Word.77 あリガトウ 〈2〉
「う、うぅ…」
「どう?」
苦しげな声を漏らす囁に、十稀が得意げに問いかける。
「私の“語句”は」
向けられるその言葉に、痛みに耐えながら、囁はそっと表情を曇らせた。一瞬とはいえ、時を止められては、攻撃も当てられず、あちらの攻撃を防ぐことも出来ない。囁にとっては、かなり追い込まれた状況であった。
「これが私の力よぉ!私が得た言葉の力!ね、凄いでしょ?」
誉められることを望む子供のように、十稀が活き活きと問いかける。
「やっと、やっと手に入れたわぁ!この文字、この力!ずっと、これが欲しかったの」
嬉しそうに声を弾ませながら、まじまじと白色の言玉を見つめる。
「あんたたち、今の音士を倒せば、桃雪様は、私にもっと文字の力を下さると言ってたわぁ」
十稀が言玉から、囁へと視線を戻す。
「だから私は、あんたを倒して、新しい文字を得る!」
迷いなく言い放ち、囁へと言玉を向ける十稀。そんな十稀を見つめ、囁は床に座り込んだまま、そっと目を細めた。
「……力だけが、欲しいの…?」
「は?」
突然の囁の問いかけに、十稀が言玉を振り上げようとしていた右手を止め、しかめた表情を見せる。
「五十音士になって、あなたが手にしたかったものは、文字の力だけ…?」
傷だらけの囁が、痛みにより呼吸も乱れているだろうに、特に言葉にも詰まらせず、むしろ強い力すら感じるような口調で、十稀への問いかけを続ける。
「当ったり前じゃない?他に一体、何があるっていうのぉ?」
囁の問いかけに対し、十稀がまるで、当然のように、あっさりと答える。
「世界中の人々の言葉が終わろうとしている、この状況であっても、あなたが求めるのは、自身の力だけなの…?」
「はぁ?」
またしても向けられる問いかけに、十稀がさらに表情をしかめる。
「何、それ?人々の言葉が終わるとかどうとか、別にどうだっていいじゃない」
興味も持っていない様子で答える十稀に、囁が眉をひそめる。
「私は力が欲しいの。誰にも負けない、相手を屈服させることの出来る、圧倒的な力!」
欲しがる思いが強まるように、十稀の声にも熱がこもる。
「だから、音士になるために必死にやってきた。だから私は、もっともっと文字の力を得るのよぉ!」
「人々の言葉が、消えてしまうとしても…?」
「しつこいわねぇ。他人の言葉なんか、どうでもいいって言ってるじゃない!」
「……そう」
熱の入る十稀とは対照的に、冷めた声で頷きを返す囁。
「よく、わかったわ…」
囁の瞳が、強く光り、十稀を捉える。
「あなたが、音士になれなかった理由が」
はっきりと放たれる囁の言葉に、一気に曇る十稀の表情。
「何ですって?」
少しの間を置いた後、十稀が確認するように聞き返す。だが、その不機嫌になった表情を見る限り、囁の言葉はすでに、十稀の耳に届いているのだろう。
「こんな短期間で、語句が使えるようになるくらいだもの。あなたはさぞや、優秀な候補生さんだったんでしょうね…けれど」
言葉を付け加えた囁が、突き刺すように十稀を見つめる。
「あなたは、五十音士として、一番、必要なものを持っていない」
囁が強く、断定するように言葉を放つ。その言葉に、十稀の表情が、さらに強く歪んだ。
「一番、必要なものですってぇ?」
囁の言葉を繰り返し、十稀が少し引きつった笑みを浮かべる。
「随分と偉そうな口振りね、先輩」
十稀は笑みを浮かべた表情ではあるが、はっきりと否定されたからであろう。内に、囁への確かな怒りを秘めていることがうかがえた。
「“飛び出せ”」
十稀が不意に、言葉を落とす。
「“棘”!」
「ううぅ…!」
座り込んだままの囁へ、十稀が、白い光で出来た、無数の棘を撃ち込む。囁は、逃れる言葉を発することもなく、その棘を受け、周囲にさらに赤い血を撒き散らして、力なく顔を俯けた。
「何を基準に、そんなこと言ってるのかしらぁ?もしかして、さっきの問いかけ?」
大きく首を傾け、十稀が囁への問いかけを続ける。
「世界中の人々の言葉なんて、どうでもいいって言ったから?困るわぁ」
十稀が否定するように、何度も、首を横に振る。
「たった、それくらいのことで」
「たった、それくらい…?」
顔を俯けた状態のまま、先程よりもか細くなった声で、囁が十稀の言葉を繰り返す。
「だって、所詮は他人の言葉でしょう?自分の言葉があるんなら、それでいいじゃない」
「……言葉の力を誇示する者が、五十音士じゃないわ…」
弱々しいながらも、はっきりとした意志を持って、囁が言葉を続ける。
「皆の言葉を慈しみ、皆の言葉を守ることの出来る者こそが、五十音士…」
囁が俯けていた顔をゆっくりと上げ、切れた頬や額から血を流しながらも、決して怯んでいない、強い表情で、まっすぐに十稀を見つめる。
「だからあなたは、五十音士には相応しくない」
またしてもはっきりと断言する囁に、十稀の表情が、目に見えて大きく歪む。
「さっきから偉そうに…言ってくれてんじゃないわよ!“咎めろ”!」
怒りに満ちた口調で、声を張り上げた十稀が、座り込んだままの囁へ、さらに攻撃を向ける。巨大な白光の塊が囁を襲うと、囁の背を支えていた後方の壁が崩れ落ち、支えを失った囁が、そのまま床へと倒れ込む。
「う…ぁ…」
倒れた囁が、最早、言葉にならない声を漏らす。
「私に攻撃も当てられないくせに、私の攻撃も避けられないくせに、上から見るような物言い、するんじゃないわよ!」
囁の言葉に、相当機嫌を損ねたのか、倒れた囁を見ながら、十稀が吐き捨てるように、言葉を発する。
「“皆の言葉を慈しみ、皆の言葉を守る”?馬鹿らし!」
十稀が、囁の言葉を鼻で笑う。
「音士でもない人間の、些細な、くだらない言葉を守って、一体、何になるっていうの!?」
張り上げた声のまま、十稀が主張を続ける。
「音士はただ、自分の文字の、言葉の力を誇って、戦えばいいのよ!」
左手を胸へと当て、さらに言葉を発する十稀。
「世の中の人間の、無意味な言葉なんて、守る必要ないわ!」
「無、意味…」
「ええ、そうよ!音士でもない人間の言葉なんて、全部、無意味よ!何の力もないんだもの!」
そっと言葉を繰り返した囁に、十稀がさらに声を張り上げ、言い放つ。
「無、意味っ…」
力なく倒れ込んだままの囁が、もう一度、十稀の放ったその言葉を繰り返す。
―――そんな言葉、すべてが無意味だわ…―――
それは、かつての自分が、放った言葉。
「……そう。あんな感じだったのね…」
かつての自分を、今の十稀の姿に重ね、囁は昔を懐かしむように、そっと笑みを浮かべた。
「何、笑ってんのよ!この状況で!」
床に倒れ、動くことも出来ないでいるというのに、笑う囁を、気味悪がるように言い放ち、十稀が大きく左手を払う。
「もういいわ!とっとと、あんたを倒して、私は新たな文字を…!」
「音士以外の人の言葉には、何の力もないと言ったわね…」
「はぁ?」
自分の言葉を遮って聞こえてくる囁の声に、十稀がまた、顔をしかめる。
「言ったわよ!それが何!?」
「そんなことは、ないわ」
強く問いかける十稀に対し、囁はそっと、静かに、否定の言葉を放った。
―――大好きだよ、囁。世界で一番、君が大好きだ―――
―――愛してるわ、囁…どこに居ても、母さんはあなたと一緒に…―――
「何でもない人間の言葉だって、恐ろしいほど、人の心に絶望を与える…」
―――“会いに行く”から…!―――
「引き金を引かない言葉だって、戸惑うほど、人の心に希望を与える…」
両親の言葉を思い出し、少し眉をひそめながらも、囁が必死に体を動かし、両手を床について、何とか上半身を起き上がらせる。
「些細な挨拶にも、くだらない一言にも、心はこもってる…」
さらに膝を立たせ、その場で立ち上がる囁。
「だから言葉は、人の心を動かすの」
完全に立ち上がった囁が、顔を上げ、まっすぐに、前方に立つ十稀を見据える。
「だから、この世界に、意味のない言葉なんて、たったの一つもない」
はっきりとそう言い放って、囁が笑う。
「何よ、それ…」
囁の主張を聞いた十稀が、大きく表情を歪め、吐き捨てるように言葉を落とす。
「意味、わっかんないのよ!さっきから!」
声を荒げると、攻撃態勢を取るべく、十稀が、言玉を持った右手を、高々と振り上げた。
「もういいわ!無意味なあんたの言葉は、ここで私が、とっとと終わらせる!」
「…………」
掲げた言玉を輝かせていく十稀を、まっすぐに見つめながら、囁がそっと目を細める。
「……ありがとう」
小さく、十稀には届かないほどに落とされる、囁の感謝の言葉。
「ありがとう。私に、こんな言葉を言わせてくれて…」
その言葉を繰り返す囁の表情に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「ありがとう。私の言葉を、意味のあるものに変えてくれて…」
それは、離れた場所で戦っているであろう、自身の神へと、向けた言葉。
「ありがとう…!」
込み上げる思いを溢れさせるように、もう一度、その言葉を繰り返し、囁が、傷だらけの右腕を振り上げて、右手に持った横笛を、高々と掲げる。
「これが、我が神へ捧ぐ、私の…」
掲げた横笛を見上げ、囁がそっと、目を細める。
「私の、正真正銘、最期の言葉…!」
声を張り上げた囁が、大きく目を見開く。
「アハハハ!今更、何しようっていうわけぇ!?」
囁のその動きを見ながら、十稀は余裕の笑みで、高らかと笑いあげる。
「どんな攻撃する気なのか知らないけどぉ、忘れてない?私はねぇ、時が止められるの!」
両手を広げ、十稀が勝ち誇ったように言う。
「だから、どう足掻いても、あんたの言葉は私には…!」
「いいえ、問題ないわ」
十稀の強気な言葉を、あっさりと遮る囁。
「一瞬で、逃げられるようなものじゃないから」
「何?」
「さ…」
十稀が眉をひそめ、戸惑う中、囁がそっと口を開き、自身の文字を、今までずっと口にしてきた、共に在った自身の文字を、発する。
「“沙羅双樹”…!」
囁が力強く言葉を放ったその瞬間、掲げた横笛から、思わず目を閉じたくなるほどの強い赤色の光が放たれ、囁は吹いてもいないというのに、辺りに、美しい音色が響き渡る。
「な…!四字熟語…!?」
その光をもろに目を入れながら、大きく目を見開く十稀。
「馬鹿な!あれは、選ばれた神にのみ、与えられた言葉のはず…!ク…!」
囁の放った言葉に動揺を見せる十稀であったが、広がる光と、響き渡る音色に冷静さを取り戻し、言玉を持った右手を身構える。
「例え四字熟語だとしても、時を止めれば同じよ!」
言玉を輝かせ、勢いよくかざす十稀。
「“止まれ”、“時”!」
十稀が言葉を放ち、流れいく時間を止める。
「これで…!え…?」
時間が止まっている間に、囁の攻撃を避けようと、足を踏み出した十稀であったが、戸惑いの声を漏らし、すぐに出した足を止めてしまう。
「な、何…?どうして…どうして、止まってないの!?」
十稀の周囲に広がっていく、どんどんと赤い光。止められた時間の中だというのに、その勢力は止まらず、そして、広がる光と共に、十稀の周囲の床から、次々と、葉で生い茂った高い木が現れる。自分の背丈の三倍以上もある木々に取り囲まれ、視界を埋め尽くされる十稀。
「な、何よ、これ!これじゃあ、どこにも…!あっ…」
――― 一瞬で、逃げられるようなものじゃないから―――
焦る十稀の脳裏に浮かぶ、先程の囁の言葉。
「こういう…!」
十稀がその言葉の意味を悟った頃、止めていた時間が再び動き始める。取り囲んでいく木々の成長速度がさらに増し、やがて、木々から、強い光が放たれる。
「う…!」
取り囲まれた一面の木々から向けられる光に、時を止めたところで、どうすることも出来ないことを知った十稀は、ただ強く唇を噛み締め、その光が、自身へと辿り着くことを待った。
「あああああああ!!」
光を全身に浴び、激しい悲鳴をあげながら、十稀が後方へと倒れ込んでいく。
「やっと…」
赤い光の中、倒れていきながら、十稀が目を細め、自身の右手の中の、白い言玉を見つめる。言玉は中央に勢いよくヒビが入り、十稀の手の中で、粉々に崩れ落ちた。
「やっと、手に、入れたのに…な…」
手の中から零れ落ちていく、言玉の欠片を見つめながら、十稀はゆっくりと瞳を閉じた。十稀の体が、力なく地面へと落ち、生い茂った木々が消え、周囲を包んでいた光が止んでいく。
「……手に入れたと思ったのなら、それは錯覚よ…」
光が消えゆく中、掲げていた横笛を下ろし、もとの言玉の姿へと戻して、倒れた十稀を見つめ、囁がそっと呟く。
「だって、あなたの言葉は」
倒れた十稀から、天井へと視線を移し、囁が目を細める。
「初めからあなたが、生まれ持っているのだから」
囁 対 十稀。勝者、囁。




