Word.85 あノ残響 〈2〉
言ノ葉町。町の小さな八百屋『あさひな』。
「ん、んん~…」
二階にある自室の寝台の上で、パジャマ姿のアヒルが、大きく寝返りを打つ。瞳は深々と閉じられ、アヒルは、とても気持ち良さそうに眠っていた。
「ふじ、りんごぉ……」
よだれの零れているアヒルの口から、意味のわからない寝言も零れる。
「今日も眩しい朝が来てるよぉ~!アーくぅ~ん!」
アヒルの部屋の扉を、蹴破るように勢いよく入って来て、両腕をあげたウズラが、近所迷惑にもなりかねないほどの大声をあげる。だが、その声にも起きず、アヒルはひたすら、眠り続けている。そんなアヒルの様子を見ながら、ウズラは近くに置いてあった大きな袋へと、両手を差し込んだ。
「必殺!トマトアタァァァーック!」
「ぶふ!」
ウズラが、袋から取り出した大量のトマトを、次から次へとアヒルへ向けて、投げ放つ。すると、放たれたトマトの一つが、アヒルの顔面を直撃し、勢いよく潰れて、その汁が、アヒルの顔全体に広がった。その衝撃に、さすがのアヒルも、やっと目を覚ます。
「あ、アーくん、やっと起き…」
「何してくれとんじゃあ!このクソ親父がぁぁ!」
「ぎゃああああ!」
素早く寝台から起き上がったアヒルの回し蹴りが、見事にウズラの顎下へと炸裂し、ウズラはアヒルの部屋の扉をも越えて、廊下まで吹き飛んでいく。
「あ、あんなに小さかったアーくんが、こ、こんな見事な蹴り技を出来るまでに、成長してくれたなんて…お、お父さんは感動だよ…」
「ハイハイ」
倒れたままのウズラの発言を軽く流しながら、アヒルが近くにあったティッシュを手に取り、トマトの汁にまみれた顔を拭う。
「だいたい、俺が呼んだのは富士りんごだ、富士りんご!いい加減、りんごでトマト投げつけてくんの、やめろよ!」
「じゃあ、パプリカにする?」
「ああ、そっちのんがまだ、汁出ないしマシ…って、違うわぁ!とにかく、野菜投げんのやめろぉ!」
父の発言に、思わず乗り突っ込みをしてしまうアヒル。
「うわぁー、サムい…」
「うっせぇ!」
アヒルの披露した乗り突っ込みに、冷やかな視線を浴びせるウズラ。そんなウズラの視線を浴び、アヒルは勢いよく怒鳴りあげながらも、恥ずかしそうに、顔を赤く染めた。
「アヒル~、飯、出来てんぞぉ!とっとと着替えて、降りて来ぉ~い!」
「おーう!」
「スーくん、お父さんのご飯はぁ!?」
一階からのスズメの声に、大きく返事をするアヒルと、必死に体を起こし、訴えかけるウズラ。
今日も朝比奈家に、いつもと変わらぬ、朝が訪れる。
「え…?今日もトマト…?」
一階へと降りたアヒルとウズラを出迎えたのは、大きな空の洗濯かごを持ち、居間へと入って来たツバメであった。ツバメはあまりない表情を、珍しく不満げに崩す。
「昨日、プチトマトだったから…シーツ洗ったとこだったのに…」
「ごめんねぇ~ツーくん。アーくんが二日連続で、トマト呼んだりするからぁ~」
「俺のせいみたいに言うなよ!だいたい、俺が呼んだのは、とよのかイチゴと富士りんごだ!」
大人な態度でツバメへと謝るウズラに、アヒルが不満全開で大きく怒鳴りあげる。
「ツーくん、困らせるようなこと、してんじゃないわよ!このヒゲがぁ!」
「ぎゃああああ!」
「いいぃ!?」
店の方から駆け込んできた茜の、強烈な飛び膝蹴りを、もろに顔面に受け、居間の襖を突き破って、廊下へと吹き飛んでいくウズラに、アヒルが思わず、驚きの声を漏らす。
「大丈夫よ、ツーくん。シーツなら、お母さんが洗っておくから」
「あ…うん…」
ウズラを容赦なく吹き飛ばしたその後で、優しさに満ち溢れた笑みを向ける茜に、ツバメが引きつった表情を見せながら、どこかぎこちなく頷く。
「アーくんは、大丈夫?あのヒゲにトマトぶつけられて、怪我してない?」
「ああ。どっちかっつーと、親父が怪我してそうだけどな…」
ツバメから向きを変え、その優しい笑みを、今度はアヒルへと向ける茜。まだ廊下で倒れたまま、起き上がっていない父を横目に、アヒルは引きつった表情を母へと向ける。
「ううぅ、ひどいよぉ~茜ちゃ~ん!」
「うっさい、ヒゲぇぇ!」
「ぎゃああああ!」
『…………』
まだまだ続きそうなウズラと茜の攻防を、アヒルとツバメは、唖然とした表情で見つめた。
「母ちゃんが帰ってきて、さらに輪をかけて、騒がしくなったな。この家…」
「ま、いいんじゃねぇのぉ」
「あ、スー兄、おはよう」
思わずポツリと呟いたアヒルのすぐ横へと、台所から、朝食の準備をしていたスズメが顔を出す。
「飯は?」
「ああ、お前の飯なら…」
アヒルの問いかけに、台所へと視線を流すスズメ。
「さぁ、アヒるん…たぁーんと、お食べ…」
「…………」
台所から出てきたのは、朝食ではなく、紫色の液体の煮えた鍋を持った、囁であった。囁から向けられる不気味な笑みに、アヒルがその場で凍りつく。
「スー兄、飯ぃぃぃ!」
まるで助けでも求めるかのように、必死にスズメへと訴えかけるアヒル。
「フフフ…本当に、照れ屋ね。アヒるんは…」
「誰も照れてねぇ!ってかもう、附き人は卒業だろ!?いい加減、うちに入り浸るのやめろよ!」
アヒルが注意するように、囁へと声を張り上げる。
「お前も!」
「ん?」
振り向いたアヒルの見つめた先には、誰もまだ座っていない居間のテーブルに、一人、堂々と腰を下ろし、並べられた朝食を口に運んでいる篭也の姿があった。厳しい表情を向けるアヒルに、篭也が少し困ったように、肩を落とす。
「まだ、そんなことを言っているのか。順応力のない男だな」
「うっせぇ!」
冷たく吐き捨てるように言い放つ篭也に、アヒルが怒りを全面に出して、思いきり怒鳴りあげる。
「おはようございまぁーす!」
「うわ、もう紺平の来る時間かよぉ!」
通用口の方から聞こえてくる紺平の声に、アヒルが焦ったように、居間の掛け時計を見上げる。
「朝飯、食いながら行くかぁ」
「そう思って、携帯用にしておいたわ…」
「有り難迷惑だ!」
小さなパックに入れた紫色の液体を差し出す囁に、再び怒鳴りあげながら、アヒルが畳の上に置いていた鞄を取り、台所に用意されていた弁当を入れる。
「ああぁ、っと!そうだ!」
紺平の待つ通用口に向かう前に、忘れものでもあったのか、向かっていた足の方向を変え、居間にある仏壇の前へと、急いで座るアヒル。
「行ってきます、カー兄!」
仏壇に飾られたカモメの写真に笑顔を向け、アヒルはすぐに、家を出た。
「え?じゃあ真田さんも、この近くにアパート借りたの?」
「ええ…」
迎えに来た紺平と、篭也、囁と共に、学校へと向かういつもの道を、ゆっくりとした足取りで進むアヒル。アヒルの隣では、囁へと問いかけた紺平が、少し驚いた表情を見せている。
「“貸し渡せ”の言葉が消えて、アヒるんのお隣さんには、佐々木さん一家が戻って来ちゃったし…」
「当たり前だろ、佐々木さんの家なんだから」
不満げに呟く囁に、アヒルが鋭く言葉を向ける。
「本当は、篭也の家に転がりこもうと思ってたんだけれど…」
囁がそう言って、少し前を歩く篭也の方を見る。
「僕は構わなかったんだが、何故か、和音に反対されてな」
「ああ…まぁ、そりゃ、されるだろうね…」
「フフフ…」
何故、反対されたのか、わかっていない様子で首を傾げる篭也を、どこか呆れた表情で見つめる紺平。二人のやり取りを聞きながら、囁が不気味な笑みを浮かべる。
「でも良かった。二人が転校しちゃったら、寂しいもん。ねぇ、ガァ?」
「俺は別に、寂しくねぇーけど」
同意を求める紺平に、アヒルが素っ気なく答える。
「またまたぁ~、強がっちゃって」
「誰も、強がってなんか…!」
「おおぉーい!朝比奈ぁぁ!」
「んあ?」
紺平の言葉を必死に否定しようとしたアヒルが、前方から聞こえてくる、全力で自分の名を呼ぶその声に、ゆっくりと前を見る。
「ここで会ったが百年目ぇぇ!」
『昨日、会ったとこです。アニキ!』
「うるっしゃーい!」
アヒルたちの行く道の前方へと現れたのは、今日もリーゼントがバッチリと決まっているアニキこと守と、ブラシやパッツンなど、色取り取りの髪型をした守の子分たちであった。見慣れたその顔に、アヒルが疲れたように、深々と肩を落とす。
「懲りないね、お前も」
「“決して諦めない男”と言え!」
呆れたように言うアヒルに対し、守は堂々と、誇らしげに胸を張る。
「オウ、ダッグゥ~!」
「へ?」
呼ばれるその名に、アヒルが、守のすぐ横へと視線を流す。守のすぐ横には、不自然にも、守たちと同じ、丈の長い学ランを身に纏った、外国人。
「ラ、ライアン!?」
その外国人は、ライアンであった。
「あらあら…どうして外人さんが、リーゼントくんと一緒に居るのかしら…?」
「ハァーイ!私、日本ノ言葉ニツイテハ、ヨォーク学ビマシタ!ダカラ次ハ、日本ノ不良ニツイテ、学ボウト思イマァース!」
囁の問いかけに、ライアンがはつらつと答える。
「それでこいつも、俺たちの仲間に入れてやったってわけよぉ」
「ヨロシクデス!リーゼントマン!」
「仲間に入ったからには、俺のこと、“アニキ”って呼べぇ!」
「ハイ、アニキ!」
「学ぶには、師がいまいちだと思うがな…」
意外と乗り気の守と、守に大声で答えているライアンの様子を見ながら、篭也が小さく呟きを漏らす。
「ということで、朝比奈!ライアンに日本の喧嘩というものを教えるためにも、いざ、尋常にしょ…!」
「ハイハイ」
「ぎゃはあああぁぁ!」
『アニキぃぃぃ~!』
守がすべての言葉を言い終える前に、アヒルが思いきり鞄を振り上げ、その鞄が守の顔面を直撃すると、守の体が、いとも簡単に、右方へと吹き飛ばされていく。吹き飛んでいく守を、慌てふためきながら、必死に追いかけていく子分たち。
「オウ!コレガ、日本ノ喧嘩デスカァァ!?」
よくわかっていない様子だが、ライアンも子分たちの後を追い、その場から去っていった。
「騒がしい連中だ」
「何があっても、あの人たちだけは変わらないような気がするなぁ」
「ある意味、感心ね…」
多少、言葉は交わしながらも、何事もなかったかのように再び、学校へと向かう道を進み始める篭也、紺平、囁の三人。守を吹き飛ばした鞄を持ち直し、アヒルも三人の後を追って、その場を歩きだそうと、足を踏み出す。
「ん?」
だが、その足はすぐに止まった。アヒルの視界に入ったのは、道端の、ゴミ捨て用のバケツの上に置かれた、一つの空き缶。その空き缶を見つめ、アヒルがそっと目を細める。
「…………」
アヒルがゆっくりと右手をあげ、一度握り締めた右手の、人差し指を前へ、親指を上へと伸ばす。右手で銃の形を作ったアヒルは、その銃口、人差し指をゆっくりと、バケツの上の空き缶へと向けた。狙いを定め、アヒルがそっと、口を開く。
「あ…」
少し躊躇うように、落とされる文字。
「“当たれ”」
言葉と共に、まるで弾丸を放ったかのように、右手を軽く持ち上げる仕草をするアヒル。だが空き缶は動かず、辺りは静けさに包まれる。静けさを感じ、アヒルはすぐに、その右手を引いた。
「なぁーんてなっ」
自嘲するように笑みを浮かべ、アヒルがその場を歩きだそうとした、その時。
―――カラン。
「え…?」
風も吹いていないのに、空き缶が倒れ、バケツの下へと転がり落ちる。
「…………」
転がり落ちた空き缶を見た後、少し戸惑った様子で、銃の形を崩した、自身の右手を見下ろすアヒル。
「……まさか、な」
そっと微笑んで、アヒルは強く、右手を握り締めた。
「ガァ!何してんのぉ!?」
「あっ」
随分と前方まで行ってしまった皆と共に立ち止まり、アヒルの方を振り返った紺平が、大きく手を振りながら、アヒルのことを呼んでいる。
「悪りぃ、悪りぃ!」
紺平へと応えるように、握り締めたその右手をあげ、前方へと歩き出して行くアヒル。
「アヒルさぁ~ん!」
「朝比奈くん!」
「おう、おはよう!保、奈々瀬!ついでに想子も!」
「誰がついでよ、馬鹿ガァ!」
いつの間にか合流したらしい保や七架、想子に挨拶を向けながら、アヒルがゆっくりと、前方の皆のもとへと進んでいく。
「早くしろ。遅刻するぞ?」
走ろうとしないアヒルに、皆を代表するように、篭也が、鋭く言葉を向ける。
「“アヒル”」
篭也が呼ぶ、アヒルの名。それは自分の名であるのに、どこか聞き慣れず、アヒルは一瞬、戸惑うような表情を見せたが、すぐに、大きな笑みを浮かべる。
「おう!」
はっきりとした返事を放ち、アヒルは、皆のもとへと、駆け出していった。
言葉には、霊が宿る。
言葉には、魂が宿る。
言葉には、力が宿る。
言葉には、想いが宿る。
言葉には、明日が宿る。
だから僕たちは、言葉と共に、生きていく。
『あノ神ハキミ。』 完
本編はこれにて終了です。
明日番外編をアップして、完結となります。




