Word.11 はノ真実 〈4〉
翌日。
「…………」
自分のベッドで眠り続ける母親を見つめながら、父親がそっと目を細める。父親が、無事に母親に取り憑いた忌を倒し、母親が傷つけた子供の傷も治したので、町には何事もなかったように平穏な朝が来たが、保の家だけは、そうではなかった。
「お父さん」
「……っ?」
部屋に入ってくる幼い声に、父親が振り向く。すると、そこには、不安げな表情を見せた、保が立っていた。
「お母さん、起きた…?」
「いや、まだだよ」
「そう…」
父親の言葉を聞き、保が少し肩を落とす。
「……っ」
眠ったままの母親を見つめ、保がその表情を曇らせる。
「保」
「んっ…?」
父親に名を呼ばれ、母親を見ていた保が顔を上げる。
「この町を、出ようか…?」
「えっ…」
その思いがけない言葉に、保は大きく目を見開いた。誰よりもこの町が大好きだった父が、そんな言葉を口にするとは、思ってもみなかったのである。
「僕たちのことを、誰も知らない町で…三人で、やり直そうか…?」
「……っ」
言葉を続ける父親に、目を細める保。この町を捨てようと思えるほどに、今、父が苦しいのだと思うと、保の胸まで、ひどく苦しかった。
「うん、そうだねっ」
大きく笑顔を作り、保が頷く。
「そうしようっ、それがいいよっ」
「ああ…」
もう一度頷く保に、父親もそっと笑顔を見せる。
「ああ、そうだ。保、買い物をして来てくれるか?父さん、母さんを看てないといけないから」
「うん、いいよっ」
思い出したように言う父親に、保が快く返事をする。
「これ、買ってきてほしいもの、書いておいたから」
「わかった!」
メモを受け取り、笑顔を見せる保。
「じゃあ、行って来るね!」
「ああ」
父親に軽く手を上げ、保が足早に部屋を出て行く。部屋の扉が閉まると、静かな空気が流れた。
「…………」
部屋に残った父親が、保へと向けていた笑みを消し、そっと俯く。
「うっ…!」
俯いた父親が、急に苦しげな声を漏らす。
「うぅっ…うっ…!」
<傷つけた者に…報復を…>
「クっ…!」
父親の体を包み込む黒い影が、父親に囁くように言い放つと、その言葉に、父親は険しい表情を見せた。
「保っ…」
苦しむ中、父親がそっと保の名を呼ぶ。
「ごめんな…」
小さな声が、部屋に落ちた。
「買い忘れはないよねぇ?」
メモと袋の中の食品などを見比べながら、確認をする保。
「うん、大丈っ…あれっ?」
買い忘れがないことを確認し、顔を上げた保が、道の中央に集まっている人影に気づき、戸惑うように首を傾げた。
「何かあっ…えっ…?」
集まっている人々の視線を先を見た保が、ふと、その表情を止める。
「えっ…?」
皆が見つめているのは、赤々とした炎に包まれている、一軒の家。それは、保が今から帰ろうとしていた、保の家であった。
「か、火事だぁ!」
「しょ、消防車っ…!急げっ!」
保の家の前へと集まった近所の人間が、慌てた様子で、声を張り上げている。
「嘘…」
燃え上がる炎を、ただまっすぐに見つめる保。
「なん、でっ…」
目の前で真っ赤に染まる自分の家に、優しい父と母が待っているであろう温かい家に、保が目を開いたまま、茫然とした様子で、近づいていく。
「お父さんっ…!お母さんっ…!」
「や、やめろっ!ダメだ!」
燃え盛る炎の中へと駆けていこうとした保を、近くにいた大人たちが必死に押さえ込む。
「嫌だ!お父さん!お母さん!嫌だぁっ!」
何人もの大人に体を押さえつけられながら、保が燃える家へと、必死に手を伸ばす。
「なんでっ…?なんでっ…」
保が戸惑うように、炎へと問いかける。
―――僕たちのことを、誰も知らない町で…三人で、やり直そうか…?―――
「なんでっ…!なんでぇっ…!!」
つい先程の父親の言葉が思い出され、保は必死に声を張り上げた。
「離してっ…!離してよぉっ!!」
叫ぶ保の瞳から、透明な涙が零れ落ちる。
「お父さんっ!お母さっ…!」
―――バァァァァァンっ!
「……っ!!」
保が両親を呼ぼうとしたその瞬間、爆発音のようなものが辺りに響き渡り、燃え盛る家が、一階から潰れるようにして、崩れ落ちた。目の前で崩れていく自分の家に、保がさらに目を見開く。
『うっ…』
その衝撃的な光景に、保の体を押さえ込んでいた大人たちも皆、力なく手を下ろし、保の体は解放された。
「あっ…」
自由になった体で、数歩足を動かし、崩れ落ちた家へと、歩み寄っていく保。
「お父さん…?お母さん…?」
その呼びかけの前に広がるのは、ただ残酷なだけの光景。
「うぅっ…!」
保が両手で頭を抱え、強く唇を噛み締める。
「うあああああああああっ…!!」
悲痛な叫び声が、天まで響き渡った。
「…………」
火が消えた時、もう家の形は少しも残っていなかった。ただ、瓦礫と燃え尽きた家の残骸と、底知れぬ絶望だけが、保に残った。
「何が…違ったの…?」
燃え尽きた家の前に立ち尽くし、保が誰へともなく、力なく問いかける。
「何か…間違えたの…?」
―――大丈夫っ?お父さんっ―――
―――みんなを守るためだ。このくらいの傷、全然痛くないさっ―――
父も母も、必死に戦っていた。時には傷つきながら、その体から血を流しながら、大好きなこの町の人間を守るため、一生懸命に戦っていた。
「なんでっ…!」
涙を流した保が、膝からその場に崩れ落ちる。
「痛いっ…!痛いよ…!痛いよっ…!!」
地面に泣き崩れた保が、地面へとその涙の粒を落としながら、何度も何度も、その言葉を繰り返す。
「痛い、よっ…」
感情のこもった声が、静かに落とされる。
<じゃあ、その痛み…僕にくれない…?>
「えっ…?」
すぐ近くから聞こえてくる声に、深く俯いていた保が、ゆっくりと顔を上げた。
<君のその痛み…この僕にくれない…?>
顔を上げた保の目の前に浮かんでいたのは、小さな黒い影であった。不気味な雰囲気を纏っていたが、その影から聞こえてくる声は、妙に澄んでいた。
<僕がその痛みを力に変えて…痛みのない世界をつくってあげるから…>
「痛みの、ない…?」
<そう…>
虚ろな瞳で聞き返す保に、影はそっと頷く。
<一緒に…痛みのない世界をつくろう…?>
「……っ」
その言葉を聞き、保はゆっくりと、その黒い影へと、手を伸ばした……――――
『…………』
灰示から保の話を聞き終えたアヒルとエリザは、険しくも、どこか哀しげな表情を見せ、すぐさま口にする言葉も見つけられず、ただ黙り込んでいた。
―――親は…いないので…―――
―――ずっと憶えていたら、笑うことすら出来なくなってしまいそうで…―――
「……っ」
昼間と先程の保の言葉を思い出し、そっと俯くアヒル。あの保の言葉は、灰示による言葉ではなく、紛れもない、保自身の言葉だったのだ。
「それが…あなたがこの世界から、痛みを失くさなきゃいけない理由…?」
「そうだよ…」
少しの沈黙を置いて、やっと問いかけたエリザに、灰示が微笑んで頷く。
「悪意ある言葉を失くして、傷つく人間が存在しなくなるようにする…これが僕と、保の望み…」
「……っ」
灰示の言葉を聞き、アヒルが厳しい表情を作る。
「でもっ…」
同じく厳しい表情を見せ、言葉を挟むエリザ。
「そんなことしたって、彼の失ったものは、もうっ…」
「だからって…他の人間が傷つくのを、黙って見てていいって言うのかい…?」
エリザが言い終える前に、灰示がすかさず言い放つ。
「随分と心が狭いんだね、神様はっ…」
「……っ」
鋭く微笑む灰示に、エリザが眉をひそめる。
「僕は黙って見てたりなんてしないよ」
灰示がさらに口端を吊り上げ、笑う。
「僕はちゃんと救ってみせる。保と同じような痛みを抱く人間が、いなくなるようにしてみせる」
両手を広げ、自信を持って言い放つ灰示。
「僕が神となって、素晴らしい世界をつくってみせるよっ…」
広げられた両手の先から、いつの間にか構えられる、赤銅色の針。
「君たち、神を殺してねっ…!」
『……っ!』
冷たく微笑み、針を投げ放つ灰示に、アヒルとエリザが、険しい表情を見せた。




