Word.11 はノ真実 〈3〉
「……っ」
倒れ込んだアヒルを見下ろし、開いていた右手を握り締めた灰示の体が、ゆっくりと下降していく。アヒルが倒れ、“上がれ”の言葉の力が切れたのであろう。
「今の言葉はっ…」
戸惑うように、降りてくる灰示を見上げるエリザ。
「忌の…?」
エリザが眉をひそめ、少し考え込むように呟く。
「うっ、うぅ…」
「あっ!アヒルっ…!」
考え込んでいたエリザが、聞こえてくる苦しげな声に、思い出したように振り向く。壁際に倒れ込んだアヒルが、起き上がることも出来ない様子で、小さな声を漏らしていた。
「アヒルっ!グっ…!」
先程、灰示に突き刺された、足の針を抜き、エリザが顔をしかめながらも、何とか立ち上がる。
「アヒルっ…!」
針で刺された方の足を引きずりながら、必死の足取りで、倒れ込んでいるアヒルへと駆け寄るエリザ。
「ちょっと!大丈夫!?」
アヒルのすぐ横へと座り込んだエリザが、倒れたままのアヒルへと手を伸ばす。
「痛ててっ…あんまり、大丈夫じゃねぇかもっ…」
エリザに手を貸してもらい、何とかその場で起き上がるアヒル。
「何かもう痛すぎて、意識飛びそうだしっ…」
「自業自得よっ、戦いの最中に攻撃の手を止めたりなんてするからっ」
頭を押さえるアヒルに、エリザが厳しい言葉を投げかける。
「どうして撃たなかったのよ?絶好のチャンスだったのにっ」
「それはっ…」
「そうだよ」
『……っ』
会話の中に入ってくる声に、アヒルとエリザが同時に振り向く。
「あんなチャンス、もう二度となかったのに」
「…………」
空中から床へと降り立った灰示が、相変わらずの不敵な笑みを浮かべながら、ゆっくりとアヒルたちの方へ歩み寄って来ていた。近づいてくる灰示を見つめながら、アヒルがその表情を曇らせる。
「お前…」
「……っ?」
ゆっくりと口を開くアヒルに、足を止め、眉をひそめる灰示。
「お前と保は、本当に同じ人間か…?」
「……っ」
アヒルの問いかけに、灰示がハッとなって、目を開く。
「保は本当に…お前が力で作り出した、架空の人間か…?」
「…………」
さらに問いかけを続けるアヒルを、一度開いた目を細め、灰示がまっすぐに見つめる。
「アヒル?何言っ…」
「ハハっ、さすがに勘が鋭いね、神様は」
「……っ!」
アヒルに問いかけようとしたエリザが、そこへ聞こえてくる灰示の声に、驚きの表情を見せる。
「えっ…?」
「そうだね。その問いかけも気に入ったから、答えてあげるよ」
エリザが戸惑うように振り向く中、灰示がどこか満足げに微笑む。
「本当のことを言うと、僕、波城灰示と、君の知っている高市保は、同じ人間じゃない」
灰示が両手を広げ、はっきりとした口調で言い放つ。
「僕たちは、同じこの体に宿る、別々の人格だからね」
『えっ…!?』
灰示のその言葉に、アヒルとエリザが衝撃を走らせる。
「同じ体に宿る、別々の人格っ…?」
「まさかっ…二重人格!?」
二人が戸惑いの表情で、灰示を見つめる。
「二重人格か…ニュアンス的には近いけど、それとはまるで別物かな…」
「えっ…?」
「彼と僕とは、まるで異なる存在だからね」
「異なる…?」
灰示の言葉を聞けば聞くほど、戸惑いの表情を濃くしていくアヒル。
「お前は…一体っ…」
「……っ」
言葉の先の答えが見えず、思わず問いかけるアヒルを見て、灰示がそっと笑みを零す。
「僕は忌…」
「えっ…?」
「僕は、保に取り憑いた忌が人格を持ち、実体化した姿なんだよ」
『……っ!』
示される答えに、アヒルとエリザは、さらに衝撃を走らせた。
「なっ…」
あまりの驚きに目を見開き、思わず発する言葉さえ失うアヒル。
「忌っ…?」
その言葉をすぐには信じられないほど、目の前に立つ灰示と、アヒルの知る忌とでは、存在が違い過ぎていた。ただの黒い影のような化け物の忌と、完璧に人間にしか見えない灰示が、同じ種とは思えなかった。
「そんな、ことっ…」
思ったことを、必死に前に出し、言葉にするアヒル。
「そんなことが、あるはずっ…!」
「あるかも」
「エリザっ?」
アヒルのすぐ横で、アヒルとは真逆のことを口にするエリザに、アヒルが戸惑うように振り向いた。
「あるかもって、どういうことだよっ…?」
「さっき、彼が使った言葉」
遠慮がちに問いかけるアヒルに、エリザがすぐさま答える。
―――“破”―――
「あれは、本来は忌の言葉だわ」
「……っ」
エリザの言葉を聞き、アヒルが少し考え込むように俯く。確かに『破』という言葉を使って衝撃波を放つのは忌の技であり、アヒルも今までに何度か、この目で見て来た。
「それに、ずっとおかしいと思ってたの」
「おかしい?」
「いくら、強い力を持った五十音士でも、異質な存在である忌を増やすなんてこと、出来ないんじゃないかって」
アヒルの方を振り返り、真剣な表情を見せるエリザ。
「でも彼が忌だというのなら、それも納得がいくわ」
「あいつも忌だから、同じ忌を増やすことが出来るってことか?」
「ええ」
問い返すアヒルに、エリザが短く頷く。
「でも、忌が人の姿に実体化したなんて話は、聞いたことがないっ…」
灰示を見つめたエリザの表情が、深く曇る。
「そんなの、最も強力な力を持つ、イ級の忌でも無理なはずっ…」
「忌だけの力ではね」
「……っ」
入ってくる灰示の声に、エリザが少し驚いたように目を開く。
「神様なら知っているだろう?忌の階級は、宿主が言葉により受けた、痛みの深さに比例するってこと」
「あっ…」
―――お前ら、ハ級の忌なんて滅多に出ないってっ…―――
―――ああ、滅多に出ない。何せ忌の階級は、宿主が悪意ある言葉により受けた、痛みの深さに比例するんだからな…―――
奈々瀬の友・リンにハ級の忌が取り憑いた時、篭也から確かにそう聞かされていた。
「その痛みが深ければ深いほど、忌の力は強くなる…ある時には、イ級の忌すら超えてしまうほどにっ…」
「イ級を、超えるほどって…」
灰示の話に、エリザが険しい表情を見せる。
「保が…」
「……っ?」
そっと保の名を口にするアヒルに、灰示が少し首を傾げる。
「保がお前を…強くしたっていうのか…?」
「……そう」
アヒルの問いかけに、少し間を置いた後、灰示が微笑んで頷く。
「保の底知れぬ痛みが、僕を生み出したんだよ…」
「……っ」
その灰示の微笑みを見つめ、アヒルが表情を険しくする。
「痛みがイ級以上の忌を生み出すなんて…そんなことがっ…」
「何だ…?」
「えっ…?」
あまりにも信じられない話に、茫然としていたエリザの横から、聞き取るのもやっとなほどに小さな声で、アヒルが静かに問いかける。
「お前を生み出したほどの、あいつの“痛み”って、何だ…?」
「…………」
アヒルの問いかけを聞き、灰示がそっと目を細める。
「“何だ”、か…君は本当に、五十音士らしくない問いかけばかりをするね、安の神…」
どこか感心するように呟き、再び笑みを浮かべる灰示。
「いいよ。気に入ったから答えてあげる」
浮かべた笑みを、灰示がアヒルへと向ける。
「この“痛み”を知って、君たちも理解するといい…」
灰示が細めた瞳を光らせ、鋭い視線を二人へと送る。
「この世界から、“痛み”を失くさなきゃいけないわけを…」
――――八年前。言ノ葉町とは別の、とある小さな町。
ごく普通の小さな町は、とても平和な町で、幼い保は、そのごく普通の町の、ごく普通の小さな家に生まれて、そして七歳になったその年まで、ずっとここで育ってきた。
「おかえりなさい!お父さん!お母さん!」
「ただいま、保」
「いい子にしてたか?保」
「うん!」
優しい父と、優しい母と、共に。
「忌は?取り憑かれた人、大丈夫だった?」
「ああ、問題ないよ」
「そっかぁっ」
保の父と母は、五十音士で、町に現れた忌を退治するため、度々、保を家に置いては、二人で出掛けていた。そんな二人に、保は寂しいと思うこともあったが、だがそれ以上に、二人を誇らしく思っていた。
「良かったぁ。さすがお父さんとお母さんっ!」
幼いながらに五十音士というものを教えられ、それを深く理解していた保は、言葉に傷ついた人間たちを救う二人を、心から誇りに思っていたのである。
「お父さんとお母さんがいれば、この町はずっと平和だねっ」
「本当は、忌なんてものが生まれなくなれば、それが一番なんだけどな」
大きく笑う保の頭を撫でながら、父親が少し困ったような笑みを浮かべる。
「世の中から、悪意ある言葉なんてものが、なくなってしまえばいいのになっ…」
「お父さんっ…」
願うように言う父親を、保がまっすぐに見上げる。
「悲観していても仕方ないわ。それに、保が五十音士になる頃には、きっと世界も良くなってるわよ」
母親が、父親を励ますように、温かい笑顔で言い放つ。
「そうだな。保たち、新しい時代の五十音士が、この世界を変えてくれるかもな」
「うん!僕、頑張るよ!」
微笑みかける父と母に、保は大きく頷いた。
「頑張って、お父さんたちみたいな、立派な五十音士になってみせるよ!」
いつか、五十音士になって、この世界を痛みのない世界にして見せると、あの頃の保は、心から強く、そう思っていた。
だが、些細な言葉が、保の穏やかだった日常を、大きく変えた。
「あの家の夫婦は、おかしな力を持っている」
言玉で忌退治をしていることが知られたのか、ある日、誰だかが放ったその言葉は、噂となって、あっという間に町中に広がった。二人が必死に戦って、守ってきた町人たちは皆、保たち一家に、冷たい疑いの目を向けるようになった。
「…………」
郵便ポストに入れられていた、乱雑に『出て行け』や『化け物』と書かれた大量の紙を、新聞と一緒に取り出しながら、保の母親は複雑な表情を見せ、立ち尽くしていた。
「どうかしたの?お母さん」
「えっ…!?」
すぐ背後から聞こえてくる声に、母親が慌てた様子で振り返る。
「た、保っ…な、何でも、ないのっ」
「……そう」
入れられていた紙を隠すように後ろ手に持ち、誤魔化すような笑みを浮かべる母親に、保は追及することもなく、そっと笑みを浮かべて頷いた。
「もう学校行くの?」
「うん」
「いってらっしゃい」
「うん、いってきます」
ランドセルを背負った保が、母親の横を通り、家の門から外へと出て行く。
「あ、保っ…!」
「……っ?」
学校へと向かおうとした保が、母親の声に呼び止められる。
「何っ?」
「あっ…えっと…」
聞き返す保に、少し躊躇うように俯く母親。
「何でもないわ。ごめんなさい」
「……っ」
無理に作ったとわかる笑みを浮かべ、首を横に振る母親に、保はそっと目を細めたが、すぐに大きな笑顔を作り、母親へと向けた。
「じゃ、じゃあっ、いってきます!」
「ええ、いってらっしゃい」
温かく微笑んだ母親に見送られ、保は学校への道を、少し駆けるようにして、進んでいった。保の姿は、あっという間に見えなくなってしまう。
「…………」
母親は、保の去っていった道を見つめながら、作った笑みを消し、無気力な表情を見せた。
「痛い…」
再び『化け物』と書かれた紙を見つめ、母親がポツリと呟く。
「痛い…」
母親の暗い声が、何度も何度も落とされた。
その些細な言葉は、保の学校生活にまで、大きな影響をもたらした。
「化け物だ!化け物の子供が来たぞ!」
「帰れ帰れ!気色悪い!」
無邪気なはずの子供たちは、親の真似をしているのか、平気な顔をして、保に悪意ある言葉を向けた。その言葉の数々は、無邪気な分、より残酷に保の心に突き刺さり、保の心を痛めつけた。
「とっととこの町から出て行けよ!」
「うっ…!」
言葉だけでは飽き足らず、時には、保を殴る者や蹴る者もいた。
「死ねよ!消えろよ!」
「いなくなれ!いなくなれ!」
「うぅっ…!」
だが、どんな酷い言葉を投げかけられても、何度殴られても、保は言い返すことも、殴り返すこともしなかった。それが両親との約束だった。どんなに傷つけられても、相手を傷つけることはしないという、約束だった。
「うぅっ…」
だから保は、ひたすら、すべてを受け入れ続けた。
殴られた体が痛み、結局、保が家へと帰れたのは、すっかり日が沈んだ頃だった。
「た、だいま…」
「保?」
少し気まずそうにそう言いながら、保が玄関の戸を開けると、家の奥から、いつもの母親の声がした。
「どうしたの?こんなに遅くまっ…保っ!?」
玄関へと出て来た母親が、傷だらけの保を見て、顔色を変えた。
「どうしたの!?何!?この傷っ!」
「ちょ、ちょっと、そこで転んじゃってっ…」
保に駆け寄り、強い剣幕で問いかける母親に、保が必死に笑顔を向ける。化け物の子供と言われて殴られたなど、保にはとても言えなかった。
「転んで出来るような傷じゃないでしょう!?保っ、一体何がっ…!」
「大丈夫だよっ!」
「……っ」
追及しようとする母親の声を、張り上げた声で遮る保。
「僕なら大丈夫だから…ねっ?」
「保っ…」
悲しげな笑顔を向ける保に、それ以上、強い言葉を向けることも出来ず、母親はそっと目を細め、保の名を呼ぶことしか出来なかった。
「僕、着替えてくるねっ…!」
「あっ…」
まるで、母親から逃げるように、保は家の奥へと駆け去っていった。
「…………」
玄関に残った母親が、そっと自分の左胸に手を当てる。
「痛い…」
その言葉が、再び母親の口から、零れ落ちた。
その日の夜、忌に取り憑かれた保の母親が、町の人間を傷つけた。
傷つけたのは、保を殴った、保の同級生の一人。まだ幼い子供だった。




