Word.18 初陣 〈2〉
――――二年前、春。
「あっ…!」
「おわぁ!」
初めて話したのは、初めて同じクラスになった春。私が先生に頼まれた資料を運んで、廊下を歩いていた時、その人と、見事に正面からぶつかってしまった。
「痛ってぇ~っ…」
「ご、ごめんなさい!って、朝、比奈くんっ…?」
「ああっ?」
廊下に撒き散らされた資料の中で振り返ったその人は、不機嫌そうに私を見下ろした。
「ご、ごめんなさい!ごめんなさいっ!ごぉめんなさいっ!ごめんなさい!」
「へっ?あ、おいっ、ちょっ…」
「本っ当に、ごめんなさいっ!!」
私は何度も謝りながら、急いで落とした資料を拾って、その人には何も言わせずに、逃げるように、その場を走り去った。
「何だっ…?あいつ…」
それが、初めての会話。といっても、私は『ごめんなさい』しか言ってないけど。
「ナナってさぁ、ガァのこと、嫌いなの?」
「へっ…?」
それは、中学になって仲良くなった想子ちゃんからの、突然の問いかけだった。
「なっ…ななななな、なんでっ…?」
「だってあからさまに避けてるっていうか、話すどころか、近づこうともしないっていうかっ」
「べ、べべべべ別に嫌いってわけじゃないけどっ…」
想子ちゃんが朝比奈くんの幼馴染みだということは知っていたから、面と向かって“苦手”とは、少し言いにくかった。
「ちょ、ちょっと“怖い”っていうかっ…その、目つきとか怒鳴り声とかっ…」
「あいつ、目つき悪いの、三歳児の時からだよぉ?デカい声も生まれつきだしっ」
「そ、そういうことじゃなくってっ…」
「うっせぇなぁ!」
「あっ」
同じ教室の中から聞こえてくる、大きな怒鳴り声に、振り向いた。
「アヒル隊長とか呼んでんじゃねぇっ!ぶん殴んぞっ!?クソ野郎っ!」
教室の中央では、名前を馬鹿にされたのか、朝比奈くんが他のクラスメイトへ向かって、大声で怒鳴りあげていた。それは、新しいクラスになったばかりの春でも、もうすっかり見慣れた光景だった。
「まぁ~たムキになっちゃって。あのバカガァっ」
『よっ!アヒル隊長!カッコイイっ!』
「うっせぇ!黙れ!ボケどもっ!」
怒鳴り声が、また教室に響く。
「何を騒いでいる!朝比奈!放課後、職員室に来いっ!」
「ええっ!?なんで、俺っ!?」
『アハハハハハぁ~!』
廊下を通りかかった先生に注意されて、大きく驚く朝比奈くん。そんな朝比奈くんを見て、クラス中のみんなが笑う。いつも騒ぎの中心で、クラスの中心の人。たくさんの人に囲まれて、たくさんの人と笑い合ってる。同じクラスにいるのに、とても遠い人のように思える。
「バッカガァっ」
「……っ」
クラスのみんなと同じように笑っている想子ちゃんの横で、私はそっと目を細めた。
「居る世界が違う、って感じかな…」
「へぇっ?」
私がそっと呟くと、想子ちゃんが不思議そうに首を傾げた。
「あっちは凄く明るくて、賑やかな世界に居て…私は目立たない地味ぃ~な世界に居る感じ…?」
私は、自分が抱いた、朝比奈くんへの距離間を説明する。
「違う世界に居るからさ、私の言葉とか、きっと何言っても、朝比奈くんには聞こえないんだろうなって…」
「それは違うよ」
「えっ…?」
言い終わらないうちに否定する想子ちゃんを、私は少し驚くように見た。
「それは違うよ、ナナっ」
優しく微笑んで、想子ちゃんがもう一度、否定の言葉を繰り返す。
「ガァには、“聞こえない言葉”なんて、一つもないよっ?」
「えっ…?」
その時の想子ちゃんの言葉の意味を、その時の私は、理解することが出来なかった。
それから、数日。
「ふぅ~、掃除終わりっと。んっ?」
掃除当番でゴミ捨てに行った帰りに、中庭を通った時だった。
「ほらほらっ!とっとと掃けよぉ!」
「こっちにもゴミ残ってんぞぉっ?」
「あっ…」
振り向いた先には、下級生だろうか、中庭を掃除している数人の男子生徒がいた。中の一人だけにホウキを持たせ、掃除をさせて、後の数人は皆、見ているだけで掃除をしようともせず、その掃除をしている一人に、強制するように冷たい言葉を投げかけている。
「嫌なとこに出くわしちゃったなぁっ…」
特に止める気もなくて、私はただ困ったように立ち止まり、事が終わるのを待とうとした。
「ほんっとノロマだなぁ、お前っ。まじウチの班にいらねぇーんだけどっ」
「ホントホントっ!ウチの班から、“いなくなって”くんねっ?」
「っつーか、この世界から“いなくなれ”って感じ?」
『アハハハハハっ!』
「……っ」
苛められている一人に浴びせられる言葉の数々を、聞いていることが不快で、私は少し遠回りだけど、違う道を通って、教室に戻ろうとした。
「痛ってぇ!」
「……っ?」
後ろから聞こえてくる大きな声に、違う道を行こうとした足を止めて、ふと振り向く。
「あっ」
「痛ってぇなぁ!何すんだよ!?てめぇっ!」
「…………」
私は思わず、目を見開く。そこに立っていたのは、朝比奈くんだった。苛めていた男子生徒の一人を蹴り飛ばしたのか、地面に座り込んだその生徒が、睨みあげるように、朝比奈くんを見て、怒鳴っていた。
「てめぇっ!何年の何組でっ…!」
「ああっ?」
『ひぃっ!』
朝比奈くんに、いつもにも増して鋭くなった目つきで睨まれて、苛めていた数人は皆、背筋を震え上がらせて、あっという間に黙り込む。
「くだらねぇーこと、やってんじゃねぇよっ」
『う、うぅっ…』
どこか圧のあるその言葉を向けられて、皆が怯えるように身を縮める。
「そ、そうですよねぇ~!掃除はみんなでやるもんですもんねぇ~!」
「さぁ!レッツ、お掃除ぃ~ング!」
「お、俺、チリトリ持ってくるわぁ!」
朝比奈くんの圧力に負けたのか、苛めていた生徒たちは皆、慌てた様子でホウキを持って、必死に掃除をしながら、朝比奈くんから離れていった。
「あ…」
苛められていた生徒だけがその場に残って、戸惑った様子で朝比奈くんを見る。
「あ、あの…ありがっ…」
「ごめんな…」
「えっ…?」
お礼を言おうとしたその生徒の言葉を遮って、そっと謝ると、朝比奈くんは、その場を去っていった。
「……っ」
その時の顔が、とても哀しそうで、辛そうで、痛そうだった。
朝比奈くんは、どうしてあの時、助けたのに、謝ったんだろう。
朝比奈くんは、どうしてあの時、“いなくなれ”と言われた本人よりも、ずっと痛そうだったんだろう。
そんなことが気になって、時々、朝比奈くんを目で追うようになっていった。
想子ちゃんから朝比奈くんの話を聞いたのは、それからすぐ後のことだった。
大好きなお兄さんがいたこと。
そのお兄さんが死んでしまったこと。
自分が放った、“いなくなれ”という言葉が、お兄さんの命を奪ったのだと、後悔していること。
あの日、朝比奈くんが言った“ごめん”が、誰に向けられたものなのか、やっとわかったような気がした。
それからか、“時々”が、“いつも”になって、気がついたら、目が離せなくなっていった。
また、数日。
「はぁ~、またプリント運び、頼まれちゃったよぉ」
両手にいっぱい、プリントを抱えて、憂鬱な足取りで、廊下を進む。
「あっ…!」
「おわぁ!」
その時、同じ時間が繰り返されたのかと思うほど、同じようなタイミングで、同じ人とぶつかった。
「痛ってぇ~っ…」
「あ、あああ朝比奈くんっ…」
プリントが廊下に散らばる中、ぶつかった頭を押さえる朝比奈くんを、焦りながら見る。
「って、お前…」
「ご、ごごごごごめんなさい!ごめんなさい!ごぉめんなさいっ!」
私はまた必死に謝罪の言葉を繰り返しながら、廊下に落ちたプリントを拾っていく。
「ご、ごめんなっ…!」
「ほらっ」
「えっ…?」
私の声を遮るようにして、差し出されるプリント。差し出したのは、朝比奈くんだった。
「はぁぁ~、結構飛び散ったなぁ」
「あっ…」
廊下に散らばったプリントを集めていく朝比奈くんを、呆然と見つめる。
「あっ!い、いいよいいよっ!朝比奈くんが拾わなくても、そんなの私がっ…!」
「なんでっ?プリント落ちたの、俺とぶつかったせいだろ?俺が拾うの、普通じゃん」
「えっ…?」
朝比奈くんがあまりにも自然にそう言うから、私は言おうとしていた言葉を呑み込んでしまった。
「それに、この前、ぶつかった時は拾えなかったしなぁ」
「あっ…」
そっと笑う朝比奈くんに、目を開く。
「覚、えて…」
「あっ?」
「う、ううんっ!何でもないよっ!」
不思議そうに首を傾げる朝比奈くんに、必死に首を横に振る。その時の私は、妙に動揺していて、その動揺を隠すのに、何故か必死だった。
「よし、完了っ」
「あ、ありがとうっ」
全部のプリントを拾い終わって、二人でゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ私、行っ…」
「奈々瀬」
「ええぇっ!?」
「えぇっ?」
名前を呼ばれただけなのに、激しく驚いて振り向く私に、朝比奈くんも少し驚いたようだった。
「悪かったな。ぶつかっちまって」
「えっ…?」
改まって言う朝比奈くんに、私は少し戸惑うように目を丸くする。
「この前、お前、謝ってくれたのに、俺、謝ってなかったよなぁ」
私を見ながら、朝比奈くんが笑う。
「この前も今日も、ホントごめんなっ」
「……っ」
伝えられる言葉に、大きく目を見開く。
―――私の言葉とか、きっと何言っても、朝比奈くんには聞こえないんだろうなって…―――
そんなこと、なかった。
―――ガァには、“聞こえない言葉”なんて、一つもないよっ?―――
想子ちゃんの言ったとおりだった。
―――ごめんなさい!ごめんなさいっ!―――
ちゃんと、聞いていてくれた。
「う、ううんっ」
「三回目はないように気をつけるわ、じゃあなっ」
「あっ…」
軽く手を振り上げて、朝比奈くんが歩き去っていく。
「あ…朝比奈くんっ…!」
「へっ?」
「あっ」
思わず呼び止めてしまったけど、特に言うことがあったわけでもなくて、振り返った朝比奈くんに、私は困ったように目を泳がせる。
「え、えぇ~っと、そのっ…」
何か言うことはないかと、必死に言葉を探す。
「あ、明日!明日はっ、雲一つない青空で、絶好の運動会日和だろうねっ!」
「へっ?」
咄嗟に放った、自分でも訳の分からない言葉。心の中で、『あちゃ~』と呟いた。
「そうかぁ?明日、大雨だって、天気予報で言ってたぞぉ?」
「えっ…」
そんな言葉にも、ちゃんと返事が来る。
「天気予報、しっかり見とけよっ」
「あ…」
そう言うと朝比奈くんはまた背を向けて、廊下を歩き去っていく。
「…………」
去っていく朝比奈くんの、その後ろ姿を、見えなくなるまで、見つめていた。
誰よりも、人の言葉に、耳を傾ける人。
誰よりも、言葉の中の、痛みを知る人。
たぶん、もうきっと、目なんて離せない…――――
「……っ!」
仁王像の二本の巨大な足が迫る中、倒れていた七架が大きく目を見開き、目の前に落ちていた薙刀を握り締め、刃先を足の降りてくる上空へと突き上げた。
「なっ…“鈍れ”っ…!」
突き上げた薙刀の刃先から、赤い光が放たれる。
「阿…あ…ぁ…」
「う…ぅ…吽…」
「んっ?」
スローモーションでも見ているかのように、急に緩やかになる仁王の動きに、ニギリが眉をひそめる。
「これは、鈍化っ…?」
「クっ…!」
「なっ…!?」
戸惑うように仁王を見上げていたニギリのもとへ、動きの鈍くなった仁王の間から、勢いよく七架が駆け込んでくる。向かってくる七架に、驚きの表情を見せるニギリ。
「ウソっ…!どこにそんな力がっ…!」
「……っ」
焦るニギリへ、七架が迷うことなく、右手の薙刀を突き出す。
「“薙げ”っ…!!」
「ううぅっ…!」
七架の振り切った薙刀が、ニギリの腹部を斬り裂く。
「あっ…ぁ…」
大きく目を見開き、苦しげな声を漏らすニギリ。
―――パァァァァン!
「えっ…?」
だが次の瞬間、七架が斬り裂いたはずのニギリの体が、水飛沫となって飛び散った。
「ざんざん残念~っ」
「……っ!」
すぐ後ろから聞こえてくる声に、七架が戸惑いの表情を消し、すぐさま振り返る。
「“偽物”、だよぉっ」
「クっ…!」
七架のすぐ後ろに立ち、楽しげに微笑むニギリに、振り返った七架が厳しい表情を見せる。
「これで本当に、おわおわ終わりっ」
「うっ…!」
顔の前へと向けられるニギリの右手に、七架が大きく目を見開いた。
「“滲め”っ」
「うぅっ…!きゃああああああっ…!!」
至近距離から放たれた水の塊が直撃し、七架が勢いよく吹き飛ばされる。
「うっ…!うぅっ…」
傷ついた七架が、力なく地面に倒れ込む。
「おしかったねぇ~結構、イイとこいってたのにぃっ」
右手を下ろしたニギリが、微笑みながら、ゆっくりとした足取りで、倒れた七架の方へと歩み寄っていく。
「ま、まだっ…」
向かってくるニギリを、顔だけを上げて見つめながら、薙刀をもう一度、握り締めようとする七架。
「ううんっ、もう終わりだよ」
「えっ…?あっ…!」
ニギリの言葉に、七架が戸惑うように眉をひそめたその時、突然、薙刀が赤い光を放つと、次の瞬間、薙刀は元の言玉の姿へと戻ってしまっていた。驚いた七架の右手の中から、言玉が転がり落ちていく。
「な、なんでっ…?」
目の前の地面を転がっていく言玉に、七架が困惑した表情を見せる。
「言玉の使用時間はねぇ、五十音士の力によるのっ」
「えっ…?」
「戦い始めて二十分っ、昨日、五十音士になったばかりの奈守ちんにしては、もった方じゃないかなぁ?」
「そん、なっ…」
言玉が使えなければ、もう七架には戦う術はない。突き付けられた事実に、体を動かそうとする気持ちすらなくしてしまう七架。
「奈守ちんはよぉく、がんがん頑張ったよぉ。奈守ちんの神様の代わりに、私が誉めてあげるっ」
「あっ…!」
七架の前に転がっていた言玉を、歩み寄ってきたニギリが、そっと拾い上げる。
「だけどこれはぁ、私が神様に誉めてもらうためにぃ、もらもら貰ってくねぇっ」
「まっ…!」
七架の言玉を持ったニギリが、仁王像の一体に持ち上げられ、その平たい手のひらの上に乗り、大きな足で歩き去っていく仁王とともに、遠ざかっていく。
「アハハハハぁ~っ!」
「ま、待ってっ…!うぅっ…!」
遠くなっていくニギリの笑い声に、必死に起き上がろうとする七架であったが、痛みが全身に走り、再びその場に倒れ込んでしまった。
「待っ、てっ…」
少し震えた声を漏らしながら、七架が地面を握るように両手に力を込め、何とか起き上がろうとする。
「待っ…!」
「もういい」
「……っ!」
血が滲みそうなほどに強く握り締められた七架の手の上に、制止を促すように手を置き、七架のすぐ横へと現れたのは、篭也であった。
「神…月くんっ…」
「もういい。もうやめておけ、奈々瀬」
少し顔を上げ、振り向いた七架に、篭也がもう一度、宥めるように言葉を放つ。もう一方の側へと囁が姿を現すと、二人は協力して、倒れ込んでいる七架を、ゆっくりと起き上がらせた。
「け、けどっ…」
二人に支えられ、体を起こしながら、七架が険しい表情で篭也を見つめる。
「けど私っ…!言玉をっ…!あの人から言玉を取りっ…!」
「追いかけたところで、取り返せはしない」
必死に喰らいつくように言い放つ七架に、篭也は冷静な言葉を吐く。
「今のあなたでは、あの仁守には勝てない」
「……っ」
はっきりと言い放つ篭也に、七架は大きく目を見開くと、それ以上、何も言うことが出来ずに、力なく俯いた。
「うっ…」
俯いた七架の口から、声にならない声が漏れる。
「ううぅっ…!」
唇を噛み締めた七架の瞳から、透き通った涙が零れ落ちた。
<以団“仁守”、安団“奈守”の言玉を奪取。現在の言玉数、安団、ゼロ。以団、一。以上>
「アハハァ~っ」
流れる勝利コールのような放送に、仁王の手のひらの上に立ち、高々と森を見下ろしながら、ニギリが嬉しそうな表情を見せる。
「やったぁ、私、やったよぉ?神っ」
七架から奪った言玉を、うっとりと見つめるニギリ。
「早速、これを神のところに、とどとど届けなくっちゃっ」
そう言うと、ニギリが乗っている像ではない方の仁王像を振り向く。
「“担え”」
「吽っ!」
真一文字に口を閉じた方の像が、ニギリから、その指の爪ほどもない小さな言玉を受け取ると、大きく頷いて、遊園の奥へと、大きな足を踏み出しながら進んでいく。
「たのたの頼んだよぉ~っ」
去っていく仁王像の片割れを、軽く手を振りながら見送るニギリ。
「さぁ~てっ、チラシくんのとこでも行こっかなぁ~って、痛っ」
これからの行動を考え、首を傾げていたニギリが、ふとその表情を歪めた。
「……っ」
そっと視線を落とし、自分の右足を見下ろすニギリ。短いスカートの下から覗く細い足の膝から、赤い血が少量流れていた。七架との戦いで、いつの間にか傷を負ったようである。
「素人相手に、傷を負うとはねっ…」
自分の血を眺め、ニギリが眉をひそめる。
「言玉の使用時間、かっ…」
先程、自らが七架に放った言葉を思い出し、表情を曇らせるニギリ。
「これじゃあまるで、奈守ちんが素人じゃなきゃ、私が、まけまけ負けてたみたいじゃないっ。後味悪っ」
完全に勝利の喜びに浸ることも出来ず、思わず顔をしかめるニギリであった。




