Word.23 異国ノ音士 〈5〉
翌朝、言ノ葉町三丁目『あさひな』。
「だっから俺が呼んだのは、ナウマン象だっつってんだろ!?」
静かな朝から、朝比奈家の居間に響き渡る、アヒルの大声。
「なんで、ほうれん草投げつけてくんだよ!」
「だって、見事に語呂が合ってるじゃなぁ~いっ」
「何が見事にだ!」
睨みつけるように見るアヒルの視線の先で、どこか得意げな笑みを浮かべている朝比奈家の父。どうやら今日の朝の攻防では、ほうれん草が投げられたようである。
「どうでもいいけどよぉ」
そこに、洗濯を干し終えたのか、庭から戻って来たスズメが口を挟む。
「そろそろ学校行かないと、また遅刻すっぞぉ?アヒル」
「へっ!?もうそんな時間?」
「今、八時十五分だよ…」
焦ったように振り向くアヒルに、台所で洗い物をしていたツバメがそっと答える。
「もう十五分?紺平来てねぇーから、まだ五分くらいかと思ってた」
壁の掛け時計を確認しながら、アヒルが意外そうに呟く。
「とっとと行くぞ、神。こちらまで資料室掃除は、御免だからな」
「えっ?でもまだ、紺平がっ…」
「委員会か何かなんじゃない…?とりあえず、学校に向かいましょう…」
「あ、ああっ」
囁に説得されるように言われ、アヒルが少し詰まりながらも頷きながら、篭也たちとともに店の通用口を通り、家の外へと出る。
「……っ」
いつも紺平のやって来る方角を振り返りながら、アヒルはそっと目を細めた。
言ノ葉高校、一年D組。朝のホームルーム。
「小泉」
いつものように出席簿を持った恵の声が、教室に響き渡る。だが、その声に返って来るはずの声はなく、教室は一瞬、静まり返った。
「んあ?小泉は休みか?」
出席簿を見つめていた顔を上げ、恵が窓際の、アヒルのすぐ後ろの席を見る。
「何だ?鞄はあるじゃねぇかっ」
アヒルの後ろの紺平の席に置いてある鞄を見つけ、顔をしかめる恵。
「おい、トンビ」
「だっから、俺はアヒルでっ…!」
「お前、ちょっと探して来い」
「へっ?」
いつものように名前を訂正しようとしたアヒルが、恵のその言葉に、目を丸くする。
「さ、探す?」
「ああ、とっとと行け。じゃないと、遅刻にすっぞ」
「どんな脅しだよ!ったく」
恵の横暴加減に文句を放ちながら、少し肩を落としたアヒルが席を立ち、紺平を探すため、教室を出て行く。
「紺平がサボりなんて珍しいわねぇ~」
「…………」
意外そうに呟く想子の前の席で、教室から出て行くアヒルの姿を見つめながら、少し目を細める七架。
「どうかした…?」
「いやっ…」
そっと問いかける囁に、篭也はどこか誤魔化すように首を振る。
「じゃあ出席、続けるぞぉ~」
再び出席簿へと視線を落とした恵が、皆へ向けて言い放つ。
「……っ」
出席簿の名前を指でなぞりながら、恵はどこか、神妙な表情を見せた。
「…………」
その頃、紺平はホームルームには出ずに、誰もいない学校の屋上で、柵に両肘をかけ、まだ誰もいないグランドと、どこまでも広がる言ノ葉町の町並みを、落ち着いた表情で眺めていた。
「あ、いたいた!」
「……っ?」
後方から聞こえてくる声に、景色を見つめていた紺平が、ゆっくりと振り返る。
「んなとこで何してんだよ?紺平っ」
「ガァ」
屋上へと現れたのは、恵に言われ、紺平を探しに来たアヒルであった。振り返った紺平が、ゆっくりとアヒルのあだ名を口にする。
「お前がサボりなんて、珍しいなぁ。恵先生も、ちょっと驚いてたぞ?」
紺平へと話しかけながら、紺平の方へと歩み寄っていくアヒル。
「今日、ウチに迎えにも来なかったし、お前、何かあっ…」
「ガァさ」
「んあっ?」
アヒルの問いかけを遮って名を呼ぶ紺平に、アヒルが少し首を傾げる。
「土日、何してた?」
「へっ?」
いきなりの紺平の問いかけに、アヒルが目を丸くする。
「んだよ?急に」
「何となく。何してたかなぁと思って」
「何って、えぇ~っと…」
その問いかけに、少し言葉を詰まらせるアヒル。土日といえば、アヒルは神試験のため修行に行き、そのまま神試験を受けていた。だがそれを、紺平に話すわけにはいかない。
「ず、ずっと家でゴロゴロしてたぞぉ!」
「……っ」
少し上ずった声でアヒルが答えると、紺平はそっと目を細める。
「俺、日曜に行ったよ?ガァん家」
「へっ!?」
アヒルに背を向け、再び景色を眺めながら言い放つ紺平に、アヒルが思わず、焦ったような声を出す。
「ツバメさんには、課題があるから神月くんたちの家に泊まってるって言われたけど…神月くんたちの家も留守だった」
「あ、あぁ~っと…」
言葉を続ける紺平に、アヒルが気まずそうに頭を掻く。
「じ、実はあの日は、みんなで家族には内緒のドキドキピクニックをだなぁっ…!」
「本当のこと言ったら、俺を傷つけるの?」
「えっ…?」
入って来る紺平の問いかけに、止まるアヒルの言葉。
「だって、そういう時でもないと、ガァは俺に言わないでしょ?」
紺平が再び、ゆっくりとアヒルの方を振り返る。
「“嘘”って」
「紺平っ…」
そっと微笑む紺平に、アヒルが少し目を細める。
「傷つけるとか、そういうわけじゃねぇーけどっ…」
―――ガァっ…―――
以前、紺平は、忌に取り憑かれ、アヒルを傷つけ、涙を流した。その時の記憶は、勿論、今の紺平にはない。アヒルが神のことを、忌のことを話せば、あの時のことを、紺平は思い出してしまうかも知れない。アヒルは、それだけはどうしても、避けたかった。
「俺はっ…」
「ガァは、言葉が人を傷つけるって知ってるから、必死に言葉を隠すんだろうけど…」
「……っ」
静かに言い放つ紺平のその言葉に、そっと目を細めるアヒル。
「でも…じゃあ、何も言わなければ…傷つけない…?」
「えっ…」
紺平の問いかけに、アヒルが戸惑いの表情を見せる。
「何も話さないことは、傷つけることにはならない…?」
「紺平…」
まっすぐに向けられる紺平の瞳に、困ったような表情となるアヒル。
「そ、それはっ…!」
「こんなところに居たか」
「へっ?」
紺平に答えようと声をあげたアヒルが、すぐ後ろから聞こえてくる声に、驚いた様子で振り返る。
「あっ」
「…………」
アヒルが振り返ると、そこには、鋭い瞳の、まだどこか幼さを残した顔立ちの青年が立っていた。制服を着ていないところを見ると、学校の生徒ではないらしい。
「お前、は…」
初めて会った青年なのだが、どこか見覚えのあるその顔に、アヒルは少し眉をひそめた。
「お前とこうして直接会うのは、これが初めてか。安の神」
「えっ?」
青年の言葉に、アヒルが目を丸くする。
「な、なんで俺が安の神ってことっ…」
「俺の名は、於崎檻也」
「オリ、ヤっ…?」
聞き覚えのあるその名に、アヒルが首を傾げる。
「お前と同じ五神の一人、“於の神”と呼ばれる者だ」
「えっ…!?」
檻也のその言葉に、アヒルが衝撃を走らせる。
「神っ…?於の、神…?」
目の前に現れた自分とは別の神に、困惑の表情を見せるアヒル。
「ガァ、知り合い?」
「あっ…」
柵の方から怪訝そうな表情で問いかける紺平に、アヒルがハッとした表情となる。
「あ、え、えぇ~っと、そのだな、あぁ~っ」
それでも真実を告げられず、口ごもるアヒル。
「お、おい、お前!話なら後でするから、今はちょっと下がっ…」
「誰がお前に話があると言った」
「へっ?」
アヒルに突き放すように言い放つと、間の抜けた顔を見せたアヒルの横を通り、檻也が紺平の方へと歩いていく。
「俺が用があるのは、お前だ。小泉紺平」
「えっ…?俺…?」
檻也に名を呼ばれ、紺平が戸惑うように眉をひそめる。
「あのぉ、俺、君と会ったこととかあったっけ…?」
「初対面だ」
どこか遠慮がちに問いかける紺平に、檻也が素っ気なく答える。
「小泉紺平」
檻也が紺平の前に立ち、もう一度、紺平の名を呼ぶ。
「お前を、俺の神附き、“己守”に指名する」
「えっ…?」
「なっ…!」
檻也のその言葉に、首を傾げる紺平と、大きく目を見開くアヒル。
「こ、紺平をっ…己守に…?」




