Word.22 執着ト覚悟ト 〈2〉
――――その人は、俺に、“祈る”という言葉を、教えてくれた人だった。
十数年前、小さな町の片隅にある、小さな養護施設が、イクラたちの帰る家だった。
「イクラくん、金八くん、シャコちゃんっ」
その施設で働いていたのは、たった一人のまだ若い女性だった。小さい頃、すでに親のなかったイクラたちを施設に引き取ると、女性は、大好物の海産物から、イクラたち三人にそれぞれ名前をつけた。女性はイクラたち三人を、まるで本当の子供のように、心底可愛がり、大事に大事に育てた。
「なぁに?“先生”」
そのたった一人の育て親のことを、イクラたちは親しみを込めて“先生”と、そう呼んでいた。
「お祈りの時間よ」
先生は、決まった時間に、決まってそう言う。
「さぁ、私たちの“神様”に、祈りを捧げましょう」
『はぁ~い』
イクラたちは素直に、その言葉に従っていた。施設にある大きな十字架の前で手を組み、膝をつき、瞳を閉じて、先生に言われた通り、イクラたちは祈りを捧げた。
「ねぇ、先生」
祈りが終わった後、金八が先生に問いかけた。
「どうして僕たちは、毎日、神様に祈るのぉ?」
「それはね」
首を傾げたイクラたちに、先生はどこか誇らしげな笑みを浮かべる。
「祈りを捧げれば、神様が私たちに“救い”を下さるからよ」
「救い?」
「幸せにしてくれるってことよ」
『へぇ~っ』
小さい頃から親がいなくて、些細な幸せさえ程遠かったイクラたちにとって、その言葉は、とても眩しいものだった。その言葉に金八たちは目を輝かせた。
「幸せ…?本当に?」
「本当よ」
疑うように問いかけたイクラに、先生は笑顔で大きく頷く。
「じゃ、じゃあ俺、毎日しっかり祈る!」
「あ、あたいも!」
「フフフ」
必死に手を挙げる金八やシャコを見て、先生は嬉しそうに笑った。
「イクラくんは?」
「俺は…」
振り向いた先生に問いかけられ、イクラは少し口ごもる。
「他人に頼るのって、好きじゃない」
「イクラの意地っ張りぃ~」
「うっせぇ!泣かすぞ!金八!」
「俺、泣いちゃうぅ~!」
「こらこら」
モメ出すイクラと金八を宥めながら、先生がもう一度、イクラへと笑顔を向けた。
「そうねぇ。じゃあイクラくん、先生が祈ってもいい?」
「えっ?」
先生の言葉に、イクラは戸惑うように声を漏らした。
「イクラくんが幸せになれるように、先生が神様にお祈りしてもいいかな?」
「べ、別にいいけどっ…」
「じゃあお返しに、イクラくんも神様に祈ってくれる?」
「えっ…?」
その言葉に、イクラは少し眉をひそめる。
「私が、大好きな海産物を、たらふく食べれますようにって」
「海さっ…?」
「フフフ、冗談よ。ちょっと本気だけど」
呆れたような表情を見せたイクラに、先生は悪戯っぽく微笑んだ。
「私が幸せになれますようにって」
「先生、が…?」
微笑む先生を見つめながら、イクラがゆっくりと聞き返す。
「俺が祈ったら…先生は嬉しい…?」
「もちろんっ」
「……っ」
笑みを大きくして頷く先生に、イクラはそっと目を細めた。喜んでほしい。嬉しいと笑ってほしい。赤の他人をとても大切に育ててくれた先生に、ただ、幸せになってほしいと、イクラはそう思った。
「うん、わかった」
「ありがとう、イクラくん」
頷いたイクラを見て、先生はさらに嬉しそうに笑う。
「さぁ、じゃあみんなでもう一度、祈りましょう」
先生の温かい手に包まれながら、イクラたちはまた、十字架の方を見る。
「みんなで、幸せになれるように」
『……っ』
それから毎日、手を組んで、膝をついて、瞳を閉じて、ただ、神に祈った。“幸せ”になれるようにと。
そんな日々が二年程続いた、ある日の出来事だった。
「先生っ!お祈りの時間だよぉ!」
時間になっても祈りの部屋へやって来ない先生を迎えに、イクラは先生の自室へ行った。
「先、生…?」
部屋の扉を開けても、何の返事も返って来ないことを不審に思い、イクラが首を傾げる。
「先せ…あぁっ…!」
部屋の中へと入り、周囲を見渡したイクラの視界へと飛び込んできたのは、床へと力なく倒れている先生の姿だった。その先生の姿を見て、イクラが大きく目を見開く。
「先生っ…!?先生!!」
すぐに病院へ運んだが、先生はそのまま、帰らぬ人となった。
身寄りのなかった先生の葬儀は、近所の人間の厚意で、施設内の祈りの部屋で、しめやかに行われた。もちろんイクラたち三人も、その葬儀に、親族として参列した。
「泣いちゃう。俺、泣いちゃうよぉ~っ!うわぁ~ん!」
「もう泣いてるっ…金八…うぅっ…」
金八とシャコは、先生の遺影を見ながら、ずっと泣いていた。
「栄養失調ですって。可哀想に」
「収入が少なくて、困ってたんでしょ?食料も全部、子供たちに優先させてたって」
「三人も引き取るから…これからあの子たち、どうなるのかしら…?」
「…………」
近所の人間の話を聞きながら、イクラはただ、先生の遺影の後ろに見える、毎日祈りを捧げていた、あの十字架を見ていた。
「神よ」
「……っ」
皆の前に立った神父の言葉に、イクラは大きく顔を歪めた。
「我々は今日、親愛なる友を、あなたのもとへと送ります」
十字架を見上げ、神父が言葉を続ける。
「神よ、願わくばこの者に、安らかなる永久の眠りを…」
「何が…神だ…」
「んっ…?」
イクラの落とした声に、神父が続けていた言葉を止める。
「何が…神だよっ…」
「イクラ…?」
泣いている金八たちの横で立ち上がり、イクラはまっすぐに神父のいる方へと突き進んでいく。
「お、おいっ、君っ」
「毎日、祈ったのに…」
止めようとする神父の手を振り切って、イクラは構わず、さらに足を進めた。先生の遺影も通り過ぎ、その後ろにある大きな十字架の前へと立ち、十字架を見上げた。
「先生が“幸せ”になれるようにって…祈ったのにっ…」
イクラの発する声が、徐々に震えていく。
「祈ったのにぃぃっ…!!」
イクラは強く叫びあげ、力一杯握り締めた拳を、その十字架へと叩きつけた。
「なんで…!なんでぇぇっ…!!」
「き、君っ…!」
「イクラ…!」
何度も何度も十字架に拳を叩きつけるイクラを止めようと、神父や参列者、金八とシャコも、皆が必死に駆け寄ってくる。
「やめるんだ…!君っ…!」
「祈ったのにっ…!祈ったのになんでっ…!なんで先生を救ってくれなかったんだよっ!!」
手を抑え込まれながらも、イクラは必死に叫び続けた。
「なんで先生を“幸せ”にしてくれなかったんだよぉっ…!!」
「イクラっ…!」
「やめてよ!イクラ!」
叫び続けるイクラを、金八とシャコが泣きながら、必死に止める。
「なんでっ…なんで…」
十字架に叩きつけた拳をそのままに、イクラが力なくその場にしゃがみ込む。
「なんでぇぇぇぇっ…!!」
叫びあげるイクラの瞳から、涙が飛び散った。
その日、夜。
「この施設、取り壊しになるんだって」
神父や参列者が皆帰り、三人だけとなった静かな祈りの部屋で、金八がポツリと呟いた。
「家族もいないし…僕たち、どうなるんだろ…」
金八がどこか不安げな表情を見せる。
「他の施設に行くことになるのかな…」
「神様にでも祈る…?親が見つかりますようにって…」
「イクラの前で、そういうこと言うなよ」
どこか皮肉って言い放ったシャコに、金八が注意するような視線を送る。
「俺は…」
『……っ』
ゆっくりと口を開くイクラに、金八とシャコが同時に振り向く。
「俺はもう…神になんて祈らない…」
「イクラ…」
何度も十字架に叩きつけ、赤く腫れあがった右手を握り締めながら、そっと呟くイクラ。そんなイクラを、金八たちが、どこか哀しげな瞳で見つめる。
「顔も知らない、神に祈るくらいなら…」
睨みつけるように十字架を見つめ、イクラがゆっくりと立ち上がる。
「俺が神になる」
『えっ…?』
はっきりと言い放つイクラに、金八とシャコが同時に戸惑いの声を漏らす。
「神になるって…」
「イクラ…?」
「救いもくれない神を信じるくらいなら、俺が神になる」
首を傾げる二人に、イクラは迷いのない言葉を向ける。
「金八、シャコ」
鋭い表情を見せ、二人へと呼びかけるイクラ。
「俺を信じるなら、附いて来い」
『……っ』
そのまっすぐな曇りのない瞳に、金八とシャコは、何か衝撃でも走らせたかのように、大きく目を見開いた。
「わかった…」
少し間を置いて、金八がゆっくりと答える。
「俺はイクラに、“神”に附いていく」
「あたいも…イクラを、“神”を信じるっ…」
「よし…」
二人の言葉を聞き、イクラは満足げに頷いた。
「附いて来いっ」
こうして三人は、先生に別れを告げ、育った施設を後にした。
“神”という言葉だけを頼りに、イクラが為介のもとへと辿り着いたのは、それから数年後のことだった。
「“い”の言葉の力を教えてほしいぃ~?」
「ああ」
不思議そうに聞き返した為介に、イクラははっきりと頷く。
「なぁんでまたぁ?“い”って、超微妙なとこだよぉ?」
為介が大きく首を傾げながら、イクラの方を見る。
「どうせ身につけるならぁ、“取れ”とか“増えろ”とか、もっと実用的な言葉のある文字の方がぁっ…」
「言葉の種類など、どうでもいい」
「へっ?」
はっきりと答えるイクラに、為介が目を丸くする。
「俺は、“神”になれれば、それでいい」
「神に、ねぇ…」
強い意志を覗かせるイクラを見つめ、少し疲れたように肩を落とす為介。
「まぁいいや。ボク、そういうくだらない執着ってわりと好きだしぃ」
扇子を開き、為介が明るく頷く。
「教えてあげるよ、“い”の力。けぇどっ」
言葉を付け加えた為介が、突き出した人差し指を、イクラの顔へと向ける。
「神になれるかどうかは、君次第だからねぇ」
「…………」
そっと微笑む為介を見つめ、イクラが目を細める。
「望むところだ」
こうして俺は、“祈る”ことを捨て、自らが“神”となる道を選んだ……――――
「そうだ…俺は“神”なんだ…」
過去の出来事を思い返し、もう一度確認するように、イクラがゆっくりと言い放ちながら、うつ伏せになっていた体を回転させ、水面の上で仰向けになる。
「俺は…“神”でなければ、ならないんだっ…」
言玉を握り締めた右手を、イクラが天井へと掲げる。
「だからっ…!」
声を震わせるイクラの言葉に反応するように、今までよりもさらに強い青色の光を放ち始める言玉。
「まだ、言葉を使う気かっ…?」
発生する強い光を見つめ、アヒルが戸惑うように声を漏らす。
「この、言葉っ…」
アヒルが見つめる中、イクラが言玉を握り締めたまま、水面の上でゆっくりと立ち上がる。
「二度と、口にすることもないと思っていた、この言葉をっ…」
立ち上がったイクラが、光り輝く言玉を掲げる。
「“祈れ”…!!」
「な、何だっ…?」
イクラの言葉とともに、一面震え始める水面に、上空に浮かぶアヒルが、首を傾げる。
―――バァァァン!
「あっ…!」
次の瞬間、イクラの背後の水面から、巨大な水の塊が勢いよく噴き上げ、真上の天井を突き破った。水の塊は徐々に空中で広がり、緻密な形を造り上げていく。
「あれはっ…」
形造られていく水の塊を見上げ、アヒルが眉をひそめる。
「人っ…?」
そこに形造られていくのは、一人の女性の水像であった。




