Word.76 共ニ 〈2〉
永遠の居城、屋上。
「グウウゥゥゥ…」
「んあ?」
アヒルたちを城内へと送り届け、終獣との交戦を続けていたスズメが、チュン吉の上で、眉をひそめる。急に攻撃の手を休めた終獣が、顔を俯け、連続した低い唸り声を漏らしている。しばらくの間、交戦してきたが、こんな状態の終獣を見たのは、初めてであった。
「何か、様子がおかしいですね」
「熊子」
スズメと同じように熊子も終獣の様子に気付いたのか、攻撃の手を止め、終獣と距離を取る。
「何か、力を溜め込んでいるような…」
「あっ」
熊子の言葉に、何やら思いついたのか、ハッとした表情となるスズメ。
「全員、この場から離れろ!」
焦ったような表情を見せたスズメが、屋上の上へとチュン吉を上昇させ、屋上に居るツバメたち宇団と、ヒロトたちハ行の四人へ向け、注意喚起するように叫ぶ。
「スズメ氏?」
「そこから離れろ、ツバメ!」
熊子が戸惑う中、次の攻撃をするべく、終獣の頭上をスワ郎に乗り、飛んでいるツバメへと叫びあげるスズメ。その言葉に一瞬、戸惑うような表情を見せるツバメであったが、すぐにスズメの言う通りにスワ郎を動かし、その場を離れた。丁度、ツバメがその場を離れたところで、俯いていた終獣が、勢いよく顔を上げ、天を仰ぐ。
「グアアアアア!」
天を仰いだ終獣が、大きく口を開き、その口から、巨大な金色の光の塊を放つ。
『ううぅ…!』
その強烈な光が、辺りの空気を揺らし、屋上に居た皆が身を屈め、何とか吹き飛ばされないように、必死に堪える。終獣が放った光は、遥か上空で無数に分かれ、遠くの方へと飛んでいった。
「スズメ、今のって…」
「“終えろ”、“无”の文字の力が、どこかへ飛ばされたんだ」
スワ郎と共に、スズメの方へと寄って来たツバメに対し、スズメは、光の飛んでいった方角を見つめ、厳しい表情を見せる。
「また、人々の言葉が終わった…」
スズメのその言葉に、ツバメも同じように、険しい表情を見せる。
「早く何とかしねぇと、皆の言葉が終わっちまうぞ」
焦った様子で、スズメが言葉を続ける。
「アヒル…」
「今の、光は…」
その頃、屋上横の上空で、現との交戦を続けていた保も、空気の揺れと、終獣が放った激しい光に気付き、険しい表情で、光の飛んでいった方角を見つめていた。
「ホホホ、やはり素晴らしいのぉ。我が産物の力は」
聞こえてくる笑い声に、保が眉間に皺を寄せ、再び前を見る。
「ではやはり、あの生物が…」
「“終獣”、じゃよ。そう、わしの可愛い終獣が、人間の言葉を終わらせる、“无”の文字の光を放ったんじゃよ」
「また、誰かの言葉が…」
告げられる事実に、少し俯き、厳しい表情を見せる保。
「何故です…?」
「んん?」
改めて問いかける保に、現は不思議そうに首を傾げる。
「あなたは、別に、言葉を消すことを、終わらせることを、望んでいるようには見えない」
保が険しい表情のまま、まっすぐに現を見つめる。
「“生まれろ”の言葉を多用する程です。むしろ、言葉を必要としているように見える」
「確かに、そうじゃのぉ」
保の言葉に、納得するように頷く現。
「言葉は、わしの神としての権威を示すもの。なくなってもらっては、困る」
「では、何故です?」
現の言葉を聞くと、保はすぐさま、問いかけを向けた。
「阿修羅さんの時も、今回も…何故、言葉をなくす側に協力をするんです?」
「何じゃ、そんなことか」
保の問いかけを聞き、どこかつまらなさそうに、肩を落とす現。
「答えなど、簡単じゃよ」
現が口元を歪め、いやらしく笑う。
「“面白そうだったから”じゃ」
あっさりと告げられる答えに、保が思わず、大きく目を見開く。
「面白そう、だったから…?」
「ああ」
かすかに震えた声で、現の言葉を繰り返す保に対し、現はあっさりと頷きを返す。
「言葉が消えれば、終わらされれば、人間共は、お前たち五十音士共は、どんなに慌てふためくか…」
現がどこか楽しげに、その声を弾ませる。
「それを考えただけで、面白くて面白くて、胸が躍る」
その現の言葉に、保の表情が、どんどんと歪んでいき、さらに険しいものへと変わっていく。
「じゃから、協力した。阿修羅にも、永遠にもなぁ」
現の言葉が続く中、保はそっと俯き、現からその表情を背けた。
「面白、そう、だから…」
「ん?」
俯いたまま、もう一度、その言葉を繰り返す保に、現が少し眉をひそめる。
「面白そうだったから、ですか…?」
保がゆっくりと顔を上げ、再び、まっすぐに現を見つめる。その瞳は、どこか悲しげであった。
「あなたが、何百年もの大昔、“忌”という生物を、生み出したのは」
その問いかけに、現が一瞬、笑みを止め、その皺だらけの顔から、表情をなくす。だが無表情もすぐに終わり、現はまた、楽しげに笑った。
「ああ」
あっさりと頷く現に、保は、糸のからまった右拳を、力強く握り締める。
「あなたは、知っていますか…?」
怒りを表に出すことはなく、静かに、現への問いかけを続ける保。
―――ごめんな、保…―――
かつて、五十音士でありながら、忌に取り憑かれ、自ら命を絶つことを選んだ父と母。
―――ならば何故、“痛み”が消えない…?―――
終わりない“痛み”を嘆いた、“痛み”から生まれた命。
「あなたが生み出したものの為に、どれほどの“痛み”が、“哀しみ”が生まれたか…」
悲痛なその姿を思い出し、保が、鋭い視線を、現へと向ける。
「興味がないのぉ」
だが現は、保のその真剣な眼差しに、正面から答えようとはしなかった。
「わしは創造神。生み出したものが、その後、何をしようと、わしには関係のない話じゃ」
現の言葉に、そっと俯き、どこか諦めるように、その瞳を閉じる保。次に目を開くと、保はもう、悲しみも戸惑いもない、落ち着き払った表情を見せていた。
「やっぱり、確信しました」
自身の胸を押さえ、保がはっきりと言い放つ。
「あなたは、神じゃない」
保のその言葉に、現がかすかに、眉尻を吊り上げる。
「自らが生み出した命を、慈しむことも出来ないような人に、神を名乗る資格はありません」
断言するように、保が強く言い切る。
「相変わらず、生意気じゃのぅ」
保の言葉に怒りを見せることはなく、現はどこか、余裕の表情で笑う。
「どうやら、お主のその口は、不必要なことしか言えぬ構造になっているらしい」
現が杖を持っていない方の手を前へと出し、その人差し指で、保の口元を指差す。
「んん、そうじゃ。いいことを思いついた」
何を思いついたのか、真っ白な顎髭を梳かしながら、現が楽しげに笑う。そして、先端に言玉のついた杖を、すぐに保の方へと向けた。
「“写せ”」
「え…?う!」
言葉の意味に戸惑い、保が眉をひそめたのも束の間、現の杖から、眩いばかりの金色の光が放たれ、もろにその光を瞳の中に入れてしまった保は、あまりの眩しさに、その瞳を閉じた。目の感覚が戻ったところで、保が再び、その瞳を開く。
「今の、言葉は…」
「今の、言葉は…」
「え…?」
「え…?」
繰り返される自分の言葉に、保が戸惑うように顔を上げる。だが、その保の戸惑いの声さえも、繰り返され、保の声と重なるようにして、聞こえてきた。
『な…!?』
重なる、驚きの声。
「お、俺…?」
保の目の前に浮かんでいるのは、もう一人の保であった。今の保の表情と同じ表情をしているのか、その表情は、驚きと戸惑いに満ちている。目の前に現れた、自分とまったく同じ姿をしたその存在を見つめ、互いに、さらに戸惑った表情となっていく、二人の保。
「こ、こんなこと…」
「フハハハ!気に入ったかのぉ?」
響く笑い声に、保が勢いよく右方を振り向く。保が振り向くと、もう一人の保も、まったく同じ動きで左方を振り向き、横に浮かぶ現の姿を、その瞳に捉えた。
「あなたの言葉の…!?」
「ああ、そやつは我が言葉、“写せ”により、写し出されたお前さん自身じゃ」
現がもう一人の保を指差し、楽しげに笑う。
「さぁ、不必要な言葉同士で、存分に潰し合うがいい!」
「ク…!」
高らかと響く現の言葉に、保は険しい表情を見せた。
「“鎌鼬”」
「“滅せ”!」
前方からやって来た風の塊を、恵が、緑色に輝く右足を勢いよく振り切り、掻き消す。
「“火炎”」
「う…!」
だが、また前方から、すぐさま炎の塊がやって来て、まだ右足を振り下ろし切れていない恵は、攻撃態勢を整えることも出来ず、ただ険しい表情で、唇を噛み締める。
「ああああ!」
正面から炎を食らい、後方へと弾き飛ばされる恵。真っ白な床に、焦げついた恵の体が転がる。
「う、ううぅ…」
「その程度?」
白い床を歩く足音と共に、聞こえてくる声に、苦しげに表情を歪めていた恵が、ゆっくりと顔を上げる。
「恵先生」
金色の巨鳥を脇に従え、恵へと歩み寄って来るのは、穏やかな笑みを見せたカモメであった。
「気安く呼ぶな」
やって来るカモメへ、恵が鋭く言葉を放つ。
「冷たいな」
恵の言葉を受け、カモメが困ったように笑う。
「“また明日”って言ったから、ちゃんとこうして、会いに来たのに」
カモメの言葉に、恵が眉間へと皺を寄せる。
―――じゃあ先生、また明日!―――
来ることのなかった明日を、待ち続けた、この五年。
「人の思い出を、とことん踏み躙りやがって…」
低く漏れた恵の声は、怒りを秘めていることが、すぐにわかるほどであった。
「幻覚にしたって、タチが悪過ぎるな」
恵が瞳を鋭くし、カモメを睨みつける。
「お前は、カモメじゃない」
「言葉のわりには、さっきから攻撃の手が止まってるけど」
涼しげに言い放ったカモメの姿を直視し、恵がさらに表情を険しくする。カモメではない。本物のカモメであるはずがないと、頭の中ではわかっていても、その姿を目の前にすると、どうしようもないほどに戸惑い、冷静に体は動かなかった。
「俺、恵先生は、もっと強いと思ってたんだけどな」
その場で足を止めたカモメが、どこかがっかりしたように、肩を落とす。
「だって先生は」
カモメがさらに口を開き、言葉を続ける。
「“永遠”なんて言葉を創って、この五十音の世界を変えた人なんだから」
カモメのその言葉に、恵が床に倒れた姿勢のまま、大きく目を見開く。
「ねぇ、先生」
声だけは、やたらと優しく、恵に呼びかける。
「先生がもし、弟さんの時を永遠にしたりしなきゃ、父さんが俺に、“う”の文字を埋め込むことはなかったよね」
一度も忘れることのなかった穏やかな笑顔で、恵を見つめる。
「そしたら、言姫様も、俺を加守にしたりしなかったかも知れない」
どんどんと追い詰められていくように、その表情を、険しいものへと変える恵。
「そしたら俺、死ななくて済んだかも知れないんだよ?」
その言葉が、とどめの一撃のように、恵の胸に突き刺さった。
「恋盲腸読んで、父さんの八百屋手伝ってさ、今も、元気に生きてたかも知れないんだよ?」
カモメの言葉の一つひとつが、激しく恵を追い込んでいく。
「アーくんもあんなに、苦しまなくて済んだかも知れないんだよ?」
続く言葉に、目を見開く恵。
―――カー兄…!―――
兄に放った言葉を悔み、ひたすらに言葉の重みを背負ってきた、アヒルの姿が、恵の脳裏を過ぎった。
「ねぇ、わかってる?先生」
カモメのその問いかけに、言葉も出ず、恵はただ、血が滲みそうなほどに強く唇を噛み締め、力なく瞳を閉じ、深く俯いた。
「全部、先生のせいだって、ちゃんとわかってる?」
瞳を閉じたままの恵に、カモメがもう一度、追い打ちをかけるように、問いかける。
「ねぇ、先生」
さらにまた呼びかけ、カモメが恵へと、巨鳥を向けた。
「“咬み砕け”」
「う、うああああ!」
カモメの言葉により、倒れたままの恵へと飛びかかっていった巨鳥が、恵の右足に勢いよく咬みつく。恵は激しく叫び声をあげ、上半身を起こし、もう一度、床へと倒れ込んだ。巨鳥の離れた右足からは、赤い血が流れ落ち、吸収されていた緑色の言玉が、力なく床へと転がる。
「う、うぅ…」
ろくに体を動かすことも出来ず、恵が苦しげな呻き声を漏らす。
「苦しい?恵先生」
そんな恵へと、歩を進め、さらに歩み寄りながら、カモメが、変わらぬ穏やかな表情で問いかける。
「色んなものを背負ってきて、たくさんのものを巻き込んできて、苦しい?」
痛みに遠ざかる意識の中、届くカモメのその言葉に、恵は、頷いてしまいたい気持ちで、いっぱいだった。その問いかけに頷けば、縛りつけているもの、すべてから解放されて、身軽になって、カモメのところへ行けるような、そんな気がした。
「今、俺が楽にしてあげるよ」
動けぬ恵へ、もう一度、巨鳥を向けようと、右手を振り上げるカモメ。
「……っ」
そんなカモメを見つめ、恵はそっと、目を細めた。




