三界三傑
腰が抜けた、とはこのことだろう。
ゼーネイ卿は目の前で起きた光景に、完全に背骨が抜かれたようだった。
彼だけではない。
ゼーネイ派の兵士も、セレティナ派の兵士もみんな腰砕けだ。
駐屯所の深淵の底から、天井を貫いて夜空まで。
光の刃が突き立てられた現実は、目の前の天井にぽっかりと空いた穴と、ちりちりとした焦げ据えた臭いが如実に証明している。
無様に尻もちをついたゼーネイ卿は、天と地を焼き焦がした目の前の女に恐怖する。
ヨウナシは、そんな彼の様子が可笑しくてくすくすと笑みを零した。
「死んだと思うたか? 安心せいよ、命までは獲らん。儂の注文はもうそれ以上手を打つなと、それだけじゃ」
「そ、その力……お、お前は……い、いや……貴女様はまさか……」
ゼーネイ卿の声は、震えている。
ヨウナシを前にした彼の生存本能が、やにわに警鐘をかき鳴らしいるからだ。
この状況でのみ言えば蛇に睨まれた蛙、というのはとても優しい表現だ。
今のゼーネイ卿の恐怖を例えるなら、人の域にはどうとでもできぬ神災を目の当たりにしている……とでもいったほうが表現としては近しいだろう。
何故なら、ゼーネイ卿は目の前に映る女を知識としては知っている。
知っているからこそ、その力の片鱗を目の当たりにしたからこそ、彼の全身の筋肉は釣りあがる程に硬直していた。
ヨウナシの顔には、笑みが張り付いている。
蟻の巣穴を突き回し、水を流し込む童女のようなあの残酷で、無邪気な笑みを。
「……おや。儂の事を知っておるのか。ならば話は早そうじゃの。ちとお主には気の毒じゃが、邪魔させてもらうよ」
ヨウナシの発言に、ゼーネイ卿の口がわなわなと震えた。
それはないだろう、と。
自分の立てた計略に、お前が関わるのはどうしたって反則だろう、と。
「な……何故ですか! 何故貴女のような存在が斯様なことに首を……! わ、私が何か貴女の気を損なうようなことをしたというのですか! 私に死ねと申すのですか!」
「知らんよ、お主がどうなろうが儂の知るところではない。ただ、今はセレティナ女史に死んでもらっては全くもって楽しくない。あれは面白い。久々に心が湧いておるのよ。だからここのところは儂に免じて逃がしてやってくれ」
「そんな! 無茶苦茶だ! あんまりだ!」
「ええい、寄るな。醜男の命乞いほど見苦しいものはない」
ヨウナシはそうばっさりと言い放つと、足元に追い縋るゼーネイ卿を一蹴した。
そうすると高下駄を頬に受けたゼーネイ卿が、ゴムボールの様に囲いの兵士の中に吹き飛ばされた。
受け止めた兵士達は、肥え太ったゼーネイ卿をどうにも受け止めきれずに雪崩を起こした。
ヨウナシは心底煙たい顔をすると、泥を払うように足元を叩いた。
「それじゃ、儂は言うことも言ったし気は済んだ。良い夜を過ごせよ、小僧ども」
そう言ってヨウナシは踵を返し、部屋を出ようとして――。
「そうそう」
と、思い出したように振り返る。
びくっ!と、血まみれ顔のゼーネイ卿の肩が跳ねたのは言うまでもない。
「な、なんですか」
「あのセレティナ女史のことじゃがな。生かしておいたほうがお前も得をすると思うぞ」
「……? な、なにを……」
じゃあの。
と、ヨウナシはそれだけ告げると、ゼーネイ卿の次の言葉を待たずして再び踵を返した。
カラ、コロ、カラ、コロ……と、陽気に鳴る高下駄の音が聞こえなくなるまで、ゼーネイ卿とその取り巻き達は動くことも喋る事も、ともすれば呼吸をすることもできなかった。
……長い静寂。
静寂に波紋を打ったのは、うわ言のような一人の兵士の呟きだった。
「……な……なんだったんだ……今の……」
応えるのは、やはりゼーネイ卿の震える声だった。
「……『三界三傑』だ」
「さ……『三界三傑』って、あの……」
「……ああ。『陸』『海』『空』それぞれ三界を縄張りとした三人の神龍族。……恐らくあれは、『空王』だ。……くそったれめ……あんなのに目をつけられて、どうしろというのだ……」
がっくりと項垂れるゼーネイ卿にはもう、一握りの力さえ残ってはいない。
部屋には、再び肌を刺すような静寂が満ちはじめた。