが遠ざかっていくのが目に見える。
闇夜の中をカンテラ一つで切り進むのは非常に危険な行為だが、それは仕方ない事だ。
セレティナ達には……いや、沈むウルブドールと、そこにいるイミティア・ベルベットには残された時間が幾許も無いのだから。
夜の寒さにローブの中で身を震わせると、セレティナは手綱を握るユフォに語りかける。
「追手が来ない。これはヨウナシ先生のお陰か?」
「分からない。でも、多分そう」
「何をしたんだ」
「……分からない」
首を横に振るユフォに、セレティナは小さく息を吐いた。
……と、ユフォとセレティナの馬の隣に並ぶように、ヨウファを後ろに乗せたリキテルの馬が横に着いた。
「よぉ。あっちに着いた時の話なんだが」
並走するリキテルに、セレティナは思わず苦い顔をした。
カンテラの頼りない明かりだけで馬を走らせているというのに、馬を並走させるなどこの男は危険というものを知らないのか、と。
リキテルはそんなこと露知らず、といった風に飄々と言葉を続けた。
「ウルブドールの周りには大量の魔物がうじゃうじゃいるんだろう。どうやって中に潜り込むんだ」
「前にも言ったが、それは心配しなくて良い。秘策がある。それよりも前を見ろ。危なっかしくて見てられん」
「おお、すまんすまん。で、その秘策っていうのは信用していいんだな?」
「多分、な。恐らく明朝にはウルブドールに着くと思うから期待していてくれ。……それより前を見ろ前を」
しっしっと追い払うと、渋々といった感じでリキテルの馬は離れていった。
後ろに乗せられてるヨウファはいつもの無表情だが、リキテルの危うすぎる操縦にじっとりと冷や汗をかいていたのは誰にも知られることは無かった。
*
休憩を挟みつつ、四時間程馬を走らせたところだろうか。
空が、白んできた。
木の葉は朝露を湛え、森の緑からは小鳥達の小さな囀りが風に運ばれてくる。
「朝だな」
朝の澄んだ静寂に、リキテルの呟きが浮かんで、消える。
その呟きに、誰も反応を示す者はいない。
リキテル自身も、別に何かしらの反応が欲しかったわけでもない。
馬が街道の土を蹴る音だけが、淡々と続く。
睡眠も摂らずに、移動だけで四時間だ。
途中、軽めの食事休憩を挟んだとはいえ流石にこれは歴戦の戦士である四人の体にも堪えていた。
特にセレティナ。
脆弱な彼女の体には、特に疲労の色が顕著に出ている。
喘息を抑える薬液を流し込み、騙しだましここまで来たが、体は既に鉛だ。
セレティナは岩より重たくなった瞼をなんとかこじ開けると、欠伸をなんとか口の中で押し留めた。
人前で大口を開けてはいけない……他ならぬ母からの、淑女としての大事な教えなのだから。
ユフォの腰に回した手を緩めて落馬しない様にと、再三……どころではないが、キリと気を引き締めたところで、リキテルが再び彼女の下へ馬を寄せた。
「よう眠り姫」
「寝てなどいないぞ。何だリキテル」
並走するリキテルは、大口を開けて欠伸をしている。
なんとも心地のよさそうな欠伸に、なんとなくセレティナが苛ついたのは内緒だ。
「到着、もうそろそろじゃないか?」
「む。そうだな……。待て……今、地図を」
ポシェットに捻じ込んだ地図を風に飛ばされぬように広げると、セレティナは思考の冴えぬ脳と眼で地図を読み解いていく。
「…………」
確かにリキテルの言うとおり、そろそろウルブドールの街並みが見えても良い頃合いだ。
「そうだな。そろそろウルブ――うわっぷっ」
と、顔を上げかけたところで、急に馬が立ち止まった。
慣性に倣って、セレティナの顔がユフォの小さな背に潰れ、続きの台詞は殺された。
「ちょっ……急に止まるなら一言――」
「……何だ、あれは」
ユフォが、そう小さく呟いた。
その声音は、何色に染められているのだろう。
絶望?
諦め?
驚愕?
自分の中で処理できなかったのだろう譫言めいた呟きは、確かにセレティナの耳にも届いていた。
――何があった。
セレティナは上体を傾け、ユフォの背中越しにそれを見た。
そして……彼女もまた言葉を失った。
ギルダム帝国、城塞都市ウルブドール。
夥しい魔物の大群が形成した黒い海に、ぽっかりと小さく浮かぶ浮島のようなそれは、確かに地図が示すようにウルブドールであった。
それほどに規模の大きくない都市とはいえ、今まさにそこは黒の渦の中に呑まれそうな程にか細く、頼りない姿だった。
「都市全体を囲む程の魔物……?」
あのリキテルでさえ、神妙な面持ちで、喉を鳴らした。
きっと、目の前の光景を見れば、誰もがそうなるのだから。
セレティナは、唇を噛み、群青色の瞳で黒の大海を睨む。
そして、こう呟いた。
「エリュゴールの、災禍……」
思い起こされるのは、彼女がオルトゥスであった頃の、最後の戦場。
セレティナの指が僅かに震えを覚えた。
太陽は、ようやく地平線を登り終えた頃だった。