Word.11 はノ真実 〈1〉
遊園地跡最奥、恐怖の館ゴール地点の広間。
「波城っ…」
アヒルが険しい表情で、目の前に立った男を見つめる。
「波城…灰示っ…!」
「ハハハっ…」
暗闇と同じ黒い髪に、鋭く光る赤い瞳を持ったその男、波城灰示は、名を呼んだアヒルの方を見ながら、どこか楽しげに笑みを浮かべた。
「初めまして、安の神。ようこそ、我が館へ」
出迎えるように軽く右手をあげる灰示に、アヒルが眉をひそめる。
「君は…初めまして、ではないかな?」
「……っ」
どこか問いかけるように首を傾げる灰示に、エリザは答えぬまま、ただその表情を厳しくした。
「どういうことだ…?さっきは確かに保がっ…」
戸惑うように灰示を見つめていたアヒルが、ふとその視線を逸らし、先程、保を座らせたはずの壁際の方を見る。だが、そこに保の姿はなかった。さらに部屋を見回し、保の姿を探すアヒル。
「保っ?」
「ハハハっ…」
「……っ!」
姿の見えない保の名を、不安げに呼んだアヒルが、不意に聞こえてくる笑い声に、その瞳を鋭くし、睨みつけるように灰示を見た。
「てめぇっ!保をどこへやりやがった!?」
「“どこへ”…?何のことかな?」
「んだとぉっ…!?」
「アヒルっ」
「ああっ?」
不思議そうに問い返す灰示に、思わず身を乗り出したアヒルであったが、横からエリザに呼ばれ、顔をしかめたまま振り向く。
「んだよ?ザべスっ」
「エリザよっ。それより、見て。彼の左腕」
「左腕っ?」
しっかり呼び名の訂正を入れたエリザに言われ、アヒルが灰示の左腕を見る。
「あっ…!あれはっ…!」
左腕を見て、大きく目を見開くアヒル。灰示の左腕の制服の破けた部分に、灰示とは似ても似つかない、アヒル柄の可愛らしいハンカチが巻かれていた。ハンカチには、赤く血が滲んでいる。
「あれは、さっき俺が保に貸したっ…」
「ええ、君のお友達が巻いてたハンカチだわ。しかも、まだ血の滲みが大きくなっていってる」
アヒルの言葉に頷き、エリザが鋭い表情で、さらに言葉を続ける。確かにエリザの言うように、ハンカチについた血の染みは、まだ徐々に大きくなっていた。ハンカチで覆われた左腕の傷が、まだ塞がっていない証拠であろう。
「つまり、君のお友達は、初めから波城灰示だった」
「えっ?」
「ううん、波城灰示が君のお友達に姿を偽って、ここへやって来たって言った方が正しいのかも」
「初めからっ…?」
エリザの言葉に困惑しながら、アヒルがゆっくりと灰示を見つめる。
「で、でもっ、保は今日、俺の学校に転校してきたとこの奴でっ…」
「えっ?」
そのアヒルの言葉を聞き、エリザが驚いたように声を出す。
「じゃあ、もうその学校に転校してきた段階から、波城灰示だったって考えるのが妥当でしょうね」
「学校の時から?」
―――ひゃ、ひゃいっ…高市保でふっ…―――
「あの、保がっ…?」
恵にどやされ、アヒルも何度も怒鳴りあげながら、学校で同じ時を過ごした保が、灰示であったとはどうにも考えられず、アヒルはただ戸惑いの表情を見せた。
「君を油断させるために、言葉の力を使ったのよ、きっとっ」
「言葉の力で、んなことがっ?」
「相手は忌を増発させるような奴なのよ?言姫から聞いてきてないわけっ?」
「いや、き、聞いたけどっ…」
戸惑うように問いかけたアヒルに、エリザは強い口調で言い返した。忌を増発させたというその力に、和音も篭也も、確かに警戒を強めていた。
「何が出来たって不思議じゃないわっ」
「ハハハっ…」
さらに眉をひそめ、見つめるエリザに、灰示は余裕すら感じる、不敵な笑みを浮かべた。
「一応聞くけど、君たちは、どうしてここへ来たのかな?」
微笑んだまま、少し首を傾げ、二人へと問いかける灰示。
「そんなの決まってっ…!」
「決まってんだろ!?てめぇをぶっ飛ばすためだよっ!」
「あっ…」
声を張り上げたエリザであったが、もっと大きいアヒルの声に、その言葉を掻き消されてしまう。
「なんで私が言おうとしたこと、先に言うのよっ!」
「ああっ!?俺が何言おうと、俺の勝手だろうが!」
突然怒るエリザに、迷うことなく怒鳴り返すアヒル。敵を前にしているわりには、マイペースである。
「ハハハっ」
「ほらっ、お前が変なことでキレっから、笑われたじゃねぇかっ」
「そんなくだらないことで、笑ってるわけないでしょっ」
よく響く笑い声を漏らす灰示を指差すアヒルに、エリザが呆れた視線を送る。
「僕を“ぶっ飛ばす”…?神様が、同じ五十音士である、この僕をっ?」
「あなたは五十音士なんかじゃないわっ」
「……っ」
強く言い放つエリザに、灰示が少し眉をひそめる。
「忌を増発させて、皆を傷つけるような真似をする人間に、五十音士である資格はないっ」
「……ふぅんっ」
エリザの言葉に、少し間を置いてから、感心したような声を放つ灰示。
「もうバレてるんだね…僕が忌を増発させたってこと」
灰示がそっと目を細め、口端を吊り上げる。
「韻も、そう無能じゃないらしいっ…」
「じゃあ、やっぱりお前がっ…」
「そうだよ」
険しい表情で口を開くアヒルに、微笑んだ灰示が、静かに頷きかける。
「僕が増やしたんだ…この町に溢れるくらい、いっぱい、たくさんの忌をっ…」
『……っ』
さらにその笑みを冷たくする灰示に、アヒルとエリザの表情が曇った。
「忌を増やすなんて、どうやって、そんなこっ…!」
「なんでっ…」
「えっ…?」
問いかけようとしたエリザの言葉を、同じように問いかけの言葉を放った、アヒルの声が、遮った。
「なんでっ!そんな真似っ…!」
「……っ」
その瞳に怒りを燃やし、鋭く問いかけるアヒルを見て、灰示がそっと目を細める。
「“なんで”、か…」
アヒルが放ったのは、エリザとは違う問いかけの言葉。
「変わった問いかけだね、安の神」
そう言って、灰示が口元を緩める。
「でも、そういう問いかけは嫌いじゃないから、答えてあげるよ」
少し嬉しそうに微笑んだ灰示が、顔を上げ、アヒルを見つめる。
「言葉の力を、世の中の人間に知ってもらうためさっ」
「言葉の力を…知ってもらう…?」
「そうっ…」
眉間に皺を寄せ、ゆっくりと確かめるように、灰示の言葉を繰り返すアヒルに、灰示がすぐさま頷きかける。
「悪意ある言葉が、どれほどに人の心を傷つけるのか、それを多くの人間に知ってもらうためっ…」
軽く右手をあげ、灰示がさらに言葉を続ける。
「別に、五十音士として間違った行為でもないだろう…?」
「知ってもらうためっ?それが、どうして忌を増発させることになるのよ!?」
自分の行動を正すように問いかけてくる灰示に、エリザは思わず身を乗り出し、鋭い表情を作って、勢いよく問い返した。
「だって、そうしなきゃ、わからないだろう?」
「えっ?」
続く灰示の問いかけに、エリザが眉をひそめる。
「何げなく放たれた、その些細な言葉に、人の心がどれほど傷つくのか…」
あげられた灰示の右手が、そっと灰示の左胸に触れる。
「いくら言葉で“痛い”と伝えたって、悪意ある言葉を平気で吐くような人間は、その痛みを理解しない…」
「何をっ…!」
「なら、どうすればいいかっ」
「……っ」
反論しようとしたエリザの声を強く遮り、灰示がさらに言葉を続ける。
「同じ“痛み”を与えればいいのさ。傷つけた人間にね」
『……っ!』
一層、笑みを冷たくする灰示の、その言葉に、同時に険しい表情を見せるアヒルとエリザ。
「傷ついた人間に痛めつけられれば、傷つけた人間は、自分が吐いた言葉の力を、その言葉の罪を、知るだろう?」
「罪っ…」
―――兄ちゃんなんかっ!いなくなればいいんだっ…!!―――
「……っ」
灰示の言葉に、過去の言葉が思い出され、アヒルは厳しい表情を見せた。
「それを実行するのに、忌は最適な存在だ。だから僕は、忌を増やした」
左胸から離した手を、灰示がゆっくりと横へ広げる。
「どんな些細な悪意にも忌が宿れば、人は痛みを恐れ、他者を傷つける言葉なんて口にしなくなる」
横へと広げられた手が、今度は天井へと上げられる。
「そうなれば、この世界はやがて…悪意ある言葉のない、穏やかな世界へと変化を遂げるんだよ」
「何がっ…!」
天井へと上げた自分の手を見上げながら、まるで酔いしれるように言い放つ灰示に、エリザは煩わしそうに顔をしかめ、勢いよく声を張り上げた。
「何が穏やかな世界よっ!忌みたいな化け物で溢れる世界が、穏やかなはずないでしょう!?」
「ふぅん…忌を否定するのか…」
ゆっくりと手を下ろした灰示が、意外そうにエリザを見る。
「それは、悪意ある言葉を向けられた人間の、傷ついた心まで否定することになるんだよ…?」
「うっ…!」
鋭く問いかける灰示に、エリザが顔を眉を引きつる。
「そ、そんなことないわ!傷ついた人間は、ただ、その弱った心につけ込まれただけで、相手を傷つけたいなんて思ってなっ…!」
「本当にそうかな?」
「……っ」
またしても、エリザの言葉が、灰示の問いかけに遮られる。
「忌に取り憑かれて、傷つけた相手を痛めつけることを望んでいる人間だって、いると思うよ」
自信に満ち溢れた笑顔で、はっきりと言い放つ灰示。
「だって、僕だったら、絶対にそう思うからっ」
「えっ…?」
不意に強い意志を持った瞳を見せる灰示に、アヒルが少し戸惑うように眉をひそめる。
「君たちは思わない?どんなに傷つけられても、どんなに痛くても、相手を傷つけようとは思わないかい?」
「それはっ…」
灰示の鋭い問いかけに、エリザが思わず口ごもる。
「あぁー!もうっ、君も何か反論しなさいよ!」
「ええっ?俺っ?」
いきなり話を振られ、困ったように顔をしかめるアヒル。
「いやぁ、でもあいつの言うこと、何かそこまで間違っているように感じないっつーかっ…」
「あんなの正論っぽく言ってるだけよ!忌を増やすなんてことっ、許せないに決まってっ…!」
「ハハハっ…“許せない”、か…」
「……っ」
どこか悩むように頭を掻くアヒルに、勢いよく怒鳴りあげていたエリザが、聞こえてくる灰示の声に、険しい表情となって振り向く。
「神様らしい、自己顕示欲ばかり強い言葉だ」
呆れるように、灰示が少し首を横に振る。
「神がそんな考えだから、五十音の世界はいつまでも変わらないんだよ」
灰示が少し、責めるように言う。
「だからいつまでも、悪意ある言葉に傷つく人間は減らないっ…」
「……っ?」
傷つく人間が出ることに、まるで怒りでも感じているかのように、煩わしげな表情を見せる灰示に、少し違和感を覚え、アヒルが表情を曇らせる。
「だから、僕は思うんだ」
一瞬だけ見せた怒りをすぐに消し、灰示が再び不敵に笑う。
「傷つく人間に無干渉な、そんな神たちを、殺そうって」
『……っ』
灰示に獲物を狙うように見つめられ、アヒルとエリザが冷や汗を流しながら、警戒するように身構える。
「やっぱり、戦うしかっ…!」
「“戦う”…?面白いことを言うね」
「えっ…?」
戦う態勢を取り、懐へと手を入れたエリザに、灰示が右手を振り上げ、素早く何かを投げ放った。
「うっ…!」
「エリザっ!?」
灰示の放った何かがエリザの右足へと突き刺さると、エリザは苦しげな声をあげ、力なくその場に座り込んだ。そんなエリザに、アヒルが慌てて駆け寄る。
「エリザっ…!」
「うぅっ…」
「これはっ…針?」
座り込んだエリザの右足には、細長い銀色の針が一本、突き刺さっていた。余程無駄なく刺さったのか、刺さった部分からは、血一滴流れていない。
「エリザ、お前…」
アヒルが険しい表情で、エリザを見下ろす。
「針灸にでも行ってたのか?」
「んなわけないでしょ!あいつが投げたのが、刺さったのよ!相変わらずボケてるわね!」
真顔で問いかけるアヒルに、エリザが勢いよく怒鳴り返す。
「やっぱり、立っているのもやっとの状態だったようだね」
「……っ」
エリザに怒鳴られていたアヒルが、正面から聞こえてくる声に振り向く。
「不治子にやられた傷が、まだ塞がっていないんじゃないのかい?」
「クっ…!」
嘲笑うように問いかける灰示に、エリザが悔しげに唇を噛み締める。
「不治子っ…?あの女か」
ステージであった不治子のことを思い出し、アヒルが眉をひそめる。
「エリザ、お前は大人しくここに座っ…」
「冗談じゃないわっ!」
「へっ?」
すぐさま返ってくる答えに、目を丸くするアヒル。
「元はと言えば、ウチに来た話だったのよっ、何だってポッと出の安団なんかにっ…」
「はっ?」
「えっ!?あぁ~、いえ、えっと、そのっ」
エリザの言っている言葉の意味がわからず、大きく首を傾げるアヒルに、エリザが何とか言い繕おうと、必死に言葉を探す。
「とにかくっ、君だけに波城の相手をさせるわけにはっ…!うぅっ…!」
「エリザっ…!」
大きく声を張り上げたエリザであったが、そのために足に力が入ったのか、針の突き刺さったところが痛んだようで、顔をしかめ、力なく体を縮ませた。
「大丈夫かよっ?」
「……っ」
心配そうに問いかけるアヒルの声を聞きながら、俯いたままのエリザが、険しい表情を見せる。
「朝比奈アヒル」
「へっ?」
急に名を呼ばれ、アヒルが首を傾げる。
「いいっ?私のことは気にせずに、波城灰示を倒すことだけに集中しなさいっ」
「えっ…?」
先程までとは違い、真剣な表情となって言い放つエリザに、アヒルが戸惑った声を漏らす。
「誰かを気にしながら勝てる相手じゃないわ」
「け、けどよっ…!」
「例え、彼の言っていることが、間違っているように聞こえなくてもよっ」
「……っ!」
アヒルが言い返そうとした言葉を知っていたかのように、強く言い放つエリザに、アヒルは驚きの表情で、目を見開く。
「エリザっ…」
「彼がどんな理由をつけたところで、彼が忌を増やして、傷つくはずのなかった、多くの人間を傷つけたことは事実なの」
少し困ったような顔を見せるアヒルに、エリザがまっすぐな視線を送る。
「君だって、彼を許してはいけないと思ったから、ここへ来たんでしょう?」
「それはっ…」
エリザの問いかけに、アヒルが少し俯く。忌が増発したことにより、アヒルの周りの人間も、大切な人たちも、多く傷ついた。波城灰示を野放しにはしておけないと、そう思ったからこそ、確かにアヒルはここへ来たのだ。
「君が彼を許せば、また多くの人間が傷つくことになる」
エリザが、強い瞳をアヒルに向ける。
「神なら、みんなを守りなさいっ」
「……っ!」
はっきりと言い放つエリザに、アヒルが大きく目を見開く。
「……っ」
まるで教えを説くような、そんなエリザの言葉を受け、アヒルの表情から戸惑いの色が消えた。
「わかった」
急に引き締まった表情を見せたアヒルが、大きく頷き、その場で静かに立ち上がって、座ったままのエリザから数歩遠ざかり、灰示に向き合うようにして、右手の銃を構える。
「俺が相手だ。波城灰示」
「ハハハっ、光栄だよ。安の神」
鋭く言い放つアヒルに、灰示はどこか楽しげに笑う。




