Word.1 あノ目醒メ 〈3〉
『ハァっ…!ハァっ…!ハァっ…!』
どのくらいの時間を、走り続けたのかわからない。だが体育のマラソンなどは軽く感じる程に、全力で走り続けた。人気のない荒地まで駆け抜けてきたアヒルと少女は、置かれている壊れた車の横にしゃがみ込み、身を潜めて、その乱れた呼吸を、必死に整えていた。
「ここまで来ればっ…さすがに追って来ねぇだろっ…」
「ハァっ…ハァっ…ったく、何なの?君っ…」
疲れ切った様子でその場に座り込みながら、少女が横で呼吸を整えているアヒルを見上げる。
「何だって、私を引っ張って逃げたりなんかしたのよっ?」
「何となくっ」
「はぁっ?」
短く答えるアヒルに、少女が大きく口を開く。
「何となくって、何それ?適当ねぇっ」
「何となくなもんは、何となくなんだから仕方ねぇだろぉっ?」
「んっ…?」
少女の横にしゃがみ込むアヒルの鞄から、小さな長方形の何かが落ち、少女がそれに手を伸ばした。拾ったそれを表に向けると、顔写真が見える。どうやら生徒手帳のようであった。
「朝比奈…アヒル…?」
写真の横に描かれた名前を、口にする少女。
「何?この変な名前っ。本名っ?」
「うっせぇなぁ!本名だよっ!」
顔をしかめたアヒルが、少女の手から素早く手帳を奪う。
「悪かったな!変ちくりんな名前で!」
「ホントね。親のセンス、おかしいを通り越して、イカれてるわよ?」
「ちったぁ遠慮しろっ!」
悪びれもなく言い放つ少女に、アヒルが強く怒鳴りあげる。
「お前の名前は?何ていうんだよ?」
「何で私が、見ず知らずの君ごときに名前を教えなきゃいけないのよ」
「人の名前、散々バカにしといて、それっ!?」
嫌そうな顔を見せて言い放つ少女に、アヒルが怒鳴りあげるを通り越して、ショックを受ける。
「ったく、んな口ばっかきいてっから、こんな目に遭ってんじゃねぇーの?」
「え?」
アヒルの言葉に、少女が少し戸惑うように振り向く。
「あの男があの変な悪霊に取り憑かれたのって、悪意ある言葉を向けられて、傷ついたからなんだろ?」
「ええ、そうよ」
「その悪意ある言葉って、お前が今朝、あいつに言ってた、“消えろ”だの何だのじゃねぇーのっ?」
「……っ」
驚いたように、目を見開く少女。
「何で君が、そんなこと知ってんのよ?」
「たまたま見てたんだよっ」
「盗み見?サイテーねっ」
「たまたまだっつってんだろうがっ!」
非難するようにアヒルを見る少女に、アヒルが思わず怒鳴りあげた。
「っつーかさ、お前があいつに謝れば、あいつの気も済んで、あの変な悪霊も消えるんじゃっ…」
「冗っ談じゃないわっ」
「へっ?」
強く言い切る少女に、アヒルが少し驚いたように振り向く。
「なんで私が、あんな奴に謝らなきゃいけないのよっ」
「……っ」
不快そうな表情を見せ、煩わしそうに言い放つ少女を見て、アヒルがそっと目を細める。
「一方的に、付き纏ってきたのはあの男よっ?私はただ迷惑 被っただけっ!被害者は私なのよっ?」
少女はさらに、強気なその言葉を続ける。
「あの男は、ああ言われて当然っ、私は何にも間違ったことなんてしてないわ!」
「…………」
少女の言葉を聞きながら、アヒルがそっと俯く。
―――ううぅっ…!―――
力なく落とされていた、悲しげな声。
「だから私が謝る必要なんてっ…」
「迷惑被ったからって…」
「……?」
少女の言葉を遮るアヒルの声に、少女が少し戸惑うような表情を見せながら、アヒルの方を振り向く。
「間違ってないからって…」
ゆっくりと顔を上げたアヒルが、まっすぐに少女を見つめる。
「だからって…人の心を傷つけていい、わけじゃないっ…」
「……っ!」
まっすぐに注がれるアヒルの視線とその言葉を受けて、少女が思わず大きく目を見開く。
「そっ、それはっ…」
「グオオオォォっ!!」
『……っ!!』
少女が言葉に詰まっていたその時、激しい叫び声が響き渡ると、二人が身を潜めていた車が勢いよく砕け散った。背もたれをなくし、二人が一気に険しい表情となって振り返る。
「グオオオォォォっ…!!」
「追って来たのかっ…!」
「クっ…」
二人のいる荒地へと駆け込んでくる男に、アヒルと少女が厳しい表情を見せる。
「仕方ないわねっ…こうなったらっ…」
「へっ?」
そう言ってレースで飾られた服の、懐に手を入れる少女を、少し戸惑うように見つめるアヒル。
「“破”っ!!」
『うっ…!』
少女が何かしようとしたその前に、駆け込んできた男は、二人へ向けて、先程と同じ衝撃波を勢いよく放った。迫り来る衝撃波に、今度は避けるような曲がり角もなく、二人の表情が歪む。
「しまった…!」
「うわあああっ!」
「クっ…!」
焦ったように言う少女の横で、頭を抱えて叫ぶアヒル。そんなアヒルを横目に、少女が唇を噛み締める。
―――バァァァァァンっ!
「痛てててててっ…」
吹き抜ける、砂煙。表面が大きく削れた荒地のすぐ横で、倒れていたアヒルが、後頭部を押さえながら、ゆっくりと体を起こす。
「こんだけ痛けりゃ、夢ってことはなさそうだなっ…」
苦い笑みを見せながら、アヒルが少し残念そうに呟く。
「ううぅ…」
「ん?あっ…!」
すぐ傍から聞こえてくる、どこか苦しげな声に、アヒルが大きく体を起こすと、アヒルのすぐ横に、アヒルを庇うようにして倒れ込んでいる少女の姿があった。
「お前っ…!」
アヒルがすぐさま起き上がり、倒れている少女へと駆け寄る。少女のスカートから見える細い足は、深く傷つき、赤々とした血が流れ落ちていた。
「俺を庇ってっ…!?おいっ…!」
「ハァ…ハァっ…」
起き上がったアヒルが、倒れ込んだままの少女の体を、支え起こす。呼びかけるアヒルに対し、少女は息を乱しながらも、ゆっくりと顔を上げた。
「まだ…動ける…?」
「はぁっ?あ、ああっ」
途切れ途切れの言葉で問いかける少女に、少し戸惑いながらも頷き返すアヒル。
「じゃあ…とっとと、ここから…逃げ、てっ…」
「はぁっ!?」
思いがけない少女の言葉に、アヒルが大きく驚く。
「あいつの狙いは…悪意ある言葉を向けたこの私っ…君が逃げても…追いかけていくことはないはず、だからっ…」
「バッカなこと言ってんじゃねぇーよ!怪我人の女一人残して、逃げられるわけがっ…!」
「私だって…いたいけな一般人の家鴨クン、巻き込んじゃうわけにはいかないのよっ…」
「はっ?」
少女の言葉の意味がわからず、アヒルが大きく口を開く。
「それに…確かに、君の言う通りかも知れないっ…」
「えっ…?」
「“間違ってないからって、人の心を傷つけていいわけじゃない”ってやつっ」
「……っ」
先程、アヒルが言った言葉を繰り返し、そっと笑みを浮かべる少女に、アヒルが少し驚いたような表情を見せる。
「私は、あの人の心を傷つけた…だからお詫びしないとっ…」
少女が笑みを浮かべたまま、さらに言葉を続ける。
「でも、君は関係ない…だから逃っ…」
「フザけんなよっ」
「えっ…?」
少女の言葉を掻き消して、強く言い放つアヒルに、少女が少し戸惑うように、アヒルを見上げる。
「あいつに傷つけられてやることがっ、あいつに詫びることになるとでも思ってんのかっ?」
アヒルが少女に、突き刺すような視線を送る。
「んなことっ、少しの詫びにもならねぇっ!」
必死に叫ぶアヒルが、徐々に声を大きくする。
「言葉で傷つけたんならっ…!言葉で謝れよっ!!」
「……っ!」
その言葉に、少女が大きく目を見開く。
「言葉でっ、あいつと向き合えよっ…!!」
「……っ」
必死に叫ぶアヒルを、少女はまるで眩しいものでも見つめるかのように、目を細めて見つめる。
「グオオォォォっ!!」
『……っ!』
再び聞こえてくる叫び声に、同時に振り向くアヒルと少女。
「“破”っ…!!」
『うっ…!』
男が二人へ向け、再び衝撃波を放つ。
「クソっ…!」
「なっ…!」
向かってくる衝撃波と倒れたままの少女の間に、強く立ち塞がるアヒル。そんなアヒルの姿に、少女が大きく目を見開く。
「何やってんのよっ!逃げなさいっ!」
「それはさっき、断っただろっ?」
「バカなこと言ってないでっ…!とっとと逃げっ…!」
「俺がっ…」
「えっ…?」
遮るアヒルの声に、少女が思わず言葉を止める。
「俺が絶対にっ…」
立ち塞がったアヒルが、迫り来る衝撃波を見つめながら、強い瞳を見せる。
「お前をっ…言葉で謝らせてやるよっ…!!」
「……っ!」
アヒルの言葉に、大きく目を見開く少女。
「あっ…!」
だがその間にも、衝撃波は迫り来る。
「ダメ…!もうっ…!」
どうすることも出来ないと悟り、少女が厳しい表情を見せた。その時。
―――パァァァァァンっ!
『うっ…!』
二人のすぐ前方で、強い白色の光が突然、輝き、あまりの眩しさに、二人は思わず目を細めた。
「ガアアアアアアっ!」
『えっ…?』
先程までの叫び声とは違う、悲鳴のような声が聞こえてきて、アヒルと少女が顔を上げる。そこには、突然、現れた光に弾き返された、自らの衝撃波を受け、吹き飛んでいく男の姿があった。
「忌の技が弾かれるなんて…」
「何だぁ?一体っ」
驚いたように呟く少女の声を背中で聞きながら、アヒルがその、目の前に現れた光を見つめる。
「んっ?」
徐々に白い光が小さくなっていくと、やがて、小さくなっていく光のその中心に、手のひらですっぽりと包み込めてしまう程の大きさの、丸くて赤い、宝石のようなものが見えてきた。その玉は、立っているアヒルの丁度、目の高さくらいのところで、宙に浮いている。
「玉っ…?」
「これはっ…!」
首を傾げるアヒルの横で、少女が大きく目を見開く。
「“言玉”っ…!」
「コト、ダマっ…?」
またしても聞きなれない言葉を耳にし、少女の方を振り返りながら、困惑した表情を見せるアヒル。
「グっ…!ググっ…!」
「うげぇっ!あいつ、あれ喰らって、まだ立ち上がってんぞっ!?」
自らの衝撃波を受けたというのに、特に体に傷を負った様子もなく立ち上がる男に、アヒルが焦ったように声をあげる。
「忌に憑かれてると、体が強化されるのよ」
「マジっ?じゃあ殴ったり蹴ったりしても、無駄ってことかぁ」
「……っ」
ボヤくアヒルの後ろで、少女が少し考え込むような表情を見せる。
「ちょっと、アッヒーっ」
「変なあだ名つけんなっ」
傷のわりには元気そうな様子を見せながら、少女がアヒルを呼ぶと、その呼び名にアヒルが少し顔をしかめる。
「その玉っ、手にとってみて!」
「へっ?これを?」
少女の言葉に、アヒルが目を丸くする。
「なんで?」
「なんででもいいから早くっ!」
「ああっ?わ、わかったよっ」
強く言い放つ少女に急かされるようにして、アヒルが浮いているその玉へと手を伸ばす。アヒルの指先が、玉に触れ、そしてその赤い玉を掴んだ。
「えっ…!?」
アヒルが玉を掴んだその瞬間、再び玉から強く白い光が放たれると、玉がアヒルの手の中で、光を放ちながら、形を変えていく。
「なっ…!何だよ!これっ…!」
「…………」
焦ったように叫ぶアヒルを、まっすぐに見つめる少女。
「うっ…!」
―――パァァァァァンっ!
「んっ…」
やがて一番強い光が放たれると、あっという間に光は止み、その場に静けさが戻った。思わず瞳を閉じていたアヒルが、ゆっくりと目を開き、自分の手の中を見る。
「こ、これはっ…!」
自分の手の中にあるものを見つめたアヒルが、大きく目を見開く。
「“銃”っ…?」
そう、あの赤い玉の代わりに、アヒルの手に握られていたのは、鈍い赤銅色の、一丁の銃であった。銃身が多少長いが、片手で十分に持てる重さで、トリガーもアヒルの指の太さによくフィットしている。だが、銃のはずなのに、銃弾を入れる部分は見当たらなかった。長い銃身の片側に描かれている、『安』の文字。持ち手の下部分には、金色の紐がついている。
「な、なんで玉が銃に…」
「グオオォォォっ…!」
「うげぇっ!」
アヒルに考える時間を与えることなく、立ち上がった男が、激しい叫び声をあげ、アヒルと少女のもとへと駆け込んでくる。
「ど、どうしたらっ…!」
「撃って」
「はぁっ!?」
銃を持ったまま、焦ったように周囲を見回していたアヒルが、少女の言葉に大きく口をあけ、驚いたような声をあげて、少女の方を振り返る。
「バカかぁ!お前は!下手なとこ撃って、あいつが死んだりなんかしたら、俺は即、刑務所行きでっ…!」
「大丈夫っ。いいから撃ってっ」
「大丈夫って、お前なぁっ…!」
「あの人を助ける為なのっ」
「……っ」
真剣な表情で、迷いなく言い放つ少女。その少女の姿に、アヒルは少し目を見開いた。どうにも信じられない話ではあったが、少女が嘘をついているようには見えなかった。
「私を信じて…」
少女がアヒルをまっすぐに見つめ、さらに言葉を放つ。
「お願い…朝比奈アヒルっ…」
「…………」
アヒルの名を呼び、そっと願う少女に、アヒルは少し俯き、強く唇を噛み締めた。
「クッソっ…!」
意を決した様子で前を向いたアヒルが、今、立っている位置から、二、三歩前へ出て、先程の銃を、見よう見真似で構える。
「どうなってもっ…知らねぇーぞっ!!」
少し自棄になったように叫んで、アヒルが勢いよく引き金を引く。
―――パァァン!
響き渡る、銃声。
「……って」
次の瞬間、少女が声を発する。
「どこ、撃ってんのよっ!!」
「へっ?」
少し煙の上がった銃口が向いているのは、星の輝く空の方角であった。放たれた銃弾は勿論、男を捉えてはおらず、どこに行ったのかもわからない。
「ハズすにしたって限度ってもんがあるでしょっ!?バカアヒルっ!」
「う、うっせぇなぁ!仕方ねぇーだろっ!」
責めるように怒鳴りあげる少女に、少し恥ずかしそうにしながらも、必死に言い返すアヒル。
「本物の銃なんて、撃ったことなっ…!」
「グオオォォォっ…!」
「ううっ…!」
「あっ…!」
言い訳を続けようとしていたアヒルのもとへ、銃弾が当たることもなかった男が、その速度を緩めることなく、まっすぐに向かってくる。すぐそこまで迫る男に、アヒルが表情を引きつり、後ろで座る少女が思わず身を乗り出した。
「グオオオォォォっ…!!」
「アヒルっ…!」
「クっ…!」
少女が必死にアヒルの名を呼ぶ中、アヒルが、すぐ目の前へと迫る男へ向け、一か八かと、もう一度、銃を構えた。
「あっ…!」
アヒルが大きく、口を開く。
「“当たれ”ぇぇぇぇっっ!!」
祈るようにそう叫び、アヒルが再び、引き金を引く。
―――パァァァンっ!
銃声とともに、赤銅色の銃口から、弾丸が放たれる。だが銃口が向いているのは、向かってくる男ではなく、またしても高い空の先。
「ああっ…!ダメ!またっ…!」
それを見ていた少女が、諦めるような言葉を発した、その瞬間であった。
「えっ…?」
空へと向かったはずの弾丸が、空中で有り得ない程に軌道を変え、空とはまったく逆の下方、地面に立つ男のもとへと向かっていく。
「弾丸が…動く…?」
その有り得ない光景を、大きく開いた瞳で見つめる少女。
「グっ…!」
来るはずのなかった弾丸が目の前に迫り、思わず焦ったような声を漏らす男。
「ググっ…!」
だがすでに避ける時間も術もなく、男はただ、迫り来る弾丸に、表情を歪めた。
―――…………っ!!
「うっ…!」
弾丸が男の体を貫いた瞬間、またしても強い白色の光が放たれ、アヒルは構えていた銃を下ろし、そっと目を細めた。
「ガアアアアアアアっ!!」
「……っ」
アヒルの細めた瞳に、今までとは違う、苦しげな叫び声をあげる男の姿が飛び込んでくる。
「な、何だっ?」
「ガアアアアっ!アアアっ!」
「影が…消えていく…」
男の体を貫いた弾丸から放たれた白い光が、男を包み込んでいた、黒い影を吸い出し、その光の中へと消し去っていく。
「ああっ…あ…」
「……っ!」
やがて黒い影も光も消え、力ない声を落とした男が、その場にゆっくりと倒れ込んだ。
「お、おい!大丈夫かっ!?」
焦った様子で、アヒルが倒れた男のもとへと駆け寄っていく。
「…………」
男のもとへと駆けていくアヒルの背中を見つめながら、茫然と座り込む少女。
「弾丸が動いたのは…」
―――“当たれ”ぇぇぇぇっ!!―――
「あの言葉が、発動したから…?」
誰に問いかけるわけでもない問いかけを、少女がそっと口にする。
「“あ”の言葉の発動…」
少女が鋭く、瞳を細める。
「彼が…“安の神”…」