Word.25 こノ勇気 〈1〉
篭也の弟である“於の神”於崎檻也により、於附の一人、己守として、於崎の屋敷へと招かれた紺平。
そして、アヒルたち安団の面々も、紺平を追うように、於崎の屋敷へと辿り着いていた。
於崎家屋敷、入口棟廊下。
『ざわざわざわざわっ…』
「…………」
周囲から聞こえてくる声と、あからさまに不審がっている屋敷の使用人たちの態度に、アヒルが思わず表情を引きつる。アヒルは元来、こういった視線は気にならない人種であるが、ここまで極度であると、気にしないことも困難である。
「この屋敷は、余所者の出入りを悉く禁じているのです」
「……?」
アヒルが、前を歩く和音の声に顔を上げる。
「ですから、この屋敷の者たちは、訪れる者を迎え入れることが、どうも苦手なようですわ」
「苦手っつーか…うぅ~ん」
感じる冷たい視線を見回しながら、アヒルが少し首を捻る。
「於附といえども、出入りは困難です。他団の者となれば、より一層の珍客でしょう」
和音は周囲を特に気にする素振りは見せず、まっすぐに前だけを向いて、言葉を続ける。
「だから…」
「……っ」
声を発するアヒルに、和音がかすかに振り返る。
「だから、篭也の出入りも禁じた…?」
「…………」
アヒルのその問いかけに、和音がそっと目を細める。
「お庭へ出ましょうか」
和音はその問いかけには答えようとせず、急に方向を転換させ、廊下にあった大窓から、庭へと出た。月明かりが眩しく、空はもう暗いというのに、庭は程良く明るかった。
「わたくしが初めてこの屋敷を訪れたのは、わたくしが六歳、篭也がまだ三歳の時でした」
庭で立ち止まり、不意に昔の話を始める和音に、アヒルは少し眉を動かしたが、特に口を挟むこともなく、和音の話に耳を傾けた。
「丁度、この辺りでしょうか。篭也は一つ年下の弟、檻也と、とても楽しそうに遊んでいましたわ」
庭にある池の近くへと立ち、穏やかな笑みを浮かべる和音。
「とても、楽しそうに…」
「……っ」
その言葉を繰り返す和音に、アヒルが少し表情を曇らせる。
「ですが、篭也が五歳になったばかりの頃、檻也が“お”の力に目醒めたのです」
「“お”の、力に…?」
「ええ。歴代の“於の神”の中でも、最も早い目醒めでしたわ」
池の水面をまっすぐに見つめながら、和音はどこか厳しい表情を見せる。
「屋敷中の者が、檻也を、“天才だ”“生まれながらの神だ”と、崇めました…」
和音がそっと、瞳を細める。
「ですが、皆が檻也を崇める度に、篭也の居場所はなくなっていったのです…」
―――神に成り損ねた五十音士よ…―――
「…………」
イクラの言葉を思い出し、アヒルは少し視線を落とした。
「それで、篭也はこの屋敷を…」
「ええ。ですが、この屋敷から出されたことは、篭也にとって、良いことであったと思います」
「えっ…?」
和音の言葉に、戸惑うように顔を上げるアヒル。
「自分の家追い出されたってのに、良かったってのはっ…」
「篭也は、“俺”とも“お前”とも言わないでしょう…?」
「へっ?」
急な和音の問いかけに、アヒルが目を丸くする。
―――僕は、あなたのためを思って言っているんだ―――
「あ、ああっ。そういや、言わねぇーかもなぁ」
篭也の今までの言葉を思い返し、納得するように頷くアヒル。
「それが、どうかしたのか?」
「“お”の力に選ばれなかった者が、“お”のつく言葉を口にすることなど、おこがましい」
問いかけたアヒルに、和音はすぐさま言葉を返す。
「この屋敷の者たちは、そう言って、篭也から、“お”のつく言葉を奪ったのです」
「なっ…!」
知らされる事実に、アヒルは思わず言葉を失う。
「そうして篭也は、言葉の自由さえ、奪われました」
「何も、そこまでっ…」
「それが、この於崎という家です」
表情を曇らせるアヒルに、和音が厳しい口調で言い放つ。
「ですから、篭也がこの屋敷を出て行った時、正直、ホッとしました」
和音が少し、険しかった顔を和らげる。
「あのまま、この屋敷に残っていれば…篭也は、壊れてしまっていたかも知れませんから…」
「……っ」
遠い瞳を見せる和音に、アヒルが険しい表情を作る。
「どうして、篭也は加守に?」
「先代の加守が、屋敷を出たばかりの、何もかもを諦めてしまっていた篭也を見つけてくれましてね…」
「先代加守?」
「ええ」
首を傾げ、聞き返したアヒルに、和音がそっと頷きかける。
「何もない篭也に何かを与えるため、“か”の力を教え、篭也を次代の加守へと導いたそうですわ」
「先代の、加守が…」
篭也から先代の話を聞いたことがなかったので、アヒルはどこか新鮮な感覚でその話を聞いた。
「ですが、篭也の反発も強かったようです」
和音がそっと、眉をひそめる。
「“神”という存在のためにすべてを失ったのに、“神”など守れるか、と…」
「……っ」
その言葉に、曇るアヒルの表情。
「それほどに、篭也にとって“神”という存在は大きく、そして重いものでした…」
和音が池に背を向け、アヒルの方へと戻って来る。
「“神”のその名を、口にすることも拒むほど…」
アヒルの目の前に止まり、和音がアヒルへとまっすぐな視線を送る。
「ですから、わたくしは驚いたのです」
「えっ…?」
「篭也が、ごく自然に、あなたを“神”と呼ぶことに…」
「……っ」
和音のその言葉に、アヒルはハッとしたように目を見開いた。“神”と呼ばれることを、初めは煩わしいとさえ思っていたが、篭也にとって、その言葉はとても重く、呼ぶことにさえ、強い覚悟のいるものだったのかも知れない。
「あなたとの出会いは、篭也にとって、とても大きなものだったのでしょう…」
「相変わらず、篭也のことなら、何でも知ってるって口振りだな」
「前にも言いましたでしょう?」
アヒルの方を見て、和音がそっと微笑む。
「知っているのではなく、ただ、彼を見てきただけだと…」
「…………」
そっと視線を落とす和音に、アヒルが少し目を細める。
「あんたはそう、口では言うけどっ…態度とか、言葉とか聞いてると、そう感じないっつーかっ…」
気難しい表情を見せ、どこか躊躇いがちに、言葉を繋ぐアヒル。
「篭也に、そう優しくないように見えるっつーかっ…」
「……っ」
搾り出すように放たれるアヒルの言葉に、和音はそっと口元を緩めた。
「そうですわね」
「へっ?」
あっさりと認めるように言う和音に、アヒルが少し間の抜けた声を漏らす。
「わたくしも、歪んでしまったのかも知れませんわ」
和音が空を見上げ、そっと声を発する。
「この、五十音の世界の中で…」
「歪、む…?」
意味深な和音の言葉に、表情を曇らせるアヒル。
「五十音の世界は、“神”の存在は…少なからず、人の心を狂わせていきます…」
夜の闇に、しっとりと響く和音の声。
「篭也と檻也もまた、狂わされた人間の一人…」
和音がそっと、眉をひそめる。
「皮肉なものだと、そう思われませんか…?安の神」
明るく照らす月を見上げながら、和音がゆっくりと問いかける。
「もし、“神”という存在がなければ…彼らはごく普通の、仲の良い兄弟のままでいられたかも知れないのに…」
「“神”という、存在…」
―――神の救いなどっ…僕は認めない…!―――
―――俺だけが…“神”だぁぁ!!―――
脳裏に浮かぶ、必死に叫んでいた灰示やイクラの姿。あの二人と同じように、篭也もまた、“神”という存在に、人生を狂わされた人間なのかも知れない。
「救うも“神”、狂わせるも“神”…神は色々と忙しいですわね」
「忙しいって、あんた…」
「和音様?」
『……?』
微笑む和音に、アヒルが眉をひそめていたその時、ふと横から声が入って来て、アヒルと和音は同時にその声の方を振り向いた。
「時定」
「どうなさったのです?こんな場所で」
二人の前へと現れたのは、甚平姿の青年、時定であった。
「ん?」
「へっ?」
時定がアヒルへと視線を移し、見られたアヒルが困ったように目を丸くする。
「今日はお客人の多い日ですね」
「こちら、檻也専属の世話役を務めております、時定ですわ」
「時定と申します」
「あ、ああっ」
和音からの紹介を受け、深々と頭を下げる時定に、少し戸惑いながらも頷くアヒル。
「時定、こちらは客人は客人でも、とても特別なお客人ですわよ」
顔を上げた時定に、和音が微笑みかける。
「なにせ、あなたの主人と同じ、神様ですから」
「神っ?」
「ええ、安の神ですわ」
「安の、神…」
和音の放った言葉を繰り返しながら、時定がまじまじとアヒルを見つめる。
「他団の神を立ち入らせるなど、また無茶をされましたね、和音様」
「わたくしはわたくしの意志に従うのみですわ」
少し呆れたように見つめる時定に対し、和音は得意げに微笑んで見せる。
「丁度、良かったですわ、時定」
和音が改めて、時定の名を呼ぶ。
「安の神を、己守さんのところまで、お連れしてくれません?」
「己守?小泉様のところへですか?」
「ええ、安の神のお友達だそうですわ」
「友達…?そういえば、同じ制服を着ていらっしゃいますね」
アヒルが着ている制服を確認し、時定が納得するように頷く。
「それは構いませんが、檻也様の許可は…」
「出ているはずが、ありませんでしょう?」
「です、よね…」
自信を持って答える和音に、時定ががっくりと肩を落とす。
「わたくしの指示だと、檻也にはそう伝えていただいて構いませんわ」
「そう言うと余計、檻也様の機嫌を損ねるから困るのですがっ」
和音から視線を逸らし、そっと呟く時定。
「まぁ何とかなるでしょう。お連れしますよ」
「ありがとうございます、時定」
笑顔を見せる時定に、和音が礼を言う。
「では安の神、わたくしは別の用がございますので、申し訳ありませんがここで」
「ああ、わかった。入れてくれてサンキューな、言姫さん」
「いいえ。では後はお任せしますわよ、時定」
「はい」
庭から再び、屋敷の方へと歩き去っていく和音に、時定が深々と頭を下げる。やがて和音は屋敷の中へと入り、アヒルからはすっかり姿が見えなくなった。
「では参りましょうか。こちらへどうぞ、朝比奈様」
「ああ、悪い。って、あれ?」
時定の後をついていこうとしたアヒルが、不意に足を止め、首を捻る。
「どうかされました?」
「へっ?あ、い、いやっ」
振り返り、不思議そうに問いかける時定に、アヒルは誤魔化すように、慌てて首を横に振った。
その頃、於崎家離れでは、アヒルと別れた篭也たち安団の面々が、待機していた。
「…………」
縁側に立った篭也は、神妙な顔つきで、空に浮かぶ明るい月を見上げている。
「大丈夫かな?朝比奈くん」
「……っ?」
急に背後から聞こえてくる問いかけに、すぐに振り返る篭也。
「奈々瀬」
「ちゃんと、小泉くんと話出来てるといいけど…」
離れの中から、その場へと現れたのは、七架であった。屋敷に入ったアヒルのことを気に掛けているのか、その表情はあまり晴れやかではない。
「心配ない。あの人は阿呆ではあるが、相手に対して、どこまでも真っ直ぐな言葉を向ける人間だ」
「そうだね」
答えながら、再び月を見上げる篭也の横へと、七架がゆっくりと歩み寄る。
「……私にもね、弟がいるの」
「……っ」
不意に呟く七架に、空を見ていた篭也の表情が曇る。
「あ、でもっ、神月くんのところと違って、全然仲はいいんだけどねっ!」
「随分とまた、失礼な発言だな…」
必死に主張する七架に、篭也が思わず顔をしかめる。
「だからかなっ…あんまり想像つかないんだよね…」
七架が少し、視線を落とす。
「神月くんと、弟さんみたいな関係っ…」
「…………」
その七架の言葉に、そっと瞳を細める篭也。
「思い出せないんだ」
「えっ…?」
小さく声を落とす篭也に、下を向いていた七架が顔を上げる。
「昔はごく普通の、仲の良い兄弟だったはずなのに、今はその時のことすら、思い出せない」
「……っ」
篭也の言葉に、曇る七架の表情。
「仲の良い兄弟に戻ることなど、遥か昔に諦めたし、もう檻也にとって、僕は兄でも何でもないとわかっている…」
落ち着いた口調で、篭也が言葉を続ける。
「だが…」
そっと、付け加えられる言葉。
「神の、神の兄弟を見ていると、羨ましく思う…」
―――恋盲腸は、日本人の心のバイブルだぞぉ!アヒル!―――
―――今日も朝一、呪ってあげようか…?アヒルくん…―――
―――スー兄もツー兄もうっせぇよっ!―――
「羨ましく、映る…」
何でも言い合うことのできる、心を通わせ合った兄弟。その兄弟の暮らしは、毎日が本当に楽しそうで、その日々すら得ることのできなかった篭也には、とても眩しいものに映ったのである。
「神月くん…」
話しを続ける篭也を、七架はまっすぐに見つめる。
「こんな僕でもまだ、普通の兄弟に憧れる気持ちがあったことに、驚いっ…」
「神月くぅ~~んっ!」
「……っ」
しんみりとした空気で、篭也が言葉を言い終えようとしたその時、その場の空気を一蹴するような間の抜けた声を放って、庭から保が駆け込んできた。
「何だ?バカ市」
「はぁ!名前をバカ市保に変えたっていいくらい、馬鹿ですみませぇ~ん!」
言葉を邪魔され、あからさまに不機嫌となって、保を睨みつける篭也に、保が着いた途端に、思い切り謝り散らす。
「どうかしたの?高市くん」
「それが、真田さんがいないんですよぉ~!」
「囁が?」
困ったように言い放つ保に、篭也が眉をひそめる。
「あいつのことだ。その辺りで寝てるんじゃないか?」
「離れの中、三回も探したんですけど、全然いないんですよぉ!」
適当に答える篭也に、保が必死に言い返す。
「もしかして、朝比奈くんを追って屋敷の中へ…?」
「いや、それはないと思うが…」
「あら…?どうかしたの…?」
『……っ』
離れの中から聞こえてくる声に、三人が同時に振り向く。
「真田さんっ」
「みんなで縁側に集まって…密会…?フフフっ…」
いつものように不気味な笑みを浮かべながら、中から縁側へと、ゆっくりと歩み寄って来るのは囁であった。
「居るじゃないかっ」
「はぁ!とんだ節穴ですみませぇ~ん!でも、本当にちゃんと探したんですぅ~!」
「あらあら、騒がしいわね…」
篭也に責められ、謝り散らしている保を見て、囁が楽しげに笑う。
「どこかへ行っていたのか?囁」
「どこか…?ああ」
問いかける篭也に、思い出したように頷く囁。
「死んだお爺ちゃんが近くまで来てたものだから…ちょっとお話を…」
「ひっやぁぁぁ~!おじいちゃん、カムバックぅぅ~!」
自然と話す囁に、保が尋常ではない悲鳴をあげる。
「喚くな。囁の冗談に決まっているだろう」
「へぇっ?そうなんですかぁ?」
「フフフっ…」
問いかける保に微笑みかけるだけで、囁は明確な答えを言おうとはしなかった。
「夕御飯、屋敷の人たちが用意してくれたらしいわよ…」
「本当っ?良かったぁ。実はお腹減ってたんだよね」
「俺もですぅ~!はぁ!こんな明らかに栄養足りてる俺が、さらに飯食おうとしちゃって、すみませぇ~ん!」
七架と保が嬉しそうに、離れの中へと入っていく。
「篭也も…別に食欲はあるんでしょう…?」
「ああ、すぐ行っ…ん?」
振り向いた篭也が、囁の方を見て、少し眉をひそめる。
「どうか、したのか…?」
「えっ…?」
急な篭也の問いかけに、囁が戸惑いの表情を見せる。
「何が…?」
「えっ?あ、いや、悪い。何でもない」
囁に聞き返されると、答えに詰まり、篭也は少し首を横に振って、七架と保の後に続くように、離れの中へと入っていった。縁側に、囁だけが残る。
「…………」
月明かりに照らされ、囁はどこか神妙な表情を見せた。




