Word.24 おノ神ハ弟 〈3〉
戻って、言ノ葉町。小さな町の八百屋さん『あさひな』二階。
「ぶっはぁぁっ…」
七架と別れ、家へと戻って来たアヒルは、制服も着替えないままベッドに転がり、深い溜息を、止めどなく吐き続けていた。
「はぁっ…」
「……っ」
部屋の壁にもたれ、恋盲腸の本を読んでいた囁が、そんなアヒルの様子を見て、そっと本を閉じる。
「アヒるん…」
「んあっ?」
「溜息一回吐くごとに五百円罰金だから…今で合計、二万三千円ね…」
「ちょい待てぇぇ!」
囁の言葉に、アヒルがベッドから勢いよく起き上がる。
「誰がいつ、そんなゲームに参加するっつったぁ!?」
「さっき、テレパシーで言ってたじゃない…」
「言うかぁ!」
「あら、言ってなかった…?フフフっ…」
勢いよく突っ込むアヒルに、囁は何やら楽しげに微笑む。
「だって…アヒるんの溜息が、あんまりうるさいんですもの…」
「仕方ねぇだろ?俺だって、たまには悩むこともあるんだよっ」
ベッドの上に座り直しながら、アヒルが大きく顔をしかめる。
「あら…?“悩んでた”の…?」
「あのなぁっ、お前、俺を悩みのない生物かなんかだと思っ…」
「“後悔してる”のかと思った…」
「……っ!」
囁の言葉に、言い返そうとしていたアヒルが思わず言葉を止め、大きく目を見開く。
「金平糖を於の神と行かせちゃったことを…後悔してるのかと思った…」
「そ、れはっ…」
鋭い笑みを向ける囁から目を逸らし、アヒルがそっと俯く。
「神っ」
『……っ?』
その時、部屋の扉が勢いよく開き、少し慌てた様子で、篭也が入って来る。
「あら、篭也…あなた、スズメさんと一緒に、恋盲腸のスペシャルトークライブに行ったんじゃなかったの…?」
「お前も行ったのかよ!」
囁の言葉を聞き、思わず突っ込みを入れるアヒル。
「ああ。だが急に思い立ってな、待っているヒトミに心の中で別れを告げて、ここへ戻って来た」
「まぁ、ヒトミはお前を待っちゃいねぇと思うけどな…」
真剣に答える篭也に、アヒルがひっそりと呟く。
「篭也がヒトミを置いてくるなんて…明日の天気はヤリね…」
「だから、ヒトミは待ってねぇって」
同じく真面目な表情で呟く囁に、アヒルがまたしてもひっそりと突っ込む。
「けど、何だって、んな大事なライブ抜けて、帰って来たりなんかっ…」
「出掛ける支度をしろ、神」
「へっ?」
問いかけようとしたアヒルが、篭也の言葉に目を丸くする。
「出掛けるって、どこにっ…ああ!まさか、俺までトークライブに参加させようってんじゃっ…!」
「於の神の、於崎の屋敷へだ」
「えっ…?」
「……っ」
思いがけない篭也の答えに、アヒルが戸惑いの声を漏らし、囁もそっと眉をひそめた。
「お、於崎の屋敷っ…?」
「ああ、僕が案内する。そこに小泉がいるはずだ」
戸惑うアヒルに、篭也が迷いのない口調で答える。
「篭也、あなた…」
「ちょ、ちょい待てっ!」
何かを言いかけた囁の声を遮り、アヒルが大きく叫ぶ。
「な、何だよ?急にっ。於崎の屋敷ってのは、お前にとっても、あんま行きたくねぇ場所なんだろっ?」
眉間に皺を寄せたアヒルが、篭也へと問いかける。
「それに、朝言ってただろ?俺らが何したところで、己守になるかどうか決めんのは紺平でっ…」
「別に、小泉が己守になるかどうかなど、どうでもいい」
「はぁっ?」
篭也の答えに、アヒルが大きく顔をしかめる。
「どうでもいいって、じゃあなんでっ…」
「あなたはまだ、小泉に何も言っていない」
「……っ」
強く言い放つ篭也に、ハッとした表情を見せるアヒル。
「謝るにしろ、怒るにしろ、泣くにしろ、何か、言葉は伝えるべきだ」
部屋の奥へと踏み込み、ベッドに座るアヒルの正面へと立った篭也が、アヒルへとまっすぐな瞳を向ける。
「そうしなければ、必ず悔いが残る」
強い瞳で、アヒルを見続ける篭也。
「あなたも言葉の神なのなら、言葉から逃げることはするなっ」
「篭也…」
力のあるその篭也の言葉に、アヒルがそっと眉をひそめる。
「…………」
「アヒるん…」
考え込むように俯くアヒルを、囁がどこか心配するように見つめる。少しの間を置いた後、アヒルがゆっくりと顔を上げた。
「よし!行っ…!」
「アヒルさぁぁ~~んっ!」
「どわあああ!」
張り切って言葉を発しようとしたアヒルであったが、その声は、窓から勢いよく入って来た保の大声に、あっという間に掻き消された。
「た、保っ…俺、今カッコよく言おうとし…ってかお前、どっから入ってきっ…」
「為介さんから、話はすべて聞きましたよぉ~!アヒルさぁ~ん!」
「へっ?」
窓の外からベッドの上へと降り立ち、勢いよくアヒルの手を取る保に、アヒルが目を丸くする。
「今度は地上侵略を企む地底人の軍団に、紺平さんをさらわれてしまったんですってねぇ~!」
「あの扇子っ…また適当なことを…」
「毎度毎度、簡単に騙されてくるわね…フフっ…」
切羽詰まった様子で叫ぶ保に、一気に呆れた表情となるアヒルの後ろで、囁が楽しげに微笑む。
「今回も、こんなデカいだけの俺でお役に立てることがあればっ、手を貸しますよぉ!ぜひぃ!」
「役に立てることなどない。帰れ」
「いっやぁ~!神月くん、ばっさりぃ~!」
冷たく言い放つ篭也に、保がさらに声の音量を上げる。
「フフっ…良かったわね、頼もしい仲間が一人増えて…」
「頼もしい、のか?あれっ…」
微笑む囁に対し、どこか呆れた様子で肩を落とすアヒル。
「まぁいっか。訳わかってなくても、まぁあいつも一応は安団なわけだし」
「じゃあ、私も行っていいかな?」
「へっ?」
部屋へと入って来る新たな声に、アヒルが戸惑いの表情で顔を上げる。
「私も一応、安団なわけだし」
「奈々瀬!」
開いたままであった部屋の扉から、中へと姿を見せたのは、笑顔を見せた七架であった。現れた七架に、アヒルが驚きの表情を見せる。
「お前、なんでここにっ…」
「小泉くんのこと、やっぱり気になっちゃって…それに」
戸惑いながら問いかけるアヒルに、七架が穏やかな笑顔を向ける。
「朝比奈くんなら絶対、“行く”って言うって思ったから」
「奈々瀬っ…」
アヒルを信じきった笑みを浮かべる七架に、アヒルがそっと目を細める。
「フフフっ…何だかんだで全員揃っちゃったわね…」
「神附きとして、当然の責務だろう」
「面白くない答え…フフフっ…」
素っ気なく答える篭也に、囁がそっと笑みを浮かべる。
「ありがとう。みんなっ…」
『……っ』
そっと笑みを浮かべ、礼を言うアヒルに、篭也たち四人が皆、それぞれに笑みを見せる。
「では、神」
「ああ」
呼びかける篭也に、アヒルが大きく頷き、立ち上がる。
「今から於の神ん家に、紺平のところに行く」
アヒルが目つきを鋭くし、はっきりとした口調で皆へと言い放つ。
「俺に附いて来てくれ!」
『仰せのままに、我が神』
強く叫ぶアヒルに、篭也たち四人が、声を揃えた。
『お帰りなさいませ、檻也様』
「ああ」
一方、棘一たちと別れ、屋敷内へと入った檻也と紺平は、どこかの公園かとも思える広い中庭を通り、屋敷のさらに奥にある建物へと向かっていた。中庭には、どこから沸いて出てきたのか、山程の使用人たちが列をなし、皆、檻也へ向け、深々と頭を下げている。
「す、凄いねっ…」
頭を下げている使用人たちを見回し、思わず顔を引きつる紺平。一般家庭に生まれ、ごく普通に生きてきた紺平にとって、この景色は、とても見慣れないものであった。
「お坊ちゃまなんだ、檻也くんて…」
「別に、皆、俺に頭を下げているわけじゃない」
「えっ…?」
すぐさま返って来る檻也の言葉に、後ろを歩く紺平が、少し首を傾げる。
「皆、俺の“於の神”という称号に、頭を下げているだけだ」
「……っ」
その言葉は冷たく、そしてどこか諦めているようにも聞こえ、紺平はそっと表情を曇らせた。
「そ、それにしても、大きなお家だよね!神月くんも、ここで育ったの?」
「…………」
重くなった空気を変えようと、無理やり話題を変える紺平。だがその問いかけに、檻也は強く眉をひそめた。
「篭也がこの家に居たのは、五歳までだ」
「えっ?五歳?」
「それからは、屋敷内に立ち入ることさえ、禁じられたからな。育ったとは言えないかも知れないな」
「あぁっ…」
またしても重くなる空気に、今度は話題を変えることすらできずに、紺平はどっか気まずそうな表情で俯いた。
「ここが本邸。於崎の屋敷の中でも、ごく一部の者しか立ち入れない場所だ」
「えっ?」
あれこれと話している間に、二人は広い中庭を渡り終え、敷地内の一番奥にある、より一層立派な屋敷へと辿り着いていた。敷地内にさらに存在する門を通り、檻也たちがその屋敷の囲いの中へと足を踏み入れる。
「お帰りなさいませ、檻也様」
「んっ?」
門をくぐってすぐのところで出迎える声に、檻也が顔を上げる。
「時定」
屋敷の前に立ち、檻也と紺平を出迎えたのは、紺色の甚平姿の、金髪の青年であった。二十代半ばくらいであろうか。青年が心優しそうな、爽やかな笑みを、檻也へと向ける。
「ご無事で?」
「ああ、この通りな」
「それは何よりでございました」
安心した微笑みを見せ、時定と呼ばれた青年が深々と頭を下げる。
「これはこの屋敷で唯一、俺個人の世話役をしている時定だ」
「時定にございます」
「あ、ああ、えと、小泉です。ど、どうもっ」
頭を下げる時定に、紺平が少し慌てた様子で頭を下げる。
「何かあれば、こいつに言うといい」
「檻也様の神附きは、私にとっての神。何なりと、お申しつけ下さいませ、小泉様」
「は、はぁ…」
まるで崇めるような態度を取る時定に、どこか困惑した様子で頷く紺平。
「時定、空音はいるか?」
「空音様でしたら先程、裏庭の方に。お呼びしましょうか?」
「いや、いい。裏庭を通って行く」
問いかける時定に軽く手をあげ、檻也が足を進める方向を変える。
「こっちだ」
「あ、うん」
檻也に誘導され、二人はそのまま屋敷の中には入らず、囲いに沿うようにして屋敷の周囲の庭を歩き、屋敷をぐるっと回って、裏にある広い庭へと出た。
「あっ」
「…………」
庭の真ん中に立っている人影を見つけ、紺平が思わず声を漏らす。そこに立っていたのは、鮮やかな水色の着物を纏った、一人の少女であった。肩ほどまで伸びた黒色の髪に、大きな黒色の瞳のその少女は、首を大きく曲げ、ひたすらに上に広がる空を見つめている。
「空音」
「…………」
「空音っ」
「えっ…?」
一度目、檻也が呼んでもまったく気付かなかったその少女が、二度目、強く呼ぶ声に、空を見上げていた顔を下ろし、やっとのことで振り向く。
「あっ…神…」
檻也の姿を視界へと入れたその少女が、そっと穏やかな笑みを浮かべる。
「戻られたのですね。お帰りなさいませ」
美しい微笑みを、檻也へと向ける少女。
「ああ。また空を見ていたのか?」
「ええ…」
問いかける檻也に、少女が微笑んで頷く。
「空が…とても荒々しく動いていたので…」
そう言いながら、再び上空を見上げる少女。
「まるで…世界が変わる、その前兆のようで…」
「空が…動く…?」
見上げる少女につられるように、紺平も首を曲げ、空を見上げる。だが空はただの空で、紺平が見る限り、少しも動いているようには見えなかった。
「神…そちらは…?」
「ああ。小泉紺平、次の己守候補だ」
「彼が…」
「ど、どうもっ…」
檻也に名を紹介され、状況を理解していないながらも、少女へと頭を下げる紺平。
「こいつは空音。曾守で、棘一、海苔次と同じ、於附の一人だ」
「ソ、モっ…?」
「今のお前には言ってもわからないか。空音」
大きく首を傾げる紺平に、檻也はどこか諦めるように肩を落とした後、再び空音の方を見た。
「こいつに五十音士のことや、神附きのことを説明しろ」
「話もされていないのに、ここまで連れて来られたのですか…?」
「棘一が勝手をしたんだ」
少し眉をひそめる空音に、檻也が答えながら顔をしかめる。
「棘一とまた、おモメに…?」
「いつものことだ。気にする必要はない」
「棘一にも困ったものですわね…」
檻也は素っ気なく答えるが、空音はどこか困ったように肩を落とした。
「こいつが十分に理解した上で、己守になるかどうかを決めさせる。説明は丁寧に行え」
「わかりました…」
檻也の言葉に、空音が深々と頷く。
「俺は屋敷内に居る。終わったら、呼べ」
「はい…」
しっかりと頷きながら、空音が頭を下げると、それを確認した檻也が、裏庭にある入口から、足早に屋敷の中へと入っていった。檻也の姿がなくなると、空音がゆっくりと顔を上げる。
「はぁっ、かったるっ」
「へっ?」
急にその口調を乱雑なものへと変え、今までの大人しそうな雰囲気を一変させる空音に、紺平が戸惑うように目を丸くする。
「なぁ~にが“丁寧に行え”よっ。そこまで言うんなら、自分でやれっつーのっ」
「あ、あのぉ~っ…」
「んっ?」
美しい微笑みを浮かべていたその表情をしかめ、あれこれと文句を口にしていた空音が、どこか恐る恐る声を掛ける紺平に、面倒そうに振り向く。
「何っ?」
「えぇ~っと、これはそのぉ…」
言葉を選ぶように、紺平が間を置く。
「蜃気楼か何かで?」
「んなもんが、ここで見えるわけないでしょっ。あんた、バカぁ?」
さらに顔をしかめた空音が、紺平へと容赦なく、言葉を吐き捨てた。
「今までのは演技よ、演技っ。空の動きなんか、わかるかっつーのっ」
「え、演技?」
空音の言葉に、さらに目を丸くする紺平。
「なんで、そんな真似っ…」
「神に気に入ってもらうためよ」
紺平が問いかける前に、空音が即答する。
「いっくらムカつくっつったって、神に嫌われたんじゃ、神附きとして色々と都合悪いしねぇ~」
「そ、そうなんだ…」
割りきった様子ではっきりと答える空音に、紺平が少し呆然としながら頷く。
「ここにいる人間なんて、みんな、そんなもんよぉ?」
はっきりとした口調で、空音がさらに言葉を続ける。
「あんな奴、神でさえなきゃ、誰も相手にしないんだからっ」
「……っ」
空音の言葉に、曇る紺平の表情。
―――皆、俺の“於の神”という称号に、頭を下げているだけだ…―――
「…………」
先程の檻也自身の言葉を思い出し、紺平はどこか考え込むように俯いた。
「あんたも、あんな神に附くなんてやめた方がいいわよぉ?って、まだ色々と知らないんだっけ」
「は、はぁ…まぁ…」
空音が、確かめるように言い放つ。
「んじゃあ、とっとと説明を始めちゃいましょうかっ」
「あ、うん」
振り向く空音に、紺平が頷く。
「こっち来てぇ~」
「あ、うんっ」
檻也が入っていったところとは別の入口から、屋敷の中へと入っていく空音を、紺平が少し慌てた様子で追っていく。
「そういえばガァも、“神”って呼ばれてたけどっ…」
入口付近で立ち止まり、紺平が思い出したように呟く。
「何か…ガァたちとは、全然違う感じの雰囲気だなっ…」
どこか浮かない表情を見せながら、檻也が入っていった方の入口を見つめる紺平。
「どうなるんだろ…これからっ…」
紺平は少し不安げに呟き、先程まで空音が見上げていた空を、そっと見上げた。




