Word.76 共ニ 〈3〉
――――初めての出会いが、どんなものだったのかなんて、もう、ろくに憶えていないけれど。
「朝比奈!」
「ひゃい?」
大きく怒鳴りあげた恵に対し、弁当のおかずだったのか、口いっぱいにナスビを頬張りながら、暢気そうな顔で振り返るカモメ。
「国語の赤点、学年でお前、たった一人だったぞ!今日、放課後、居残りだ!」
「はぁーい」
「嬉しそうに返事をするな!」
明るく返事をするカモメに、さらに怒鳴りあげる恵。最初の印象はただ、出来の悪い生徒。毎度、赤点ばかり取るので、嫌でもすぐに名前は覚えた。それから、年相応といえば年相応だが、他の生徒たちと比べ、妙に純粋で、子供っぽいところがあるように見えた。今の大人びている生徒たちの中では珍しいほどに、素直で、誰にでも、信用しきった笑みを向ける。
「とにかく今日、放課後な」
「はぁーい!」
「だから、嬉しそうに返事をするな!」
だがその頃、恵にとってカモメは、その程度の印象の、ただの生徒の一人であった。
「毎度毎度、赤点ばっかり。よく懲りないな、お前も」
「そんなに誉められると、照れます」
「誉めていない!」
少し頬を赤くし、頭を掻くカモメに、恵が勢いよく怒鳴りあげる。放課後の国語資料室で、恵は、カモメと一対一の補習授業を行っていた。
「これがプリントだ。とっとと始めろ」
「はぁーい」
恵からプリントを受け取ったカモメが、相変わらずの暢気な笑顔で返事をする。赤点を取った悪びれさも、補習をやることへの嫌気も、カモメからはまったく感じなかった。そんなカモメを見て、恵がどこか呆れたように肩を落とす。
「えぇーっと、朝比奈カモメ、と」
氏名のところに自分の名を書くカモメを見つめ、恵はそっと目を細めた。
「お前」
「へ?」
プリントを始めようとしたまさにその時、呼びかけられ、カモメが間の抜けた様子で、顔を上げる。
「お前ん家、八百屋か?」
「あ、はい。そうです」
恵の問いかけに戸惑いながらも、カモメがあっさりと頷く。
「先生、よく知ってますね。あ、でも、先生なんだから知ってても普通かぁ」
自分で納得するように、あれこれと言葉を呟いているカモメを見つめ、恵がさらに目を細める。
―――見て、恵。可愛いでしょ?“カモメ”っていうのよ―――
十数年前、親友の茜が見せに来た赤子。あの日から、恵の姿は変わっていないが、あの小さかった赤子は、これほどまでに大きくなっているのかと、時の流れに驚かされる。そして、驚かされると同時に、成長を封じられた、弟の姿を思い出した。
―――どうして俺は、ここに居るんだろう―――
いつまでも卒業の日を迎えることの出来なかったこの場所で、苦しむような、悲しむような、絶望したような表情を見せていた弟。その姿を思い出し、恵がそっと険しい表情を見せる。
「先生?」
「あ…」
カモメに戸惑いの表情で呼びかけられ、恵がハッとなって、再びカモメの方を見る。
「とっとと始めろ」
「はい」
悔いても仕方のないこととは思いながら、恵の心に、遠久の存在は、重く圧し掛かり続けていた。
それから、一年以上の時が流れた。
「まぁーた、赤点取りやがったな!カラス!」
国語資料室に今日も、恵の怒鳴り声が響き渡る。
「だから、俺の名前はカモメですって。恵先生」
「んなもん、どっちでもいい!ってか、いい加減、考えろ!」
カモメの名前の訂正をあっさりと無視し、恵がさらに怒鳴りを続ける。
「毎度毎度、お前のためだけに、補習プリントを作らなきゃいけない、私の面倒を!」
「潔いほど、自分勝手ですね」
教師らしからぬ恵の言葉に、カモメは少し呆れたような、感心したような表情で、言葉を落とした。
「別に私のためだけに言ってるんじゃない」
椅子に腰をかけた恵が、固く腕組みをし、まっすぐにカモメを見つめる。
「お前だって、こんなうるさい教師と二人きりでの補習なんてせずに、とっとと帰って、遊びたいだろうが」
「うぅーん、それが困った話なんですよねぇ」
「はぁ?」
首を捻らせるカモメの言葉の意味がわからず、恵が大きく顔をしかめる。
「俺、そんなに嫌じゃないんです。補習」
穏やかな笑顔で恵を見つめ、カモメはまっすぐに、そう告げる。
「こうして補習を受けてると、恵先生が本当に、言葉を大切にしてるっていうのが、よくわかるし」
「授業だけで、わかれよ」
「授業中は、何故か睡魔が襲ってくるんですよぉ」
鋭く指摘する恵に、カモメは困ったように笑う。
「それに」
言葉を付け加え、カモメがまっすぐに恵を見る。
「先生と二人の時間は、心地いい」
「……っ」
その言葉に衝撃が走ったのは、恵もどこかで、同じ気持ちを抱いていたからなのかも知れない。
初めは、ウズラと茜の子で、あの時の子であるから、気になるだけだと思っていた。明と同じ苗字で、明のあの八百屋の子供ともなれば、嫌でも気になる。そう、自分に言い聞かせていた。自分の中にわずかに芽生えた感情を、必死に掻き消すように。
「先生、知ってます?この本」
ある日、補習でもないのに国語資料室へとやって来たカモメが、恵へと、とある本を見せた。
「ああ?何だぁ?その見るからにデロ甘そうな、吐き気のする表紙の本は」
「“恋盲腸”っていうんですよ!俺のバイブル!」
「へぇ~、お前にも読める本があったんだな」
「自分の生徒に、ひどい言いようだなぁ」
冷たい言い方をする恵に、カモメが少し表情をしかめる。
「一途な少女ヒトミと、その担任の先生との、切ない恋物語なんですけどね」
「くだらなさそうだな」
「何でですか!素敵じゃないですか!」
興味なさそうな言葉ばかりを落とす恵に、カモメが強く訴える。
「いつか俺も、ヒトミと先生のように、燃える恋をするんです!」
「へぇ~、お前が色恋に興味があるとは、思わなかった」
意外そうに笑い、恵が本から顔を上げ、カモメを見る。
「当てでもあんのか?」
少し試すように問いかけた恵に、カモメは笑うでもなく、珍しく、真剣な表情を見せた。予想とは違うカモメの表情に、恵が少し戸惑うように、首を傾げる。
「朝比奈?」
「はい」
名を呼びかけた恵に、カモメは、はっきりと頷いた。
「目の前に」
微笑んだカモメは、何の迷いもなく、そう告げた。
「だから、それもあって、妙にヒトミに感情移入しちゃって!って、先生、俺の話、聞いてます?」
再び微笑んだカモメは、まったく何の反応も示さない恵を不思議に思ったのか、少し腰を屈め、椅子に座ったままの恵の顔を覗き込む。
「無視はさすがに凹むんで、何か言ってくれると有り難いんですけど。先生?」
カモメがゆっくりと、恵の顔を見る。
「先っ…」
恵の顔を見た途端、カモメはその表情を止める。
「…………」
カモメの見た恵は、今にも壊れてしまいそうな、とても辛い表情を見せていた。
どんどん、踏み込んでくる。どんどん、動かされる。
それでも、受け入れるわけにはいかない。
“永遠”が、“永遠”が、この心を、縛りつけている限り。
それからまた一年が経ち、入学したばかりだったカモメもすでに、高校最後の年を迎えていた。
「来年の春には、卒業かぁ」
もうすでに自分の場所かのように、すっかり国語資料室に居慣れた様子のカモメが、ホウキを片手に資料室の掃除をしながら、壁に掛かったカレンダーを見つめ、しみじみと呟く。
「補習の方はまだ、卒業出来てないけどな」
「アハハ」
鋭く言い放つ恵の言葉に、カモメが乾いた笑みを浮かべる。
「卒業後は、父親の八百屋を手伝うんだろ?」
「はい。弟たちもまだ小さいし、父一人じゃ、大変そうなんで」
恵の問いかけに、カモメが穏やかな笑顔で答える。明の八百屋をカモメが継ぐのかと思うと、少しだけ救われたような、そんな気持ちになった。
「良かったな。お前文系のくせに、国語最低だから、進学組だったら、行くとこなかったぞ」
「ひどい言われようだなぁ」
歯に衣着せず言う恵に、カモメが少し拗ねるように、口を尖らせる。
「卒業、か…」
カモメがもう一度カレンダーを見つめ、真剣な表情を見せる。
「ねぇ、恵先生」
「ん?」
呼びかけるカモメに、本を読みながら、適当な返事をする恵。
「先生はどうして、年を取らないの?」
カモメの問いかけに、恵の表情が止まる。
「なっ…」
「…………」
驚きの表情で恵が顔を上げると、いつになく真剣な表情を見せたカモメが、まっすぐに、恵を見つめていた。責めるでも、憐れむでもない、ただまっすぐな視線に、誤魔化すことなど出来ないことを、すぐさま感じ取る。
「いつ、気付いた…?」
「音士になって、一ヶ月くらいかな」
「そうか」
カモメの言葉に頷いた恵が、読んでいた本を閉じ、机の上へと置くと、そっと目を細める。
「言葉の力を持つ者には、わかるんだな」
恵が口元を緩め、自嘲するような笑みを浮かべる。
「同じ言葉である、“永遠”が…」
「永遠…?」
首を傾げるカモメの方を振り返り、恵が、厳しい表情を見せる。
「二十数年前、当時“恵の神”だった私は、自身の言葉“永遠”を使い、自身の若さと命を、永遠のものへと変えた」
「え…?」
それから恵は、自身の弟遠久のこと、永遠のこと、旧世代の神のことをすべて、カモメへと話した。
「そっか…」
頷きながらも、カモメは驚きを隠せない表情を見せていた。当然といえば、当然であろう。いくら五十音士の一人とはいえ、早々簡単には、受け入れられる話ではない。
「だから先生は、年を取らないんだ」
「ああ」
カモメの言葉に答えた恵が、その場で深く俯く。
「私とお前たちとでは、生きてる時間軸が違う」
どこか壁を張るように、冷たく言葉を投げかける恵。拒絶しなければならないと、思っていた。生きる時間が違うことを告げ、拒絶しなければ、恵は、カモメに向けられるまっすぐな思いに、流されていってしまう。この思いに包まれてもいいのではと、変な希望を持ってしまう。
「私とお前たちとでは、同じ時を、生きることは出来ない」
その言葉は、まるで諦めたような、そんな言葉であった。俯いたままの恵を見つめ、カモメがそっと目を細める。しばらくの間、沈黙のまま、時が流れた。
「でも…」
口を開いたカモメに、恵がゆっくりと顔を上げる。
「でも、俺は」
顔を上げた恵を、カモメがまっすぐに見つめる。
「俺は、先生と同じ時を生きてみたいな」
偽りのない瞳、どこまでも深く、包みこむような優しい笑顔。向けられたその言葉を聞き、恵が大きく、目を見開く。重く縛りつけられていた心が、一気に解放されていくような、そんな感覚であった。
「な、何を…」
動揺を隠しきれず、少し震えた声を、恵が発する。
「馬鹿なことをっ…」
「馬鹿なことなんかじゃないよ」
恵が言葉を言い切る前に、あっさりとその言葉を否定するカモメ。
「俺は、たった今、話を聞いただけで、恵先生の苦しみも悲しみも、全然わかってあげられないし、無くしてあげることも出来ないけど」
優しい声が、恵の耳に、言葉を届ける。
「同じ時間を生きれば、苦しみも悲しみも、一緒に背負うことが出来るでしょう?」
もう一度、大きく、恵へと微笑みかけるカモメ。
「一緒に背負って、一緒に歩んでいくことが出来るでしょう?」
その言葉の一つひとつに、どうしようもないほど、心が救われていく。
「一緒に、歩む…?」
「うん」
「そんな、こと…」
「“出来ない”なんて、諦めないで」
再び俯いた恵に、カモメはすぐさま、声を掛けた。
―――遠久…!―――
明の犠牲にし、遠久を封印したあの日、一生、この永遠を背負って生きていくことを決めたというのに、カモメの言葉を受け、恵の心の中で、どうしようもないほどに、希望が溢れ出してきた。
「ねぇ、恵先生」
膝に置いていた恵の手を、カモメが強く握り締める。
「俺、探すから、恵先生も、一緒に探そう」
カモメが恵の前へとしゃがみ込み、俯いたままであった恵を、下から覗きこむように見つめる。
「一緒に、生きていく道を」
永遠ではなく、刹那を生きたいと、ただ強く、そう思った。
好きだった。
好きだった。
あの頃は、こんな感情を、持っていいはずがないと、ただ、自分の心に首を振っていたけれど、カモメの思いに、ただ辛い顔を見せることしか出来なかったけれど、今は、はっきりとわかる。
はっきりと、言える。
優しい笑顔が、誠実な瞳が、まっすぐな言葉が、カモメのすべてが、大好きだった。
大好きだったよ、カモメ……――――




