Word.2 泣イタ友ダチ 〈1〉
穏やかな朝を迎える、八百屋『あさひな』こと、朝比奈家。末っ子・アヒルの部屋。部屋の寝台の上では、アヒルが気持ち良さそうに眠っている。
「んん~っ…夕張…メロン…」
「グッドモーニングサタデーナイトォォ!アーくぅ~んっ!」
いつものようにハイテンションな、朝比奈家の父が部屋へと乱入してくる。部屋へと入った父は、両手いっぱいにレタスを抱え持っていた。
「必殺ぅ~!レタスミサァーイルっ!」
「喰らうか!ボケぇぇぇっ!!」
「ぬおぉぉうっ!」
寝台に向かってレタスを投げようとしていた父の顎に、勢いよく布団から飛び出したアヒルが、回し蹴りを喰らわせた。父が持っていたレタスを部屋にばら撒きながら、床へと倒れ込んでいく。
「見事だっ、息子よっ…よくここまで成長した…」
「言ってろっ」
苦しそうに起き上がる父を見ながら、アヒルが呆れきった表情で肩を落とす。
「だいたい、俺が呼んだのは、夕張メロンであって、レタスじゃねぇ」
「キャベツを持って来んかった分、父を誉めろ」
「誉めるかっ!」
どこか自信満々に言い放つ父に、アヒルが勢いのいい突っ込みを入れる。
「アヒルーっ!とっとと支度して、飯食いに来いっ!」
「あ、ああっ!」
部屋の外、一階の方から聞こえてくる兄・スズメの声に、少し慌てた様子で返事をするアヒル。
「そうだった!今日こそ、遅刻すんのはやべぇ!えぇ~っと、制服っ…!って、あれっ?」
焦ったように体の向きを変え、制服を探そうとしたアヒルであったが、よくよく自分の格好を見てみると、制服を着ていた。どうやら制服を着たまま、眠っていたようである。
「あれっ?俺、昨日着替えてなっ…」
―――あれは忌…―――
―――グオオオォォ…!―――
―――“当たれ”ぇぇぇっっ!!―――
「……っ」
どうやって眠ったのかを思い出そうとした時、アヒルの脳裏に、昨夜の出来事が鮮明に蘇った。謎の少女・エリザと、忌という悪霊に取り憑かれた男。そして、その忌を倒した自分自身のことを。
「俺…どうやって家に…」
「アーくんてば、家の前で寝てたんだよぉ~?」
「へっ?」
悩むように呟いていたアヒルが、父の暢気な声に振り向く。
「いっくら起こしても起きないからさぁ、そのまま部屋に運んだんだよぉっ。家の前で爆睡しちゃう程、疲れてたのぉ~?」
「えっ、と…」
昨夜の記憶は、忌を倒し、少女と男が和解したところまでで、途切れている。家の前まで戻って来た記憶は、まるでない。
「んん~っ?夢、だったのかぁ…?」
自分自身に問いかけるように、ゆっくりと声を落とすアヒル。昨夜、忌の攻撃を受け、痛んだはずの体も、今はまるで痛くない。鮮明だったはずの記憶が、徐々に霞んでいく。
「そうだよなぁ~さすがにあんなもん、この世に存在しねぇよなぁ。あっ、でも結構、痛かったような…」
「青春ゆえの苦悩ぅ~?アーくん!それなら父に、どぉ~んと話してみっ…!」
「違げぇっての」
「うぎゃおっ!」
両手を広げ、これ以上ないくらいに明るい笑顔で話しかける父に、アヒルがまたもや蹴りを喰らわせる。
「んっ?」
父を蹴り飛ばしたその時、アヒルの制服のズボンのポケットから、何かが床へと転がり落ちた。
「あっ…!」
床に転がり落ちたのは、丸い小さな、宝石のような、赤い玉。
―――“言玉”っ!―――
―――コト、ダマ…?―――
「……っ」
大きく目を見開いたアヒルが、ゆっくりとした動作でその場にしゃがみ込み、床に落ちていたその玉を拾う。
「夢じゃ…ない…」
手の中のその赤い玉を見ながら、アヒルがそっと呟いた。
「夢じゃない…夢じゃ、ない…」
無事、走らなくても学校に間に合う時間帯に、家を出ることが出来たアヒルは、何度も同じ言葉を繰り返しながら、深く考え込んだ様子で、ゆっくりと学校への道を歩いていた。
「おぉ~い!朝比奈!」
そんなアヒルの前に立ち塞がるのは、昨日に引き続きヤンキー色全開のアニキとその仲間たち。
「夢じゃ、ない…夢じゃない…」
だがアヒルは、目の前にいるアニキたちにも気付いていない様子で、ひたすら呟きながら、少しも足を遅らせることなく、どんどんと前に進んでいく。
「今日という今日は、コッテンパンのパンの助にしてやるぜぇいっ!」
「夢じゃ、ない…」
「おっりゃああっ!」
気合いの入った声を出したアニキが、どんどんと歩み寄って来る、まるでアニキの見えていない様子のアヒルへ向け、勢いよく拳を振り上げる。
「……っ」
「うっぎゃああああ!」
『アニキィィっ!?』
考え事をしたままのアヒルが、何げなく突き出した拳が、アヒルに殴りかかろうとしていたアニキの腹部に直撃し、アニキが潰れたような声の悲鳴をあげて、吹き飛ばされていく。そんなアニキの姿に、焦ったように叫ぶ仲間一同。
『アニキぃ~っ!!』
「夢じゃあ…ない…」
吹き飛んでいったアニキへと駆け寄っていくヤンキー達の間を通り、何事もなかったかのように、前方へと進んでいくアヒル。
「あっ?」
そんなアヒルが、ふと足を止め、道のすぐ横の電柱や、家の塀を見た。
―――“壊”っ!―――
そこは昨夜、忌の攻撃を受け、粉々に崩れ落ちてしまったはずの場所であった。だが今は、ヒビ一つなく、崩れた形跡も、まるで残っていない。その様子に、アヒルが眉をひそめる。
「夢っ…?」
アヒルが繰り返していた言葉とは、正反対の言葉を発する。
「うっ…ううぅ…おのれっ…朝比奈…」
「アニキぃ~、いい加減、諦めた方がっ…」
「うるっしゃぁーいっ!」
説得するように言い放つ仲間に、強く叫びながらも、倒れたままのアニキなのであった。
言ノ葉高等学校の正門前では、今日もいつものように、風紀委員が立ち並び、大きな声で挨拶を響かせながら、登校してくる生徒たちの身だしなみなどをチェックしていた。
「おはようございまぁーす」
その委員の中には、アヒルの幼稚園の頃からの幼馴染みである、紺平の姿もあった。
「あれっ?」
登校してくる生徒たちを見回っていた紺平が、何かに気づいたような表情を見せる。
「ガァっ!」
生徒たちに紛れて、ゆっくりと歩いてくるアヒルの姿を見つけ、紺平が笑顔を作った。
「珍しいねぇっ、今日は間に合っ…」
「夢じゃない…?夢…?」
「ガァ?」
親しげに話しかけた紺平の横を素通りして、小さく何やら呟きながら、正門から学校へと入っていってしまうアヒル。そんなアヒルの後ろ姿を、紺平が目を丸くして見つめる。
「夢じゃない…?いや、夢っ…」
「んん~?」
どんどんと遠ざかっていくアヒルの背中を見ながら、紺平は大きく首を傾げた。
言ノ葉高等学校、一年D組、教室。
「おっしゃー、とっとと授業やるよぉっ、席着けぇ」
出席簿を片手に持った恵が、乱雑な言葉を発しながら、教室へと入って来る。
「出席取っから、返事ついでに三回転半捻りしろぉ~」
『無理です』
教壇に立った恵の言葉に、生徒たちが慣れた様子で突っ込みを入れる。誰も騒いでいないところを見ると、恵はいつも、同じようなことを言っているのだろう。
「相沢ぁ~」
「はい」
「朝比奈ぁ~っ」
『…………』
「んあっ?」
返って来ない返事に、出席簿を見ていた恵が、顔を上げる。
「朝比奈はどうしたぁ?また遅刻かぁ?小泉っ」
「えっ?」
恵に視線を向けられ、どこか呆れたような表情で、空いている前の席を見ていた紺平が、少し驚いたように顔を上げる。
「あ、えぇ~っと、朝、学校に入っていくところは見たんで、来てるには来てると思うんですけどっ…」
「ああ?何だぁ?それはっ」
紺平の答えに、恵が顔をしかめる。
「折角、遅刻しなかったってのに、授業出ないで、どこほっつき歩いてんだぁ?あいつは」
「まったくです…」
呆れたように言い放つ恵に、反論することもなく、しみじみと頷く紺平。
「はぁっ…」
誰もいない前の席を見ながら、紺平は深々と溜息を吐いた。
その頃、言ノ葉高等学校、屋上。
「夢じゃない…夢…」
誰もいない広い屋上の中央に、大の字になって寝転がったアヒルは、まだ相変わらず、朝から延々と呟いている言葉を繰り返していた。
「夢じゃな…ああぁ~!ダメだぁっ!」
アヒルが突然、大きな声を出し、頭を強く掻きながら、勢いよく起き上がる。
「いっくら考えたって、わかりゃしねぇ!俺の頭じゃ、絶対答えとか出ねぇよっ!」
「そうでしょうね…」
「ああ!?んだとぉっ!?」
返って来る相槌に、アヒルが顔をしかめて、振り向いた。
「って…えっ…?」
「フフっ…」
アヒルが振り向くと、そこには長い黒髪の、どこかミステリアスな空気を纏った、アヒルと同じ年くらいの少女が立っていた。体の調子が心配になるほどに、少女は細く、そして色白であった。あまり生気を感じないような、神秘的な存在のようにも思える。いきなり現れた少女に、戸惑いの表情を見せるアヒル。そんなアヒルを見下ろし、少女がどこか楽しげな笑みを浮かべる。
「誰っ…」
「こんにちは、朝比奈アヒル…」
「えっ?」
名を呼ぶ少女に、アヒルが目を丸くする。
「何で俺の名前っ…」
「フフっ…あだ名は“ガァ”、だったかしら…?」
困惑するアヒルを、さらに困惑させるように、少女が意味ありげに微笑む。
「アヒルって名前なのに、あひる口じゃないのね…残念…」
「はっ…?」
少し身を屈め、座っているアヒルの方へと顔を近づけながら、どこか残念そうな顔を見せる少女。そんな少女の独特のペースに、アヒルが少し眉を引きつった。
「やっぱり、入浴時には湯船にあひる隊長を…」
「おいっ」
「……っ」
さらに言葉を続けようとしていた少女が、背後から聞こえてくる男の声に言葉を止め、ゆっくりと振り返る。アヒルもその声を追い、少女のさらに後方を見た。
「無駄な会話をするな、話すならとっとと話せ」
少女の後ろにある屋上の入口から、屋上へと姿を見せたのは、さらりと流れるような艶やかな黒髪に、細く鋭い黒目の、キレイな顔立ちをした青年であった。こちらも年は、アヒルと同じくらいであろうか。
「囁」
「ササヤキっ…?」
「フフっ、ごめんなさい。ついっ…」
青年の発する言葉にアヒルが首を傾げる前で、少女がどこか怪しげな笑みを、青年へと向ける。
「じゃあ改めて。初めまして、朝比奈アヒル」
少女が再びアヒルの方を見て、笑みを浮かべる。
「私の名前は、真田 囁。彼は…」
「神月 篭也」
振り向いた囁に応えるように、青年、篭也が、素っ気なく名を名乗る。
「お前ら一体、誰なんだ?ウチの学校の生徒か?それにしちゃあ見ない顔だし、制服じゃねぇーしっ…」
同年代に見える囁と篭也の二人であるが、学生がここで纏わなければならないはずの制服を、二人は着ていない。それに、独特の雰囲気を持つ囁と、整った顔をした篭也であれば、同じ学校内に居れば、それなりに目立つはずであるが、そういった見覚えも、アヒルにはなかった。
「私たちは、この学校の生徒じゃないわ。私たちは、そうねぇ…」
囁が少し間を置いた後、ゆっくりと口端を吊り上げる。
「あなたのその、出口のない悩みに、答えることの出来る者、かしらっ…?」
「えっ…?」
微笑む囁に、アヒルが思わず声を漏らす。
「俺の、悩み…?」
「夢か、夢じゃないか…」
「……っ!」
アヒルが何に悩んでいるのかを言い当てる囁に、アヒルが大きく目を見開く。
「どうして、んなこと知ってっ…」
「さっきから延々、呟いてたけど…?」
「あ、そっか」
一度、戸惑いの表情を見せたアヒルであったが、囁の言葉を聞き、どこか納得したように頷く。
「回りくどく言うと、篭也に怒られちゃうから、早速言っちゃうと…答えは…」
囁がそっと、その小さな口を開く。
「“夢じゃない”…」
「えっ…?」
囁から告げられる答えに、アヒルが眉をひそめる。
「昨日の夜、あなたが見たもの、聞いたもの、感じたものは…すべて、現実っ…」
「現、実…」
囁の言葉を、ゆっくりと繰り返すアヒル。
「じゃあ、あの忌ってのは…」
「ええ、この世界に実在するものよ…」
「……っ」
頷く囁に、アヒルの表情が曇る。夢か、夢でないかの悩みが解決したとしても、あの忌という悪霊が実在していることが事実と言われ、少なからず頭の中は混乱した。
「あの人からは…どこまで聞いたのかしら…?」
「えっ…?」
「忌が、悪意ある言葉を向けられた人間の、傷ついた心に巣食う悪霊だということは…?」
「き、聞いた…」
囁から問いかけられ、アヒルが少し詰まりながらも答える。
「あなたの手の中にある、その玉のことは…?」
「へっ?」
囁の問いかけに戸惑いながら、アヒルが自分の手の中を覗き込む。するとそこには、丸い真っ赤な宝石のような玉が握られていた。今朝、父を蹴った時に零れ落ちたその玉を、アヒルはどうやら、悩んでいる間中、握り締めていたようである。
「“言玉”、だって…」
「そう…」
戸惑い気味に答えるアヒルを見つめ、囁がそっと頷く。
「じゃあ、あなた自身のことは…?」
「へっ?俺っ?俺のことって…」
「聞いてない、のね…」
目を丸くするアヒルに、どこか楽しげに微笑む囁。
「そう、じゃあまず、基本的なお話からっ…」
少し後方に下がり、アヒルとの間の距離を広げた囁が、軽く手をあげ、話を続ける。
「この世界にはね、忌を倒すために、忌と同じ“言葉”の力を持った人間たちが存在するの…」
「言葉の、力…?」
「五十音、それぞれの力を持つ人間…私たちはそれを、“五十音士”と呼んでいるわ…」
「五十、音士…?」
「そう…」
不慣れな様子で言葉を繰り返すアヒルに、囁が微笑みかける。
「五十音士たちは、ある特殊な宝玉を使って、言葉の力を操り、忌を倒すっ…」
困惑している様子のアヒルを知ってか知らずか、さらに言葉を続ける囁。
「この宝玉の名を、“言玉”…」
「言玉っ!?」
囁の言葉を大きく繰り返したアヒルが、自分の手の中にある、真っ赤な玉を見つめる。
「じゃ、じゃあっ…」
「そう…あなたは五十音士の一人…」
ゆっくりと言い放ち、アヒルに人差し指を向ける囁。
「五十音、第一の音…“あ”の言葉を操る者…」
「“あ”の…言葉…?」
特にその言葉を強調する囁に、アヒルがさらに大きく目を見開く。
「あなたの発する、“あ”から始まる言葉はすべて、現実のものとなる…それが例え、どんなに不可能なものであっても…必ず…」
「“あ”から…始まる言葉…?」
囁の言葉を繰り返しながら、アヒルが眉間に大きく皺を寄せる。
「あん団子、とか?」
「そんなにお団子が食べたいのなら、それでもいいけれど…フフフっ…」
アヒルの放った単語を聞いて、囁がどこか楽しそうに笑う。
「折角試すなら、もっと派手なことをやりたいわねぇ…例えば、そうねぇ…」
「……っ」
「篭也?」
少し考えるように、周囲を見回していた囁の横から、篭也が出てきて、アヒルのすぐ前へと立つ。篭也は無い表情のまま、まっすぐにアヒルを見つめた。
「手を空へ向けろ」
「あっ?何で?」
「何ででもいいから、早くしろ。時間の無駄だ」
「……っ」
篭也の言葉を不快に思い、顔をしかめながらも、立ち上がったアヒルが、ゆっくりと雲一つない青空へ、言玉を握り締めている、その右手を向けた。
「これでいいかぁ?」
「僕の言った言葉を繰り返せ」
問いかけたアヒルに答えることもなく、篭也が次の言葉を言い放つ。
「何で?」
「何ででもいいと、さっき言ったはずだ。二度も同じことを言わせるな」
「ああ!?」
「まぁまぁ…」
偉そうな篭也の態度に、思わず殴りかかりそうになるアヒルへ、囁が宥めるように声を掛ける。
「いちいちムキになっていると、体力を無駄に使うわよ…?篭也って、常にケンカ腰だから…」
「むぅ~っ…」
説得なのか、諦めなのか、よくわからない囁の言葉に宥められ、乗り出していた身は引き下げるも、まだ怒りの収まらない様子で、篭也を見つめるアヒル。
「いくぞ?」
篭也が改めて、アヒルに問いかける。
「“赤くなれ”」
「はっ?」
篭也の発したその言葉に、思い切り間の抜けた声を発するアヒル。
「何でんな、わけわかんねぇことっ…」
「いいから早く言え」
「わ、わあったよっ」
少し怒ったように言い放つ篭也に、顔をしかめながらも、アヒルが仕方なく頷き、顔を上げて、空へと上げた右手を見つめる。
「あ…」
アヒルの発した“あ”の音に反応し、光を発する言玉。
「“赤くなれ”っ…!」
強く言い放つアヒルに、言玉がさらにその光を強くする。
「うおぉっ!?」
その眩しい光に、アヒルが思わず声をあげる。言玉から発せられた光が、どんどん強くなって、勢いよく空へと弾き出された。
―――パァァァァァンっ!
『ぎゃああああああ!』
「……んっ?」
あまりの眩しさに、思わず俯き、深く目を閉じてしまっていたアヒルであったが、何やら下の方から聞こえてくる悲鳴に、ゆっくりとその瞳を開く。
「な、何っ…んなぁぁっ!?」
空を見たアヒルの瞳が、これ以上は開かない程に、限界ぎりぎりまで開かれる。
「あっ…あ…赤けぇぇっ!!」
先程まで雲一つなく広がっていたはずの真っ青な空は、まだ午前中だというのに、まるで夕焼け空のように、真っ赤な空へと変わっていたのである。
『ひえええぇ!』
『うぎゃあああ!』
校庭や校舎内から聞こえてくる、ひどく混乱した悲鳴たち。突然、空の色が変われば、無理もない。
「さすがは篭也…派手な演出ねっ…フフっ…」
「んなっ、ななななっ…なっ…」
真っ赤に染まった空を見上げながら、どこか楽しげに微笑む囁の横で、ひたすらに声を震わせているアヒル。あまりの出来事に、思考がついていかない状況であった。
「なっ、何で空が、急にっ…」
「あなたがやったんだ」
「俺っ!?」
篭也の言葉に、アヒルがさらに驚いて振り返る。
「あなたの“あ”の言葉が発動し、言葉の通り、空が“赤く”染まった」
「あっ…」
―――あなたの発する、“あ”から始まる言葉はすべて、現実のものとなる…―――
先程の囁の言葉を思い出し、ハッとした表情を見せるアヒル。
「“あ”から…始まる言葉…」
「そうだ」
戸惑うように呟くアヒルに、篭也が大きく頷く。
「昨夜、あなたの放った弾丸」
「へっ?」
篭也の言葉に、アヒルが驚いた様子で目を丸くする。何故、篭也がそんなことを知っているのか、そう思ったからであったが、篭也はそう問いかけたいアヒルを遮るように、さらに言葉を続けた。
「あの的外れも甚だしかった弾丸が、突如、軌道を変え、忌を貫いたのは、あなたの“当たれ”という言葉に反応したからだ」
「“当たれ”…?」
―――“当たれ”ぇぇっ!!―――
―――弾丸が…動く…?―――
「あっ…」
篭也の言葉を聞き、アヒルが昨夜のことを、より鮮明に思い出す。言玉から姿を変えた銃を構えたアヒルは、まるで見当違いなところへと弾丸を放ったが、アヒルが無我夢中で『当たれ』と叫んだその時、弾丸は大きく軌道を変え、男に取り憑いた忌を貫いたのだ。
「“あ”で始まる…言葉っ…」
アヒルの言葉が現実化したものであるとすれば、確かに、昨夜の事象も頷ける。
『ぎゃああああ!』
「どうでもいいけど…」
屋上の端から、大騒ぎになっている校庭を見下ろし、囁が落ち着いた様子で呟く。
「そろそろ何とかしないと…見間違いどころじゃ済まなくなっちゃうわよ…?」
「あっ!そうだ!」
囁の言葉を受け、焦ったように声をあげるアヒル。
「ど、どうすんだよ!?この赤い空!」
アヒルがどこか非難するように、篭也を見つめる。
「こんなもん、どうやって元にっ…!」
「簡単な話だ。あなたがもう一度、“あ”で始まる言葉を言えばいい」
「へっ?」
篭也の言葉に、アヒルが目を丸くする。
「“あ”で始まる言葉?えぇ~っとっ…」
アヒルが腕を組み、考え込むように首を傾げる。
「赤くならなくなれ?ん?いや、赤くならなくならなくなれで…あれっ?」
「バカ丸出しね…フフ…」
「うっせぇ!こう見えて、俺は国語苦手なんだよっ!」
「見た目通りよ…フフ…」
「はぁ…」
アヒルと囁の会話を聞きながら、篭也が深々と溜息を吐く。
「“青くなれ”」
「へっ?」
「“青くなれ”と言えばいい」
「あ、そっか」
まるで焦った様子も見せずに答える篭也に、アヒルがあっさりと納得し、再び言玉を握り締めている右手を、空へと掲げた。
「“青くなれ”っ!」
―――パァァァァンっ!
アヒルの言葉に、言玉が再び強い光を放ち、その光が空へと突き上げられると、夕焼けのような真っ赤な空は、元通りの真っ青な空へと染め戻された。
「あ、あれっ…?」
「何だったんだ…?今の…」
校庭や校舎内で響いていた叫び声も、青くなった空に、一気に収まる。
「ふぃ~っ」
元に戻った空を確認し、アヒルがどこか安心した様子で肩を落としながら、ゆっくりと言玉を握り締めている右手を下ろす。
「残念…このまま夕方ムードになったら、授業も終わったかも知れないのに…」
「えっ!?マジ!?」
「囁」
「フフっ…冗談よ…」
「んだよ、冗談かっ…」
囁の言葉に、目を輝かせるアヒルであったが、注意するように名を呼ぶ篭也に囁が呟くと、アヒルはどこか残念そうに、その場に座り込んだ。
「五十音士に言葉の悪用は許されない。あなたも五十音士になったんだ、よく覚えておくといい」
「あっ?」
篭也の言葉に、アヒルが間の抜けた声を漏らす。
「何、勝手なこと言ってんだよ?俺はまだ、その五十何とかになるなんて、一言もっ…」
「残念だけど…これは言葉にしなくても、現実になってしまうの…」
「えっ?」
アヒルが今度は、囁の方を振り向く。
「あなたはもう五十音士の一人になってしまった…もう引き返すことは出来ない…」
「……っ」
どこか冷たく微笑む囁に、アヒルの表情が曇る。
「あなたにはこれから、私たちと共に、忌と戦っていってもら…」
「あぁー、無理っ」
「即答ね…フフフっ…」
囁が言葉を言い終える前に、大きく首を横に振るアヒル。そんなアヒルを見て、囁は、特に驚いた様子は見せず、どこか楽しげに微笑む。
「俺、やりたいことしかやらねぇ性格だし、第一、国語の成績最悪なのに、言葉の力使うとか無理だしっ」
「それは言えてるわね…」
「おいっ!」
素直に頷く囁に、アヒルが顔をしかめる。
「その五十何とかって、要は五十人くらい、いんだろ?じゃあ俺一人抜けたって、大したことねぇーじゃんっ」
「まぁ、それはそうだけど…」
「というわけで、俺はパス!まぁ忌見かけた時だけくらいなら、手伝ってやってもいいけどなぁっ」
軽い口調で言葉を吐きながら、楽天的な笑顔を見せたアヒルが、近くの地面に置いてあった鞄を手に取り、ゆっくりとその場で立ち上がる。
「俺、昼寝してぇーから、場所変えるわっ。じゃっ、まぁまたどっかで会ったら、挨拶くらいするよっ」
「あっ…」
囁が止める間もなく、アヒルは足早に歩いて、二人のいる屋上から去っていった。静かになり、風の音がよく聞こえるようになった屋上で、囁と篭也が立ち尽くす。
「フラれちゃった…残念…フフっ…」
残念とは言いながらも、少しも落ち込んでいない様子で、そっと微笑む囁。
「どうする…?篭也…」
「別に…どうもしない…」
問いかける囁に、篭也が素っ気なく答える。
「どうせ、すぐに思い知る…」
顔を上げた篭也が、鋭い視線で、青い空を見上げる。
「もう…決して逃れることなど出来ないということを…」
「……っ」
篭也の冷たい声を聞き、そっと目を細める囁。
―――その五十何とかって、要は五十人くらい、いんだろ?じゃあ俺一人抜けたって、大したことねぇーじゃんっ―――
「そうね…」
先程のアヒルの言葉を思い出し、それに答えるように、囁が頷く。
「あなたが、ただの五十音士だったなら…それも可能だったかも知れないのにね…」
囁の声が、少し悲しげに、吹き抜ける風に乗った。