Word.2 泣イタ友ダチ 〈2〉
その日、放課後。昇降口。
「はぁっ。ガァの奴、結局、最後まで戻って来なかったなぁ」
呆れたように呟きながら、下校をしようと教室から出てきた紺平が、他の生徒に紛れながら、自分の下駄箱のある位置まで、ゆっくりと歩いてくる。
「はぁ~あ、高校は留年あるって、わかってるのかなぁ…ホントに…」
言葉を続けながら、紺平が“小泉”と書かれた、自分の下駄箱を開けた。
「……っ」
下駄箱を開けた途端、紺平の表情が、一気に曇る。
「…………」
紺平の下駄箱の中には、乱雑な文字で『死ね』や『消えろ』と書かれた紙が、入っていた。その紙を手に取り、紺平がそっと目を細め、書かれたその文字を見つめる。
「“死ね”…か…」
その文字を口にし、少し肩を落とす紺平。
「はぁ~あぁ~!毎日毎日、色々あんなぁ~!色々週間だなぁ~、今週はっ」
「……っ」
廊下から聞こえてくる、よく聞き覚えのあるその声に気づき、紺平は勢いよく顔を上げ、持っていたその紙を、咄嗟に体の後ろへと隠す。
「ガァ」
「あっ、紺平」
紺平のいる下駄箱へと現れたのは、どこか面倒臭そうに頭を掻きながら歩いてくる、アヒルであった。
「よう!」
「“よう”じゃないよ。朝から、どこ行ってたわけ?恵先生、結構本気めで怒ってたよっ?」
「マジ?そりゃヤベぇなぁ…」
紺平のすぐ前へとやって来たアヒルが、苦い表情を見せる。
「折角、遅刻しなかったっていうのに、一体こんな時間まで、何してたのさ?」
「いやぁ、まぁ…ちょっと色んなことが、色々とごったごたあってよぉ」
「はぁ?」
何一つ具体的でないアヒルの説明に、紺平が眉をひそめ、大きく首を傾げる。
「何つーのっ?今までの世界観が、こう五千四百度くらい変わった気分っつーかっ…あっ?」
自分でも混乱した様子で話を続けていたアヒルが、ふと、紺平が隠すように体の後ろで持っている紙の、そこに書かれている文字の一部を見つけ、顔をしかめる。
「んっ」
「あっ…」
アヒルが素早く手を動かし、紺平が後ろ手に持っていた、その紙を掠め取る。気まずそうに声を出す紺平の前で、アヒルがその紙に書かれた文字を、まじまじと見つめる。
「“死ね”…“消えろ”…」
「…………」
書かれた文字を読み上げるアヒルの前で、そっと俯く紺平。
「何だよ?これっ」
「さぁ…?何、だろうね…」
厳しい表情を見せ、問いかけるアヒルに、俯いたままの紺平が、どこか歯切れ悪く答える。
「高校生にもなって、んなガキくせぇこと、する奴いんだな」
「みたい、だね…」
「何回もあんのか?こういうことっ」
「さぁ…?どう、だっただろっ…?」
「……っ」
少しもまともに答えようとしない紺平に、アヒルはさらに表情をしかめ、奪ったその紙をくしゃくしゃに丸めると、睨むような鋭い視線を、紺平へと向けた。
「お前さっ」
丸めた紙を握り締め、アヒルが強く言い放つ。
「嫌なら、ちゃんと言い返せよっ。何でも黙って受け入れてっから、こういう奴等も調子に乗ってだなぁっ…」
「わかったような」
「……っ」
俯いたままの紺平の声に、途中で言葉を止めるアヒル。
「わかったような…口きかないでよっ…」
「紺平…?」
震えた声を発する紺平を、アヒルが少し戸惑うように見つめる。
「みんながみんな、ガァみたいに…言いたいこと言える人間なわけじゃ、ないんだよっ…?」
「……っ!」
ゆっくりと顔を上げ、そう呟いた紺平は、とても痛そうな顔を見せており、その紺平の表情に、アヒルは思わず大きく目を見開いた。
「……っ」
「あっ…!紺ぺっ…!」
すぐさまアヒルに背を向け、走り去っていく紺平を止めようと、アヒルは右手を伸ばしたが、その右手は紺平を捕まえることはなく、途中で止まった。
「…………」
その場に残ったアヒルは、悔やむように額を押さえ、そっと俯いた。
「ハァっ…!ハァっ…!」
―――“死ね”…―――
「ハァっ…!ハァっ…!」
―――“消えろ”…―――
「ハァっ…!」
逃げるように必死に、学校からの帰り道を駆け抜けていた紺平が、思い出される言葉に思わず足を止め、どこか怯えるように頭を抱える。
「うっ…!うぅっ…!」
強く痛むのか、顔を引きつった紺平が目を細め、その左胸を、制服の上から必死に握り締めた。
「ううぅっ…!」
<傷ついた…?>
「えっ…?」
どこからか聞こえてくる声に、深く俯いていた紺平が、ゆっくりと顔を上げる。
<ねぇ…?傷ついているの…?>
「だ、誰っ…」
誰もいないはずの周囲を見回し、戸惑うように声を出す紺平。
<じゃあ力をあげるよ…>
「……っ」
すぐ背後に何かが立っている気配を感じ、紺平が恐る恐る、後方を振り向く。
<傷つけた奴等を殺す…力をあげるよっ…!!>
「うっ…!」
紺平が振り返った先に立っているのは、禍々しく不気味な黒い影。
「うわああああああっ!!」
「んっ…」
まだ学校の屋上に残っていた囁が、本当に夕焼け色に染まった空を見上げ、ふとその表情を曇らせた。
「忌の…気配…」
「ああ」
「……っ」
あっさりと頷く篭也の方を振り向き、囁が少し眉をひそめる。
「知ってたの…?意地悪ね…」
「…………」
囁の言葉に篭也は特に何を言い返すこともなく、ただ無表情のまま、下を見た。
「さぁ…」
篭也から再び、真っ赤な空へと視線を移す囁。
「我らが神は…どうするのかしら…?」
囁はどこか楽しげに、空へと問いかけた。
その日、夜。八百屋『あさひな』。
「はぁ~っ…」
今日は早々に帰宅し、制服からティーシャツにジャージというラフな服装に着替えたアヒルは、狭い居間に体を転がし、天井を見上げながら、深々と溜息を吐いていた。
―――みんながみんな、ガァみたいに…言いたいこと言える人間なわけじゃ、ないんだよっ…?―――
「……っ」
痛そうな表情。傷ついた表情。あの紺平の顔が、どうしても頭から離れなかった。
「なぁ、スー兄っ」
「あっ?」
居間で寝転がったまま、アヒルが視線だけを動かし、すぐ隣の台所で夕食の準備をしている兄・スズメを呼ぶ。エプロン姿のスズメが、アヒルの声に、顔をしかめながら振り向いた。
「んだよっ?」
「スー兄、“死ね”って言われたら、その“死ね”って言った奴、どうする?」
「ああっ?」
アヒルの急な問いかけに、スズメが料理をしている手を止め、眉をひそめる。
「んん~っ、殴り殺す」
「だろうな…」
そう悩みもせずに、恐ろしい答えを発する兄に、特に驚いた様子も見せずに頷くアヒル。
「ツー兄は?」
「んっ?」
アヒルが今度は、同じ居間で洗濯物を畳んでいる、もう一人の兄・ツバメの方を見た。シーツを畳んでいたツバメは、その手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
「そうだな…」
少し考えるように、首を捻るツバメ。
「呪い殺す…」
「聞かなかったことにするわ」
どこからともなく藁人形を取り出し、不気味に微笑むツバメに、アヒルがすぐさま目を逸らした。
「アーくん!アーくん!お父さんはねぇっ…!」
「聞いてねぇ」
「ううっ…!」
閉店した店の方から戻って来て、話題に参加しようとした父に、アヒルが冷たく一言を吐き捨てると、父は悲しみのあまり、その場に膝をついた。
「こんな繊細とは程遠い家系に生まれちゃ、言いたいこと言えない奴の気持ちなんて、そりゃわかんねぇよなぁ~っ」
「結構、失礼なこと言ってるよ…?アヒル君…」
ボヤくように言い放つアヒルの横で、ツバメがひっそりと突っ込みを入れる。
―――ジリリリリっ…!
『んっ?』
その時、居間の黒電話が、大きな音で鳴り始めた。
「ツーくん、出てくれるぅ~?」
「はいはい…」
父に頼まれ、一番電話の近くにいたツバメが、ゆっくりと立ち上がり、電話を取った。
「お掛けになった電話の主は…三年前、不慮の事故で…」
「まともに応えんかいっ!」
受話器を手にし、何やら不気味な声で話し始めるツバメに、アヒルが思わず起き上がって、怒鳴りあげる。
「もしもし…朝比奈ですけど…」
アヒルの怒鳴り声を受け、やっと普通に話し始めるツバメ。
「ああ、どうも…えっ…?来てないですけど…?はい…ちょっと待って下さいね…」
「……?」
電話で話しながら、少し表情を曇らせるツバメを見て、アヒルが首を傾げる。
「アヒル君、今日、紺平君、どっか行ってるとか聞いてる?」
「へっ?紺平?」
ツバメから出るその名に、アヒルが目を丸くする。
「別に聞いてねぇけど…何で?」
「電話、紺平君のお母さんからなんだよ…いつもなら、とっくに帰って来てる時間なのに、まだ帰って来ないって…」
「えっ…?」
―――ドクンっ。
その言葉を聞いた途端、アヒルの心臓が大きく揺れ動いた。
「おっ、何だぁ?あの真面目コンペーも、ついに夜遊びを覚えたかっ?」
「スズメっ…」
台所から顔を出し、何やら楽しげな笑顔を見せるスズメを、ツバメが少し注意するように名を呼ぶ。
「しっかし心配だなぁ。ちょっと学校に連絡取って、聞いてみっ…」
「……っ」
「ん?アーくん?」
急に立ち上がるアヒルを、目を丸くして見つめる父。
「俺…行かなきゃ…」
「へぇっ?」
「……っ!」
「あっ…!アーくんっ…!」
父が止める間もなく、アヒルは居間を飛び出し、店の通用口から外へと駆け出して行った。