Word.13 戦イノオワリ 〈3〉
数日後。言ノ葉高校、一年D組。
「どっはああああっ!セェェーフっ!」
今日もまた、手が千切れるのではないかというくらいに両手を目一杯広げながら、アヒルが前扉から、教室へと飛び込んでくる。
「だからアウトだって言ってんだろ、アホっ」
「痛ってぇっ!」
そんなアヒルの額へ、またしても容赦なく炸裂する、今度は白ではなくて、赤チョーク。チョークを喰らったアヒルが、額を両手で押さえ、その場にしゃがみ込む。
「罰として、放課後、国語資料室の掃除な」
「ええっ!?またまたまたぁ!?」
「またまたまただ。遅刻したんだから、当然だろう」
連日のように喰らったチョークで、赤く腫れあがった額を見せ、勢いよく顔を上げるアヒルに、教壇に立つ恵が、相変わらずの口調で言い放つ。
「俺のエンジョイ放課後ライフがっ…」
「そう思うんだったら、遅刻してくんなよっ」
「うわああぁぁ~あっ!」
「へっ?」
がっくりとしながらも教室へと入ったアヒルが、大きな叫び声と、再び勢いよく開く前扉の音に、戸惑うように振り返った。
「あっ…!」
振り返ったアヒルが、大きく目を見開く。
「セ、セーフっ…!」
アヒルと同じように、目一杯両手を横へと広げながら、教室へと駆け込んでくる、一人の人物。
「あっ…」
目の前に現れたその人物に、アヒルが信じられない様子で、ただ茫然と立ち尽くした。
「セーフですかぁ!?」
開いた前扉から、教室へと現れたのは、焦った表情を見せた、保であった。アヒルより一段と長い手は、広げると扉の幅を、余裕ではみ出している。
「アウトだ、ボケっ」
「ひぇぇ~!こんな年中寝ぼけ顔の俺が、一丁前に夢なんか見て、寝過ごしちゃってすみませぇ~んっ!」
「鬱陶しいっ…」
アヒルに対してと同じようにアウトを宣告する恵であったが、両手で頭を抱え、叫びあげる保に、引きつった表情を見せる。
「た、保っ…?」
「へっ?あ、おはようございまぁ~す!アヒルさぁ~んっ!」
「お、おはようって…」
戸惑った様子で見つめるアヒルに、大きく手を挙げ、笑顔で挨拶をする保。そんな保の笑顔を見ながら、アヒルがさらに戸惑った顔となる。
「お、お前、なんでっ…!」
「へぇっ?」
「もう風邪は治ったのかぁ?高市っ」
「か、風邪っ?」
「あ、はい!」
横から問いかける恵の言葉に、アヒルが目を丸くする中、保が大きく頷いて返事をする。
「はぁっ!こんなバカ丸出しのはずの俺が、風邪なんか引いて、都市伝説覆しちゃってすみませぇ~んっ!」
「あぁー、鬱陶しいっ…」
またしても叫び散らす保に、恵がさらに引きつった顔となる。
「か、風邪って…?」
「んあっ?ああ、お前は遅刻して来たから、知らないんだったな」
困惑した様子で振り向くアヒルに、恵がゆっくりと頷く。
「高市は転校してきたその日に、熱出してぶっ倒れたらしくて、それからしばらく、学校休んでたんだよっ」
「ね、熱っ…?」
「ああ、よっぽど初日に緊張したのか」
「ひぇぇ~!俺みたいな無神経そうな奴が、意外と繊細ですみませぇ~んっ!」
視線を送る恵に、保が叫びで答える。
「ね、熱ってっ…」
―――あっれぇ?アヒルさぁ~ん!―――
転校初日といえば、保が、遊園地跡に居たアヒルの目の前に現れ、波城灰示となって、アヒルと戦いを繰り広げた、あの日であった。その後も和音により、韻へと連行されたのだ。熱で寝込んでいたはずがない。
「お前っ…!」
「えっ?」
勢いよく歩み寄ってくるアヒルに、頭を抱えて叫んでいた保が、その動きを止める。
「お前、そのっ…!波城は…!韻はっ…!」
「ハジョウ?イン?」
必死に問いかけるアヒルの言葉に、大きく首を傾げる保。
「何ですかぁ?それ」
「えっ…?」
不思議そうに聞き返してくる保に、アヒルが大きく目を見開く。
「おっ前!すっとぼけてんじゃっ…!」
「ひえぇぇっ!」
「アヒるん…」
「……っ」
掴みかかるアヒルに、保が怯えるような声を出していたその時、アヒルを止めるようにして、その肩に手を置いたのは、囁であった。
「囁っ?」
「彼に問いかけても無駄よ…彼は何も憶えていないのだから…」
「えっ…」
囁の言葉に、アヒルが眉をひそめる。
「憶えて、いない…?」
「どういうことだ?」
丁度その頃、言ノ葉高校の屋上では、篭也と和音が話をしていた。
「ですから、高市保は、両親が五十音士であったことやその死の深い原因、そして、自分の中に眠る波城灰示の存在、すべてを憶えていないのです」
和音がはっきりとした口調で、冷静に話す。
「いえ、記憶から消えているのですから、憶えていないと言うよりは、知らないと言った方が、正しいかも知れませんわね」
「知らないって…」
和音の言葉に、篭也が表情を曇らせる。
「まさか、あなたが…あの悪趣味な言葉を使ったんじゃっ…」
「人聞きが悪いですわね。わたくしは何もしていませんわ」
疑うような目を向ける篭也に、和音がきっぱりと答える。
「彼の記憶が消されたのは、もっと以前。恐らくは、両親の死の直後です」
「えっ…」
その言葉に、篭也が驚いた顔となる。
「直後ってことは、じゃあっ…転校してきた時のあいつはっ…」
「ええ、五十音士や波城灰示の存在など知らず、ただ、高市保として、あなた方と接していたようですわね」
「……っ」
―――ひえぇ~!ごめんなさぁ~い!―――
確かに、学校でアヒルたちと時間を共有していた時も保は、含みを抱えているようには見えず、ごく自然に笑っているように見えた。波城灰示のことを認識していれば、あのような顔では笑えないだろう。
「遊園地跡でのことも、ほとんど記憶はなく、本人は発熱により見た夢と思っているようです」
「記憶が消されているって…」
和音の話を聞きながら、篭也が深く考え込むように首を捻る。
「誰がそんなことっ…」
「恐らくは、波城灰示でしょう」
「えっ…?」
出てくるその名に、驚きの表情を見せる灰示。
「同じ体の中に眠る波城灰示が、高市保の記憶に干渉し、一定部分の記憶を削除したと考えられます」
「波城灰示が…?なんでそんなことをっ…」
「高市保が、自分のことや五十音士のことを知らない方が、色々と行動が起こしやすいから、というのが韻の見解ですが…」
「が…?」
言葉を付け加える和音に、篭也が眉をひそめる。
「わたくしは、波城灰示が、高市保から、悲しみや痛み、そして、この五十音の世界を遠ざけるためだったのではないかと、思います」
「……っ」
和音のその言葉に、篭也がそっと目を細め、表情を曇らせる。
「遠ざける、ため…」
「波城灰示は、我々や自分自身が思っていた以上に、高市保という人間に、同調していたのかも知れません…」
屋上から言ノ葉町の景色を眺め、和音が複雑な顔を見せる。
「だからこそ、あんなにも必死に、この世界から“痛み”を消そうとした…」
「…………」
篭也が黙ったまま、少し考えるように、俯く。
「随分と美談にしたがるんだな」
「そう考えた方が、少しは気持ちが浮上するではありませんか」
あまり納得していない表情で言い放つ篭也に、和音がまるで宥めるような笑みを向ける。
「それに、その方が“救い”もある…」
「……っ」
和音が放つその単語に、ふと顔をしかめる篭也。
「あなたが救いを求めるのか。柄にもないだろう」
「あら、わたくしに、そんな口を聞きますの?」
「うっ…」
悪態づく篭也であったが、和音に冷たい笑みを向けられ、どこからかかかる圧力に、思わず顔を引きつった。
「だが、いいのか?学校になど来させたりして」
逃げるように、話題を逸らす篭也。
「韻の力により、波城灰示は強く封印されております。もう、高市保の中から出てくることもありませんわ」
「そうか。他のハ行の連中は?」
「彼らは波城灰示により、利用されていただけです。処罰を受けることはあっても、五十音士の称号を剥奪されることはないでしょう」
「そうか」
返ってくる和音の答えに、篭也がもう一度頷く。
「このこと、安の神に伝えておいて頂けます?」
「会っていかないのか?」
「わたくしも忙しい身ですので」
問いかける篭也に、和音はそっと笑みを向けた。
「何がそんなに忙しいんだかな」
「韻の仕事は、幅広いですから」
突き刺すように鋭く言い放つ篭也に、誤魔化すように柔らかく答える和音。
「では、わたくしはもう行きますわ。また何かありましたら、報告を」
「ああ」
篭也にそう言うと、和音は篭也に背を向け、屋上の出口へと、ゆっくりとした足取りで歩き始めた。そんな和音の背を、篭也がまっすぐに見つめる。
「ああ、そういえば」
「……っ?」
屋上の扉を開けたところで、不意に振り向く和音に、篭也が眉をひそめる。
「“彼”が、あなたの神に、非常に興味を持っていましたよ」
「……っ」
どこか強調するようにして言う和音に、一気に曇る篭也の表情。
「近いうちに、見に来るかも知れませんわね」
含みを持った笑みを浮かべ、和音が扉から屋上を出て行く。
「ではまた、いずれ…」
その言葉をその場に響かせるように残して、和音は屋上を去っていった。扉が閉まると、その場に篭也だけが残り、静かな空間に、風の吹く音が聞こえる。
「興味、ね…」
和音の放った言葉を繰り返し、そっと空を見上げる篭也。
「あなたが見たいのは、僕の神などではなく、神に附いている僕だろう…?」
見上げた空へ、答えを期待するわけでもなく、篭也が問いかける。
「“檻也”…」
その名がそっと、風に流れた。
その日、放課後。
「クッソ!なんで俺は資料室掃除なのに、保は無罪放免なんだよっ!」
「常習犯と初犯の違いじゃない?」
納得のいっていない様子で、不満げに叫ぶアヒルの後ろの席から、紺平が冷静に言い放つ。
「すみませぇ~ん!アヒルさぁ~ん!俺がインパクトのない名前なばっかりにっ、アヒルさんばかりが目立ってしまってぇ~っ!」
「お前、いい加減、ケンカ売ってんだろ…?」
隣の席で叫んでいる保のその、相変わらずアヒルの名前を馬鹿にした発言に、アヒルが強く表情を引きつる。
「明日は二人とも、遅刻厳禁だからねっ?」
「へぇへぇ」
「はい!任せて下さい!」
注意するように言い放つ紺平に、やる気なく頷くアヒルと、やる気満々に頷く保。
「ああっ…!でもまた、巨大クラゲと戯れる楽しい夢見ちゃって、寝過ごしたらどうしようっ…!」
「その夢のどこか楽しいんだ…?」
不安げに頭を抱える保に、アヒルが呆れきった表情を見せる。
「行きましょう…アヒるん…」
「とっとと掃除を終わらせて来い、神」
「あ、ああっ」
そこへ、鞄を持ってやって来る篭也と囁。二人に急かされるようにして、アヒルが鞄を持って、席から立ち上がる。
「俺も委員会だっ」
アヒルに続くようにして、紺平も席を立つ。
「じゃあね、ガァ、神月くん、真田さんっ」
「ああっ」
「じゃあね、保くんっ」
「あっ、は、はいっ!」
手を振り上げ、笑顔を見せて、教室を駆け出ていく紺平に、頷くアヒル。アヒルたちに続くように呼ばれた自分の名に、少し慌てながらも、保は大きく頷いた。
「さぁーて、じゃあ俺たちも行くかっ」
「ええ…また明日、無事に会えたら会いましょうね、転校生クン…フフっ…」
「明日はもう少し静かにしろ、あなたの叫び声は耳障りだ」
「えっ?あ、は、はぁっ…」
不気味な囁の言葉と脅すような篭也の言葉に、少し引き気味に頷く保。
「じゃあ、また明日なっ、保!」
「……っ!」
最後に向けられるアヒルの言葉に、保が思わず目を見開く。
「はっ…」
保がすぐに、口を開く。
「はいっ!また明日!」
零れんばかりの笑顔で、保は大きく頷いた。




