Word.15 タイムリミット 〈1〉
突然、現れた“以の神”伊賀栗イクラと、金八たち四人の以団メンバーにより、神試験を受けることとなったアヒルたち。
試験は団単位で行われるため、アヒルは安団の四人のメンバーを揃える必要がある。加守の篭也、左守の囁は居るものの、他の二人、太守と奈守はまだ、誰かもわかっていなかった。だが、保が太守であることが発覚し、残るは奈守を見つけるのみとなった。
試験まで後三日。一刻も早く、最後の一人を見つけなければならない。
「って、いうのに…なんでまた俺は、国語資料室の掃除なんか、やってっかなぁ…」
ボヤくように呟くアヒル。その手にはホウキが握られ、アヒルは、面倒臭そうな表情を見せながら、本棚の並んだ国語資料室の掃除を行っていた。
「なんでか教えてやろうかぁ?八日も連続で遅刻したからだよっ」
隣の部屋の机に座り、本を読んでいた恵が、アヒルの方を振り返り、突き離すように言う。以団との接触の後、為介の“奈守はすでに傍にいるかも知れない”という助言を受けたアヒルたちは、大人しく学校へ行くことにしたのだが、またしても遅刻したアヒルを恵が見逃すはずもなく、放課後、相変わらずの資料室掃除をやらされる羽目になったのである。
「はぁ~あっ…」
疲れたように息をつきながら、難しそうな本の並ぶ本棚を見上げるアヒル。
―――僕たちは先に帰って、奈守について調べてみる―――
―――まぁ頑張って…アヒるん…フフっ…―――
「二人はああ言って帰っちまったし…」
―――太守クンの指導は、ボクと雅クンに任せておいてぇ~―――
――― 一人で勝手にやって下さい―――
―――いやぁ~!雅クン、見捨てないでぇ~!―――
「保は扇子野郎んとこだしっ…」
ホウキを握る手を止めたアヒルが、皆の言葉を思い出しながら、ゆっくりと肩を落とす。
「はぁぁ~っ…」
奈守のこと、保を五十音士として戦わせること、三日後の神試験のことなど、頭の容量が満杯になるほどに色々なことに考えを巡らせ、アヒルが深々と溜息を吐いた。
「何だぁ?その、こっちの気分まで悪くなりそうな溜息はっ」
「うっせぇなぁ。俺にだって色々、悩みくらいあんだよっ」
恵の言葉に、アヒルが少し口を尖らせながら、言い返す。
「トンビが悩みなんて、百年早ぇーよっ」
「どういう意味だぁ!っつーか、俺はアヒルだっつってんだろうがっ!」
いつものように名を間違える恵に、勢いよく怒鳴り返すアヒル。
「はぁっ…」
「……っ」
怒鳴りあげた元気も束の間で、すぐまた悩み込む表情を見せ、深々と溜息を吐くアヒルに、恵は少し目を細めた。
「気晴らしに面白い話でもしてやろうか?」
「ああっ?面白いったって、どうせ国語の話だろ?」
「ああ、漢字の成り立ちについてだ」
「うげっ」
国語嫌いのアヒルが、恵のその言葉を聞いただけで、勢いよく顔をしかめる。
「冗談っ、誰がんな、まるで面白くもなさそうな話、聞っ…」
「“しんじる”って、漢字があんだろぉ?」
「無視して、話進めんなよっ!」
アヒルの言葉に完全に無視し、座っていた椅子から立ち上がり、壁にある黒板の方へと歩いていく恵に、アヒルが勢いよく怒鳴りあげる。
「大人しく聞けよ。チョーク、目玉にブチ込むぞ?」
「怖ぇーわ!いつか訴えられるぞ!体罰教師!」
チョークを右手に持ち、サラリと言い放つ恵に、アヒルがさらに声を大にする。
「お前、書けるか?」
「あっ?それくらい、さすがの俺でも書けるってのっ」
どこか試すように問いかける恵に、怒っていたアヒルが少しムキになったのか、黒板の前、恵のすぐ横へと並び、チョークを手に取って、黒板に文字を描いた。
「“信じる”、これだろっ?」
アヒルが黒板に描いた、『信』の文字を、チョークで指し示す。
「ああ、その通りだ」
「ハっ!どうだ!俺だって、漢字くらいの教養はなぁっ…!」
「小学校四年で習う漢字だからな。さすがのトンビでも書けたか」
「うるせぇ!それに俺はアヒルだっての!」
小バカにするように言う恵に、再び怒鳴るアヒル。
「この“信じる”っつー字、にんべんに“言”って書くだろ?」
恵が自分の持っている赤チョークで、アヒルの書いた『信』の文字を差しながら、話を進める。
「にんべんは“人”の意味。つまり信じるって字は、“人の言葉”って書くんだ」
「人の、言葉っ…」
その話を聞き、少し驚いたような顔を見せながら、アヒルが自分の書いた文字を、まじまじと見つめる。
「じゃあなんで、“人の言葉”と書いて、“信じる”と読むか…」
恵が『信』の文字を何度も指し示しながら、まるで授業をするかのように、言葉を続ける。
「“人の言葉”には嘘がない。つまり、“人の言葉”こそが、真実だからさっ」
「人の言葉…こそが真実っ…?」
「ああっ…」
ゆっくりと聞き返すアヒルに、恵が大きく頷く。
「漢字が出来たのは三千五百年も前…その頃、神だの仏だのがいたか知らないが、それでも一番信じられるものと考えられたのは、“人の言葉”だったんだろうなぁ」
「……っ」
恵の言葉にそっと目を細め、アヒルがまっすぐな瞳で、描かれた『信』の文字を見つめる。
「どうだぁ?クソガキ。たまには国語の勉強も悪くないだろ?」
「まぁなっ…」
軽く微笑んで問いかけてくる恵に、少し顔をしかめながらも、頷くアヒル。
「じゃあ、今日はもう帰っていいぞっ」
「へっ?」
そう言って背を向け、再び机の方へと歩いていく恵に、アヒルが目を丸くする。
「今日は随分、早くね?」
「八日も連続じゃあ、掃除する所もないんだよ」
意外そうに問いかけるアヒルに、机に置かれた本を読みながら答える恵。
「それとも何かぁ?他の部屋の掃除でもしたいってかぁ?」
「い、いや!全然!大人しく帰らせていただきます!」
悪戯っぽく言い放つ恵に、慌てた様子で必死に首を横に振りながら、アヒルがホウキを元の場所へと戻し、部屋の端に置いてあった自分の鞄を持ち上げて、資料室の出口へと駆けていく。
「じゃ、じゃあ俺、帰るから」
「おう、明日こそは遅刻すんなよっ」
「わかってるよっ」
恵が釘を刺すように言うと、アヒルが頷きながら、資料室の扉を開ける。
「朝比奈アヒル」
「……っ?」
アヒルが資料室を出ようとしたその時、恵が珍しく、間違えることなく名を呼び、アヒルを呼び止めた。
「誰の言葉を信じるか、間違えんなよ」
「えっ…?あ、ああっ…」
恵の言葉に戸惑うアヒルであったが、その真剣な眼差しに、急に何を言い出すのかと問うことも出来ず、アヒルは大人しく頷く。
「じゃあ、気をつけてな」
「あ、ああっ。失礼、しました」
軽く頭を下げると、アヒルはそのまま、資料室を後にした。
「ふぅっ」
アヒルが出ていき、資料室に一人となった恵が、小さく息をつきながら、椅子にもたれかかるようにして、天井を見上げる。
「神試験、か…」
そっと目を細め、厳しい表情を見せる恵であった。
言ノ葉町の小さな八百屋さん、『あさひな』。二階、アヒル自室。
「ふぃ~っ」
「あら…おかえりなさい、アヒるん…」
「おう、ただいま」
無事、寄り道することもなく学校から家へと戻って来たアヒルを迎えたのは、アヒルの部屋ですっかり寛いだ様子で本を読んでいる囁であった。
「今日は随分と早かったのね…」
「八日連続じゃ、掃除する場所もねぇーから帰っていいってさ」
「あらそう…フフフっ…」
囁と会話をしながら、アヒルが鞄を机の上へと置き、ブレザーを脱いで、壁のハンガーへと掛ける。
「あれっ?そういや篭也は?下?」
「篭也なら、奈守の情報収集に出掛けてるわ…」
「ふぅ~ん」
ネクタイを緩めながら、囁の言葉を聞くアヒル。
「んで、お前は何やってるわけ?」
「私…?私は“恋盲腸~ヒトミ悪化、恋の痛みは無限大~の巻”を読んでるのよ…フフフっ…」
「お前、奈守探す気ねぇーだろ…」
後三日で探さねばならないというのに、まるで焦った様子を見せず、暢気に本を読んでいる囁に、アヒルが呆れた表情を向ける。
「焦って無意味にバタバタしても仕方ないじゃない…?一先ず、篭也の情報を待ちましょう…」
「ま、まぁなぁ…」
冷静な囁の言葉に、素直に頷いて、机の前の椅子へと腰掛けるアヒル。
「保は大丈夫かねぇ~?」
「さぁ…?まぁ為の神が任せておけと言ったんだし…任せておけばいいんじゃない…?フフフっ…」
少し不安げに問いかけるアヒルに、囁がまたもや冷静に答える。
「記憶、戻ったりしねぇーかなぁっ…」
「……っ」
窓の外の景色を眺めながら、保の記憶の心配をしているアヒルを見つめ、囁がそっと目を細める。
「アヒるんは…気になったりしないの…?」
「へっ?」
急な問いかけに、アヒルが囁の方を振り向く。
「いや、勿論、保のことも奈守のことも気にしてっ…」
「そうじゃなくて…」
「へっ?」
「篭也のこと…」
「……っ」
囁の口から篭也の名が出ると、アヒルはハッとした表情を見せた。
「あんなこと聞いちゃったら…普通は気にならない…?」
―――神に成り損ねた五十音士よ…―――
「…………」
イクラの言葉を思い出し、アヒルが椅子に座ったまま、考え込むように深く俯く。
「でもアヒるん…篭也にも私にも、何も聞こうとしないし…」
「別に気になってねぇーわけじゃねぇーけどさっ…」
顔を上げたアヒルが、少し肩を落としながら、そっと呟く。
「でも別に、そこまで気になってないってのも事実なんだよなぁ…」
「えっ…?」
そのアヒルの言葉に、囁が意外そうな顔を見せる。
「アヒるんて…結構、薄情者なのね…」
「お前にだけは言われたかねぇーわっ」
あっさりと言い放つ囁に、思わず言い返してしまうアヒル。
「まぁ、何つーか、出会ったばっかのイクラちゃんの言葉、全部真に受けて影響される気はねぇーし、俺、あいつのことは…」
アヒルが再び、窓の外の方を見つめる。
―――誰の言葉を信じるか、間違えんなよ…―――
「あいつの言葉で聞く以外、信じる気ねぇーからさっ」
「……っ」
恵の言葉を思い出し、そっと微笑んで言い放つアヒルに、囁が少し驚いたような表情を見せる。
「だから俺は、今まで安附として附いてきてくれた、あいつの言葉を信じて…今まで通り、神でいる」
何の迷いもない、晴れやかな笑みを浮かべ、言葉を続けるアヒル。
「それが、あいつの神として、俺がするべきことだって思うから」
「アヒるん…」
微笑むアヒルを、まっすぐに見つめる囁。
「そうね…」
頷くように少し俯いた囁の表情からも、小さな笑みが零れた。
「ちゃんと聞こえたかしら…?」
「へっ?」
「いいえ…何でもないわ…フフっ…」
その小さな声が聞き取れず、聞き返したアヒルに、囁はそっと首を横に振った。
「…………」
アヒルの部屋の外の廊下では、扉の前の篭也が、ドアノブを握ったまま、扉を開けることが出来ず、その場に立ち尽くしていた。部屋からの二人の話が聞こえ、入るタイミングを脱していたのである。
―――それが、あいつの神として、俺がするべきことだって思うから…―――
「……っ」
先程のアヒルの言葉を思い出し、何か込み上げるものを我慢するように、強く唇を噛み締める篭也。
「ふぅ…」
中に聞こえないように、小さく一つ、息を吐くと、篭也はドアノブを回した。
「戻った」
「おうっ、おかえり!」
篭也が扉を開け、部屋の中へと入っていくと、アヒルが椅子の上から軽く手を上げ、笑顔で出迎える。
「あら…おかえりなさい…」
どこかわざとらしい笑顔で、同じように出迎える囁。
「まさか篭也…さっきの、アヒるんと私のイチャイチャ恋盲腸風会話、聞いていたんじゃ…」
「んな会話っ、誰がするかぁ!」
囁の言葉に、アヒルが勢いよく怒鳴りあげる。
「心配するな。僕にそんな不快極まりない会話を、盗み聞きする趣味はない」
「つーか、してねぇしっ!」
「そんなことよりも、今は奈守だ」
「あ、ああっ」
冷静に言い放つ篭也に、すぐさま怒りが冷め、大人しく頷くアヒル。
「奈守について…何かわかったの…?」
「ああ、調べられることは、すべて調べてきた」
囁の問いに答えながら、篭也が鞄の中から、何やら書類のようなものを数枚取り出す。
「まず、奈守の“な”の言葉の力だが、これは、あなたの“あ”の力同様、血や人為的継承で行われるものではなく、力が自動的に選ぶタイプのものらしい」
「じゃあ人物の特定は難しそうね…」
「ああ。先代奈守の周辺の人間を粗方調べたが、それらしい人物は該当しなかった」
篭也が言葉を続けながら、険しい表情を見せる。
「次に、最近数ヶ月の言玉の力、発生例をすべて調べた」
「んなことまで調べられんのかっ!?」
「韻の特殊な装置を用いてのみ、知れる情報だ」
「よく、そんなもの…使わせてもらえたわね…フフフっ…」
「まぁ、少しな…」
感心するように言う囁に、あまり浮かぬ表情で答える篭也。
「だが、未知の言玉の使用例は、一つもなかった」
「それってぇ、つまりは、どういうことだぁ?」
「使用された言玉は、すべて使用した五十音士が明らかになっている…つまり、まだ見つかっていない奈守が、言玉を使った例はないということでしょう…?フフフっ…」
「ああ。奈守はまだ、言玉の力に目醒めていない可能性が高いということだ」
「成程」
二人の補足説明を聞き、アヒルがやっと、もたらされた情報の意味を理解する。
「って、それって益々、見つけにくいってことじゃっ…」
「ああ、そういうことだ」
少し眉をひそめて呟くアヒルに、篭也が困ったように肩を落としながら頷き、見ていた書類を鞄の中へと片付ける。
「とにかく、有力な情報がない以上、後はしらみつぶしに探していくしかない」
「あら、面倒そう…」
「お前ねっ…」
あからさまに嫌そうな顔を見せる囁に、呆れた視線を送るアヒル。
「明日から僕と囁は、学校を休んで、手分けして調査を進める」
「時給は…?」
「見つかったら、奈守にでも請求するんだな」
興味深く問いかける囁に、篭也が冷たく言い放つ。
「俺は?」
「あなたは学校へ行きながら、ひたすら辞書を読んで、とにかく語彙を増やせ」
目を丸くして問いかけたアヒルに、篭也がすらすらと言葉を続ける。
「本来なら、僕と囁で指導して、熟語まで使えるようになってもらいたいところだが、今はその時間がない」
「熟語、か…」
篭也の言葉を繰り返しながら、アヒルが少し表情を険しくする。
「今のあなたの力では、どんな試験内容であれ、神試験に受かるのは至難の業だ」
「波城灰示との戦いで、“欺け”が増えたものの…まともな言葉は、まだ三つですものね…」
「うっ…」
「ああ。攻撃用の言葉で考えたら、“当たれ”のたった一つだしな」
「うっ…」
二人の容赦ない言葉に、徐々に小さくなっていくアヒル。
「とにかく、ひたすら辞書を読め。いざという時、最良の言葉が思いつくようにしておくんだ」
「わ、わかった」
少し強張った表情を見せながらも、アヒルが篭也の言葉に頷く。
「神試験まで後三日…いや、もう三日とない。一分、一秒すら、無駄には出来ないぞ」
「ああっ…」
警告するような篭也の言葉に、アヒルは真剣な表情を見せた。
その後、篭也の言葉通りに、篭也と囁は学校を休み、奈守の調査を進めた。だが、奈守は見つからないまま、一日、また一日と、貴重な時間は、あっという間に過ぎ去っていった。




