Word.1 あノ目醒メ 〈4〉
「おい!おいっ!」
「うっ…」
「……っ」
アヒルが倒れた男のすぐ傍にしゃがみ込み、男の体を揺する。するとアヒルの声に反応してか、男がかすかに瞳を開き、苦しげではあるが、確かな声を漏らした。
「ふぅ~っ、生きてんなっ」
どこか安心したように、肩を落とすアヒル。
「弾丸は忌を貫いただけだから、彼は無傷のはずよ」
「……っ?」
後方からやって来る声に気づき、アヒルがゆっくりと振り返る。
「忌に憑かれた後遺症で、しばらくは体が動かないと思うけどっ…」
「お前っ…」
先程の忌の攻撃で足に傷を負った少女が、足を引きずりながら、ゆっくりとアヒルと男のもとへと歩いてくる。まだ血の流れる少女の足を見て、少し眉をひそめるアヒル。
「お前こそ、大丈夫なのかよっ?すぐ医者行った方がっ…」
「大丈夫っ、後で治してもらうから」
「治してもらう?」
少女の言葉に、アヒルが首を傾げる。
「それって、どういうっ…」
「……っ」
「んっ?」
問いかけようとしたアヒルの視線を通り過ぎて、少女がアヒルのすぐ横へと座り込み、倒れている男の顔を、まっすぐに見下ろした。
「……ごめんなさい…」
「……っ」
少女が男へと放ったその言葉を聞き、思わず目を見開くアヒル。
「酷いこと言って…ホントにごめんなさい…」
男をまっすぐに見つめ、正面から謝罪する少女のその姿を、男も目を逸らすことなく、まっすぐに見つめる。少女のその言葉からは、申し訳なく思っている気持ちが、十分に伝わって来た。
「……僕も…ごめんなさい…」
「……っ」
弱々しい声ながらも、そっと微笑んで謝る男を見て、少女も小さな笑みを零した。その光景を少し後ろから見守っていたアヒルも、いつの間にか自然と、笑みを浮かべていた。
「すぅーっ…すぅーっ…」
「あ、寝ちまった」
「このままにしておきましょう。そうすれば今夜のことは、夢か何かで片づけられるはずだわっ」
「このままって、ここにかぁ?」
何もない荒地を見回しながら、アヒルが軽く頭を掻く。
「まっ、季節はいいし、風邪はひかねぇーだろうけどっ…」
「ふぅっ」
あまり賛成していない様子のアヒルの横で、少女は服のポケットからハンカチを出し、どこか手慣れた様子で、足の傷口にハンカチを巻き、傷の止血をする。
「そういや、お前って一体っ…」
そんな少女の姿を見ながら、思い出したように呟くアヒル。
「衣沢・アレクサンドラ・メアリー・エリザベス」
「はっ…?」
急に並べられる横文字に、アヒルが思わず大きく口を開く。
「何だ?それ。お経か?」
「私の名前よっ!!」
「名前っ?」
怒鳴りあげる少女に対し、アヒルが目を丸くする。
「長っげぇ名前だなぁ」
「まぁアヒルよりはねっ」
「じゃあ略してザべスな、ザべス」
「せめてエリザにしなさいよ!!」
アヒルの提案した呼び名を、ムキになって強く否定するエリザ。
「んだよぉ~っ、人のこと、とやかく言ってたわりに、自分だって結構、笑える名前じゃねぇーかぁ!」
「アヒルに比べたら、私の名前の方が三百倍はマシよっ!」
大きな笑みを浮かべるアヒルに対し、エリザは険しい表情で、口を尖らせる。
「でぇ、ザべスは何だって忌のこと、知っ…って、あれっ…?」
問いかけを続けようとしていたアヒルが、不意に言葉を途切らせ、そっとその瞳を細めていく。
「何かっ…急に眠っ…」
その言葉を言い終える前に、その場に前のめりになって、倒れていくアヒル。
「くかぁーっ!くかぁーっ!」
次の瞬間、アヒルの豪快な鼾が、響き渡った。
「くかぁー!くかぁー!」
「…………」
あっという間に深い眠りについたアヒルを、座り込んだまま、まっすぐに見つめるエリザ。
「初めて言玉を使ったんじゃ、まぁ無理もないわねっ…」
エリザがそう呟き、少し口元を綻ばせる。
「君とは、また会うことになるかもねっ、朝比奈アヒルっ…」
「くかぁー!くかぁーっ!くかぁーっ!」
そっと落とされたその言葉が、豪快に眠るアヒルの耳に届くことはなかった。
「これは予想外っ…」
戦いの行われた荒地を、近くの家の屋根上から見下ろしている、二つの人影。その一人が小さな、美しい声を発し、屋根上でゆっくりと立ち上がった。
「まさか…私たちと接触する前に、“あ”の力が目醒めてしまうなんてねっ…」
立ち上がったのは、長く艶やかな黒髪を夜風になびかせた、どこかミステリアスな空気を纏った、美しい顔立ちの少女であった。
「どうするの…?篭也…」
少女が振り向き、すぐ横でまだ座っている、もう一人の人間へと声を掛ける。
「どう?そんなの決まっている…」
問いかけに答えるように、涼しげな声が返って来る。
「行くさっ、勿論っ」
座ったままのその者が、そっと呟く。
「我らが“神”の、出迎えになっ…」
こうして、朝比奈アヒルの、穏やかなる日常は、静かに、終わりを告げた…。