Word.2 泣イタ友ダチ 〈3〉
「ハァっ…!ハァっ…!」
家を飛び出したアヒルは、行く当てがあるわけでもなかったが、ただ必死に、全速力で、静かな夜の町を駆け抜けた。大きく揺れ動いた心臓は、収まることなく胸打ち続ける。その大きな鼓動とともに、徐々に不安が膨れ上がっていく。
「何だっ…!?この感じっ…!」
左胸を強く握り締め、自分でも戸惑うように言葉を吐くアヒル。
「嫌な…嫌な予感がするっ…紺平っ…!」
「金平糖がどうかしたの…?」
「ううわぁっ!」
まっすぐな一本道を必死に駆け抜けていたアヒルが、怪しげに響く声とともに、突然、曲がり角から飛び出してきた人影に驚き、声をあげて、足を止める。
「びっくりしたぁ!って、お前っ…!」
「こんばんは…」
曲がり角から出てきたのは、長い黒髪の少女。
「お前、今朝のっ…」
「真田囁よ…また会ったわね、朝比奈アヒル…フフフっ…」
それは、今朝、屋上でアヒルに忌の存在を知らせに来た少女、囁であった。囁の後ろには、屋上の時も共にいた、篭也の姿もある。驚いているアヒルとは対照的に、どこか楽しげに微笑んでいる囁。
「こんな時間に金平糖なんて食べたら…太っちゃうわよ…?」
「違っげぇーよ!俺は紺平っつーダチを探してるだけだっ!」
「友達を…?」
少し怒ったように答えるアヒルに、囁が眉をひそめる。
「ああ!そうだ!お前ら、見なかったかっ!?こうっ…」
両手を振り上げ、紺平の特徴を説明しようとするアヒル。
「“紺平”って感じの奴なんだけどよぉっ…!」
「すっごく説明、下手ね…フフフっ…」
何一つ伝わって来ないアヒルからの説明に、囁が小バカにするように微笑む。
「まぁいいわ!俺、とりあえず学校にっ…!」
『うわあああああ!』
『……っ!』
アヒルが学校へ向かおうと、囁たちから離れようとしたその時、道のアヒルが向かおうとした方向から聞こえてくる、複数名の悲鳴のような叫び声が聞こえてきて、アヒルたちが一斉に振り返った。
「あ、あれはっ…!」
『ぎゃあああああ!』
「ウチの学校の連中っ…?」
夜だというのに非常識なこと、この上ない大声をあげながら道を駆け抜け、アヒルたちの立っている所へと向かって来ているのは、アヒルの通う高校の制服を着た、数人の青年であった。アヒルは、その青年たちに見覚えがあった。確か、何度か遅刻常習者として一緒になっている。厳しく取り締まる紺平に、悪態づいていた連中だ。
「アヒるんの学校では…夜のジョギングが流行ってるのかしら…?」
「流行ってねぇーよ!つーか、変に馴れ馴れしく呼ぶんじゃね…!」
「グオオオォォォっ!」
「……っ!」
囁に怒鳴り返そうとしていたアヒルが、どこかで聞き覚えのある、その低く重く響く声に気づき、勢いよく振り向いた。
「この声っ、まさかっ…!」
振り向いたアヒルが、駆け抜けてくる青年たちのさらに後方を見る。すると、そこに、青年たちを追いかけるようにやって来る、もう一つの人影が見えた。
「なっ…!?」
その人影を捉え、アヒルが大きく目を見開く。
「紺平っ…!?」
「グオオオォォっ…!」
青年たちを追いかけ、アヒルたちのいる方へと徐々に近付いてくるのは、アヒルの探していた、紺平であった。大きく口を開け、禍々しい声を発する紺平。その声は明らかに紺平のものとは異なり、瞳も虚ろで、表情がまるで見られない。
「あれはっ…!」
紺平の体を包む黒い影に気づき、アヒルが厳しい表情を見せる。
「忌、ね…」
「忌っ…!?」
アヒルの言葉を続けるように言い放つ囁に、強く眉をひそめるアヒル。
「何でっ…!何で紺平が忌にっ…!あっ…」
―――悪意ある言葉を向けられ、傷ついた人間の弱った心に巣食う悪霊…―――
―――“死ね”…“消えろ”…―――
―――わかったような…口きかないでよっ…―――
戸惑うように囁の方を振り向いたアヒルの頭の中に、放課後の、紺平が見せた、あのとても痛そうな表情が思い出された。
「……っ」
「アヒるん…?」
前方を向き、駆け込んでくる青年たちの方へと歩き出していくアヒルを、囁が戸惑うように見つめる。
『うぎゃああああ!』
「てめぇーらっ」
『うごっ!』
必死に走っていた青年たちの足に、アヒルが自らの足を引っ掛け、青年たちを前のめりに倒すことで、その場に止める。
「な、何すんだよ…!とっとと逃げないと、あの変な野郎にっ…!」
「てめぇーらがっ…」
「うぇっ!?」
一早く起き上がった青年の一人の胸倉を、低い声を発したアヒルが、勢いよく掴み上げる。
「てめぇーらが紺平に、あのフザけた紙をっ…!?」
「ひぃっ!」
鬼の形相で怒鳴りあげるアヒルに、胸倉を掴まれた青年が勢いよく震え上がる。さらに、後方で起き上がった他の青年も、皆、怯えた表情で背筋を立てた。
「ごめんなさいごめんなさいぃ~!遅刻取り締まられて、ちょっとムカついちゃってぇっ…!」
『ほんの出来心だったんですぅ~っ!』
「何がちょっとムカついただ!何が出来心だっ!」
『ひぃっ!』
さらに音量をあげるアヒルに、青年たちがさらに震え上がる。
「お前らの、そのくだらない言葉にっ、あいつがどんだけ傷ついたと思ってやがるっ…!?」
『ひぃぃ~!ご、ごめんなさっ…!』
「俺にじゃなくて、紺平に謝りやがれっ…!!」
『は、はいっ!』
アヒルに怒鳴りつけられた青年たちが、慌てて後ろを振り返り、こちらへと駆けてきている、忌に取り憑かれた紺平の方を見る。
「本当に申し訳ありませんでしたぁ!」
「もう二度と、絶対に、神に誓って、こんなことはしませんっ!!」
「だから許して下さい!お願いしますぅっ!」
謝罪というよりは命乞いのように、土下座をし、地面に顔を擦りつけ、必死に言葉を発する青年たち。
「グゥゥゥっ…」
するとその声が届いたのか、紺平は足を止め、青年たちから少し距離を取った所で、ゆっくりと立ち止まった。
「こ、紺ぺっ…」
「グオオオォォォっ…!“破”っ…!!」
「なっ…!?」
アヒルが紺平の名を呼ぼうとしたその時、紺平が大きく声をあげ、青年たちと、その後ろに立っているアヒルへ向けて、勢いよく手を振り上げた。紺平の手から巻き起こった衝撃波が、アヒルたちの方へと飛び出してくる。
「どいてろ」
『うぎゃあああ!』
「アヒるんっ」
「うわっ!」
横から飛び出してきた篭也が、土下座していた青年たちを蹴り飛ばし、囁がアヒルを引っ張り出して、それぞれ、衝撃波の直撃コースから避けさせた。
―――バァァァァァンっ!
アヒルたちの避けた衝撃波が道の端まで駆け抜け、突き当たりの壁を、粉々に砕いた。
『うぁ…ぁ…ぅっ…』
その衝撃的な光景に驚いたのか、篭也の蹴りが強く入ったのか、青年たちは皆、ゆっくりと瞳を閉じ、その場に力なく倒れ込んだ。
「……っ」
倒れた青年たちを見て、アヒルが眉をひそめる。
「何でだっ…!?」
まだアヒルのティーシャツの裾を掴んだままで、すぐ横に立っている囁の方を見つめ、戸惑うように問いかけるアヒル。
「あいつ等、謝ったのに…何で、紺平に取り憑いた忌が消えないっ…!?」
「それは…」
「傷ついた心というものは…」
「……っ」
答えようとした囁の言葉を遮り、聞こえてくる篭也の声に、アヒルが振り向く。
「傷つけた人間が思っているよりも…ずっと深く、重い痕が残る…」
鋭い瞳で前方の紺平を見据え、言葉を続ける篭也。
「謝られたくらいでは…決して癒されない痕が…」
紺平を見つめていた篭也が、視線を移し、今度はアヒルを見つめた。
「そういうものだ…“言葉”とはな…」
「言、葉…」
“言葉”という言葉を強調する篭也に、アヒルが少し目を細める。
「グオオオォォっ…」
『……っ』
さらに呻き声をあげる紺平に、三人が表情を険しくする。
「囁」
「ええ…」
「へっ?」
囁を呼びながら、紺平と相対するように、紺平の前に立つ篭也を、アヒルを道の端に残し、篭也の横に並ぶ囁を、アヒルが目を丸くして見つめる。
「お、おい!お前ら!何をっ…!」
「私達の心配をしてくれているなら、大丈夫よ…アヒるん…」
「えっ…?」
身を乗り出したアヒルへ、囁がそっと微笑みかける。
「私達も…」
ほぼ同時のタイミングで、懐へと右手を入れる篭也と囁。
「五十音士だからっ…」
「なっ…!?」
二人が懐から取り出したものは、アヒルもよく見覚えのある、小さく赤い、宝石のような玉であった。その玉を見て、アヒルが大きく目を見開く。
「言玉っ…!?」
「グオオオォォっ…!“壊”っ!!」
「うおっ…!?」
篭也たちの取り出した言玉に驚いている暇もなく、紺平の言葉により、近くの家の塀や電柱が、一斉に崩れ落ちる。降り落ちてくる瓦礫に、焦ったように声をあげるアヒル。
「囁」
「ええ…」
篭也の声に頷いた囁が、取り出した言玉を強く握り締める。
「五十音・第十一の音…“さ”…解放…」
言玉を握り締めた囁の右手の中から、赤く強い光が放たれ始める。
「うっ…!」
放たれる眩い光に、アヒルが思わず目を細めた。
―――パァァァァンっ!
「“左守”…真田囁…フフフっ…」
「あっ…」
光が止み、アヒルが再び目を開いて囁を見ると、囁の右手には、言玉ではなく、赤色の鮮やかな横笛が握られていた。その赤色は、昨夜のアヒルの銃の色とよく似ていて、下端に小さく『左』と刻まれているあたりも、共通点を感じた。
「あれが…あいつの…ってか、そんな場合じゃなかった!」
感心しているアヒルを待ってくれるはずもなく、至近距離まで降り迫って来ている瓦礫に、アヒルが焦ったように声をあげる。
「うわああああ!」
「“妨げろ”…」
叫ぶアヒルを横目に、囁がそっと呟き、横笛に口を当てた。囁の白い指が滑らかに動くと、そこから美しい音色が響き渡る。
―――バァァァン!バァァァン!
「へっ…?」
音が響き渡ったその瞬間、アヒルへと落下してきていた瓦礫が、空中で何かに弾かれたように音を立て、アヒルのいる方とは異なった方角へと飛び、力なく落下していく。
「音で…瓦礫を妨害したってのかっ…?」
落ちた瓦礫を見下ろしながら、戸惑うように呟くアヒル。
「グオオオォォっ!“破”っ!!」
「あっ…!」
囁の力のことなど気にも留めず、紺平がさらに声をあげ、攻撃を続ける。先程と同じように、振り上げられた紺平の手から、強い衝撃波が放たれた。
「……っ」
一歩前へと出た篭也が、向かってくる衝撃波をまっすぐに見つめる。
「五十音、第六の音…“か”、解放…」
篭也の言葉と共に、強く光を放つ、篭也の右手内の言玉。
「うっ…!」
囁の時同様、放たれる強い赤色の光に、また目を細めるアヒル。
「あっ…!」
「“加守”、神月篭也…」
「鉄格子…?」
言玉から姿を変えた、『加』と刻まれた、赤銅色の鉄の棒のようなものが六本、篭也の周囲を取り囲むように、地面に突き刺さっている。その光景が、まるで篭也が赤銅色の牢屋に捕えられているように見えて、アヒルは思わず呟いた。
「……っ」
向かってきている衝撃波を見つめ、篭也が鋭く目を細める。
「“返せ”…」
篭也の言葉に反応し、篭也を取り囲んでいた六本の格子が同時に空中へと舞い上がると、六本の格子は、中心で一点を重なり合わせて、それぞれが円の骨組みのような形となり、重なり合った点を中心として、勢いよく回転し始めた。篭也へと向かって来ていた衝撃波が、その回転する格子へとぶつかる。
―――パァァァァァン!
回転する格子は、まるで盾のようになって、向かって来た衝撃波を弾き返した。
「グアアアアアアっ!」
「あっ…!」
弾き返された自らの衝撃波を受け、紺平が、取り憑いている忌と共に、後方へと吹き飛ばされる。その紺平の姿に、横で見ていたアヒルは、思わず身を乗り出した。
「グっ…ググっ…」
「あっ…」
苦しげな声を漏らしながら、ゆっくりと起き上がる紺平。その表情は、忌に支配させているのでわからないが、紺平の手や足からは、紺平のものと思われる赤い血が滲んでいた。その血を見つめ、アヒルが表情を曇らせる。
「ふぅ…」
盾を作っていた格子が、互いに重なり合い、今度は一本の棒となって、一息ついている篭也の右手へと、自動的に戻っていく。右手で格子を掴んだ篭也は、再び表情を鋭くし、ゆっくりと構えを取った。
「“か…」
「待てよっ!」
「……っ」
止めに入る大きな声に、篭也が発せようとしていた言葉を呑み込む。
「何だ?」
ゆっくりと横を振り向き、止めたアヒルを見る篭也。
「何だじゃねぇよっ!紺平の体、傷つけるような攻撃してんじゃねぇーよっ!!」
必死に叫ぶアヒルを見つめ、篭也が眉をひそめる。
「仕方がないだろう?忌を倒すためだ」
鋭い瞳を、アヒルへと向ける篭也。
「手加減はしている。死ぬことはないのだから問題なっ…」
「フザけんじゃねぇっ!!」
「……っ」
篭也のすらすらと続けられた言葉は、アヒルの大きな声によって、あっという間に掻き消された。
「あいつは、言葉に傷つけられただけだぞ!?あいつは何にも悪くないんだ!」
アヒルが歩を進め、篭也のすぐ目の前へと立ち、睨みつけるように篭也を見る。
「なのに、何であいつが傷つけられなきゃいけねぇーんだよ!?おかしいだろうがっ!!」
「…………」
食ってかかるように叫ぶアヒルを、まっすぐに見つめる篭也。
「何も悪くないわけではない…」
「何っ…?」
篭也の言葉に、アヒルが眉をひそめる。
「忌に取り憑かれたのは、悪意ある言葉に負けた、あいつの心の弱さのせいでもある…」
「……っ!」
さらに言い放つ篭也に、大きく目を見開くアヒル。
「あいつが…悪いってのか…?」
「ああ、そうだ」
ゆっくりと問いかけるアヒルに、篭也がすぐさま頷く。
「グウゥゥっ…」
「……っ」
アヒルの向こうで、よろめきながらも立ち上がる紺平の姿に気付き、篭也が眉をひそめる。
「てめぇっ!フザけんじゃっ…!」
「邪魔だ」
「えっ?」
「“囲え”」
―――バァァァァァン!
「ううっ…!」
篭也の右手の格子から、分裂するように同じ棒が五本放たれると、飛び上がった五本の格子は、アヒルの周囲の地面に勢いよく突き刺さり、アヒルの動きを封じるように、アヒルを取り囲んだ。
「んなっ…!?」
取り囲んだ格子を掴み、必死に動かそうとするアヒル。だが格子はアヒルの力でもビクともせず、アヒルはその場に完全に封じ込められてしまった。
「何だよ!?これはっ…!」
「篭也…」
「……っ」
強く顔をしかめるアヒルの姿に、囁が、どこか非難するように篭也を見つめる。だが篭也は囁へ向け、軽く左手をあげ、それ以上の進言を許さぬように、言葉を遮った。
「おい!お前っ…!」
「あなたは…」
睨むように見る、鉄格子の牢の中のアヒルを、篭也がそっと見つめる。
「今のあなたは…我らが神となるには、あまりに浅薄…」
「神っ…?」
篭也の発した言葉に、戸惑うように首を傾げるアヒル。
「実戦も必要とは思うが…今回は黙って、ここで見ていてもらう」
「なっ…!」
大きく目を見開いたアヒルを横目に、篭也がアヒルよりも前へと出て、立ち上がった紺平と相対する。手元に残った一本の格子を、ゆっくりと構える篭也。
「グゥっ…」
「覚悟しろ、忌」
唸り声を漏らす紺平に、篭也が格子の先を向ける。
「クっ…!」
囲われた格子の中で、必死に首を動かし、紺平の方を見るアヒル。
「グウゥっ…!」
「紺平っ…」
紺平のものとはまるで違う、禍々しい声。その表情に紺平の意志は映っておらず、その瞳には何の輝きもない。それなのに、流れ落ちる赤い血は、紺平のもの。
「紺平…」
―――おはよ、ガァっ―――
―――またケンカ?いい加減にしなきゃダメだよ?―――
―――明日は、遅刻しないようにねっ―――
紺平の笑顔が、次々と思い出された。
「……ざけんじゃねぇ…」
「……っ?」
アヒルが小さく発した声に気づき、紺平と向き直っていた篭也が、少し眉をひそめて、振り返る。
「何っ…」
「ダチが…大事なダチが苦しんでんのにっ…」
篭也の言葉を遮ったアヒルが、囲んでいる格子を強く握り締める。
「黙って見てなんか、いられっかよぉっ!!」
―――パァァァァァンっ!