Word.81 別離 〈2〉
「うお!」
その時、床が激しく横揺れを起こし、立っていたアヒルがバランスを崩して、思わずその場に膝をつく。
「大丈夫か?朝比奈」
「あ、ああ。びっくりした」
心配する恵に答えながらも、跳ね上がった鼓動を押さえつけるように、必死に胸を手で押すアヒル。激しい横揺れは止む気配を見せず、その揺れにより、天井や壁の崩壊も、一気に激化する。
「こ、これは…」
「城の崩壊が、本格化している」
「へ?」
横から入って来る、アヒルのものでも恵のものでもないその声に、アヒルが目を丸くして振り向く。
「恐らくは、城の核となる部分が崩れたのだろう」
「か、篭也…!」
そこへ現れたのは、真っ赤な鎌を構えた篭也であった。突然、現れた篭也に、アヒルは驚いた様子で目を見開くが、篭也はいたって冷静だ。
「篭也、お前、いつの間に…」
「ここまで来れば、総崩壊もすぐだぞ。神」
「相変わらず、マイペースね。お前…」
アヒルの問いかけには答えずに、自分の話だけを進めていく篭也に、アヒルが呆れた様子で肩を落とす。傷だらけではあるが、元気そうなその様子に、アヒルは少しホッとした。
「神月」
恵も同じように篭也の方を振り向き、眉間に皺を寄せ、そっと目を細める。
「百井桃雪を、倒したのか…?」
「……ああ」
恵の問いかけに、どこか神妙な表情を見せ、頷く篭也。この激しい揺れの中、何故か、まったくバランスを崩すことなく、床に立った篭也は、体の向きを変え、同じように、少しもバランスを崩していない永遠の方へと、体を向けた。
「あなたの神附きは、あなたの、自身の神の為に、最期の最期まで、必死に戦った」
相対した桃雪の姿を思い出し、あの姿を、少しでも永遠に伝えようと、篭也が言葉を紡ぐ。
「尊敬に値する、最期だった」
「……そうか」
篭也の言葉を受け止めた永遠が、口元を緩め、穏やかな笑みを浮かべる。
「同じ神附きである君に、そう言ってもらえたなら、桃雪も本望だろう」
満足げに言葉を落としながら、長年従ってきた神附きへ、ほんの少しの祈りでも送るのか、そっと瞳を閉じる永遠。そんな永遠の様子を見つめ、目を細めた後、篭也がまた、アヒルたちの方を振り返る。
「そっか。篭也が桃雪を倒したから、急に城が…」
「ああ。もう下方の階は、崩壊が始まっている。ここが崩れ落ちるのも、時間の問題だ」
「下方って、じゃあ囁と奈々瀬は…!」
「案ずるな」
不安げに声をあげるアヒルに、篭也が冷静な声を向ける。
「あなたの神附きは、皆、優秀だ」
遠回しな言い方ではあるが、恐らく二人は無事なのだろう。篭也の言葉を聞き、アヒルがそっと胸を撫で下ろす。
「神と違ってな」
「うっせぇなぁ!」
一言付け加える篭也に、アヒルが思わず怒鳴りあげる。
「ったく」
「いくら永遠の時を生きているとはいえ、瓦礫に埋もれれば、あなたも“痛い”くらいは思うのだろう?」
アヒルがまだ、篭也の発言に顔をしかめている中、篭也はまた体の向きを変え、目を閉じたままの永遠へと言葉をかけた。耳に入る篭也の声に、永遠がゆっくりと、その瞳を開く。
「戦いを続けるにしろ、何にしろ、一旦、この場を出…」
「ここは、桃雪が、俺の願いを叶える場所として、造ってくれた城だよ」
篭也の言葉を遮って、永遠が少し、悲しげに笑う。
「だから俺は、この場所を動かない」
穏やかな口調の中に見える、はっきりとした強い意志。
「だから俺は、この場所で、俺の願いを叶える」
「何?」
篭也が眉をひそめる中、永遠が言玉を持つ手を左手へと持ちかえ、その左手を、高々と上空へと掲げる。掲げられた言玉は、桃雪の言玉を吸収した永遠の左手の光とも重なり、より強い、白色の光を放ち始める。
「一緒にいこうか、桃雪」
左手の中の光を見つめ、永遠がそっと目を細める。
「こ、この光は…!」
あまりの眩さに、目を細めるアヒルたち。
「を…」
その中で、永遠がゆっくりと口を開く。
「“厭離穢土”…!」
「きゃあ!」
金色の象に乗っていた弓が、激しく地面を震わせる揺れに、その背から弾き出されてしまい、地面へと勢いよく落下する。
「“満ちれ”」
弓が落ちようとしていた辺りの地面が、突然、波に覆われ、優しい水の流れが、弓の体を受け止める。
「大丈夫ですか?由守さん」
「す、すみません。雅さん」
問いかける雅に、弓はどこか、恥ずかしそうに俯いた。二人の周囲には、以団、衣団、於団、そして刃や鎧、六騎、ライアンの姿もある。前線で戦っていた者たちが皆、一旦引き、和音たちの待機するこの場へと集まったのである。さらに後方へとさがった待機場所からでは、崩れゆく城も最早、小さな景色の一部にしか見えない。だが、こんな離れた場所までも、崩壊の揺れは、しっかりと伝わってきていた。
「神…」
「アヒル…」
城の方を見つめ、それぞれに不安げな表情を見せる、シャコやエリザ、そしてその他の者たち。
「和音」
皆の先頭に立つ和音の横へと、空音を従えた檻也が並ぶ。
「たった今、左塔の最上階から、強烈な白色の光が発せられました」
「光…?」
和音の言葉を受け、檻也が左塔の方へと視線を移す。だが、大きく開いた距離で、ただでさえ見辛いというのに、空は暗くなり、天候も荒れ始めて、余計に視界は悪くなり、檻也には、その光を見つけ出すことは出来なかった。
「よく見えないが…」
「戦っています」
必死に目を凝らしていた檻也が、和音のその言葉に、振り向く。
「彼等はまだ、戦っています」
和音の言葉を受け止めるように、檻也はまた、まっすぐに城を見つめ、しっかりと頷く。
「ああ、まだ終わっていない」
「はい」
檻也の言葉に、和音もまた、しっかりと頷いた。
永遠の掲げた言玉から溢れ出した強烈な白光は、永遠の体全体を包み込むと、空まで突き上げる、長い筒状の光となった。光が天井を貫くと共に、鏡張りの天井が一気に崩れ落ち、そこから一面の空が覗く。暗い空へと光が真下から差し込むと、永遠は、その光に導かれるようにして体を上昇させ、崩れ落ちた天井を抜けて、空へと舞い上がっていく。
「あれは…」
そんな永遠の様子を見上げ、降って来るガラス片から自分と恵を守りながら、険しい表情を見せるアヒル。
「厭離穢土。遠久の、四字熟語だ」
「四字熟語?」
恵の言葉に、篭也が眉をひそめる。
「どういう言葉なんだ?一体」
「仏語だ。煩悩にまみれた、汚れた現世を嫌い、離れるという意味の言葉…」
アヒルの問いかけに答えながら、上昇していく永遠を見つめ、恵がそっと目を細める。確かに、永遠のその姿は、現世を離れ、天にでも昇っていくような、そんな光景であった。
「実際のあの言葉は、上空に、下方に居る者からでは、決して手出しすることの出来ない、完全空間を作り出す」
「完全空間?」
「ああ。一度、その中に入ってしまえば、遠久があの言葉を解くか、遠久を倒すかしない限り、あの空間から出ることは出来ないんだ」
「完全、空間…」
もう一度、その言葉を繰り返しながら、恵と同じように上空を見上げるアヒル。永遠を包む筒状の光は、前後左右に徐々に広がり始め、暗い上空で、大きな白光の空間を作り始めていた。広がっていく光を見上げながら、アヒルが眉をひそめる。
「どうやら本当に、この場を動く気はないようだな」
皆と同じように上を見ながら、篭也が少し困った表情を見せる。篭也たちの居る、永遠の部屋であったその場所は、先程、永遠が天井を貫いたことにより、また、崩壊の速度を速めていた。これ以上、この場に居ては、もう脱出することすらも、困難になる。
「神、これ以上は…」
「篭也」
篭也が脱出を訴えようと振り向くと、そこには、いつの間にか立ち上がっている、アヒルの姿があった。
「何だ?」
問いかけた篭也に、アヒルは少し躊躇うように、間を置く。
「恵先生と扇子野郎を連れて、ここから脱出してくれ」
「な…!」
アヒルの思いがけない言葉に、しゃがみ込んだままの恵が勢いよく顔を上げ、篭也が、気難しげな表情で、そっと目を細める。
「あなたは、どうする?」
「俺は、あの空間の中に入って、永遠と戦ってくる。まだ行けるはずだ」
「馬鹿な…!」
思わず立ち上がった恵が、それでも興奮の冷めやらない様子で、声を張り上げる。
「今、説明しただろう!?あの空間に、一度、入ってしまえば、もう…!」
「ああ、聞いた。あれは、永遠が用意してくれた、最後の戦いの舞台みたいなもんだろ?」
恵の言葉を遮って、アヒルが笑う。
「だったら俺は、それに応えないとな!」
「お前が応える必要なんて、ないだろう!」
得意げに微笑むアヒルであったが、あまりに強く響いた恵のその声に、その笑みは、ゆっくりと止まった。アヒルが振り向くと、そこには、辛そうな表情を見せた恵の姿があった。
「お前に行かせるくらいなら、私が行って、私が行って、遠久を…!」
恵の荒々しい声は、言葉の途中で、突然、止まる。
「遠久、を…」
―――お姉ちゃん―――
「クっ…」
浮かぶ幼い笑顔に、恵はどうしてもその言葉の先を言えず、ただ、力なく頷いた。
「うん。恵先生に、あいつは倒せない」
その恵の心情を、すべて察した様子で、アヒルが恵へと言葉を向ける。
「それに、そんなこと、親父も母さんも、旧世代の安の神だったっていう俺の伯父さんもカー兄も、きっと誰も、望まないだろうしな」
優しく微笑みながら、アヒルが言葉を続けるが、恵は俯いたままで、顔を上げようとはしなかった。
「すべてを引き起こしたのは、私なのに…私は、すべてをお前たち、後世の音士に背負わせてばかりで、結局、何も出来ない…」
俯いたまま、小さな、消え入りそうな言葉を発する恵。
「なんで、お前たちを…お前を、こんな目に…」
固く握り締められた恵の手から、赤い血が滲む。
「私は…私が情けないっ…!」
「先生…」
俯いているその表情は見えないが、恵から発せられるその声は、どこか泣いているようにも聞こえて、アヒルはそっと、目を細めた。
「恵先生のせいで、背負ってるわけじゃないよ」
アヒルが優しく声を響かせ、俯いたままの恵へと声を掛ける。
「俺は、俺たちは五十音士だから、だから言葉を守るために、命懸けで戦うんだ」
少し振り向いたアヒルへと、篭也がしっかりとした視線を送る。
「そして、俺は神だ」
短いその言葉に、俯いていた恵が、ハッとなって、目を見開く。
「俺は、安の神だから」
ゆっくりと顔を上げた恵へと、アヒルがまっすぐに視線を送る。
「だから、すべての言葉を背負って、戦う」
「朝比奈…」
誇らしく言い放つアヒルを見つめ、恵が今にも泣き出しそうに、目を細める。
「俺の、神としての、最後の命令だ」
アヒルが首を少し回し、恵から、篭也へと視線を移す。
「聞いてくれるか?篭也」
確かめるように問うアヒルから、少し視線を外し、篭也はどこか遠くを見るような瞳を見せた後、また、アヒルの方を見た。
「その言葉があなたの、神の命であるというのなら、僕が答えるべき言葉は一つだ」
迷うことなく、篭也が言葉を紡ぐ。
「“仰せのままに、我が神”」
「……ありがとう」
深々と頭を下げ、いつもと同じ言葉を返す篭也に、少し俯いたアヒルが、小さく笑みを零し、礼を言う。
「行ってくれ」
「“担げ”」
アヒルの言葉と同時に、篭也が言葉を発し、恵を左肩へと背負う。そのまま素早く移動し、少し離れた場所で倒れたままの為介も背負って、大きくあいた、壁の穴へと体を向ける篭也。
「……神」
「ん?」
アヒルに背を向けたまま、そっと呼びかける篭也に、アヒルが振り向く。
「“また、明日”」
篭也の放ったその言葉に、大きく笑みを零すアヒル。
「ああ。“また明日”!」
しっかりとその言葉を聞き届けると、篭也は静かに、右手を鎌を振り上げた。
「“翔けろ”!」
「朝比奈!朝比奈ぁぁぁ…!」
言葉を放ち、壁にあいた穴から、一気に外へと飛び出していく篭也たち。篭也に背負われながら、恵が必死に身を乗り出し、手を伸ばして、アヒルの名を呼ぶ。
「……“また、明日”」
アヒルが胸に手を当て、刻みつけるように、もう一度、その言葉を口にする。口にし終えると、アヒルはすぐさま真剣な表情を作り、右手の中の赤色の言玉を、力一杯、握り締めた。
「五十音、第一音“あ”、解放!」
言玉を解放し、アヒルが真っ赤な銃の、その銃口を、自身のコメカミへと当てる。
「“上がれ”!」
自分へと言葉を向けると、アヒルは、上空の、真っ白な空間の中へと、姿を消していった。




