Word.73 決戦ヘ 〈1〉
「想子、ちゃん…」
何かを覚悟したような、必死な表情で、大きく口を開いた状態のまま、言葉を止め、まったく動かなくなってしまった想子の名を、向かいに立ったツバメが、そっと呼ぶ。ツバメが止まった想子の、その頬に触れるが、想子の表情は動かず、そこから先の言葉も、想子の口から落ちることはなかった。そんな想子を見つめ、ツバメが強く、唇を噛み締める。
「ごめんね…」
力なく落とされる、ツバメの声。
「君の言葉を、守ってあげられなくて…」
悲しげなツバメの言葉が、想子に届くことはなかった。
韻本部。
「ウズラ!茜!」
「恵ちゃん」
「先生!」
慌てた様子で、アヒルやウズラたちの居る会議室へと乗り込んで来たのは、恵であった。額には、汗が滲んでいる。ウズラの横から、入って来た恵へと、身を乗り出すアヒル。
「先生!皆の、町の皆の言葉が…!」
「ああ、わかってる」
必死に訴えかけようとするアヒルの言葉を途中で遮り、恵が落ち着いた声で頷く。大股で部屋の中へと入って来た恵が、ウズラの言葉により、壁に映し出された言ノ葉町の様子を見て、鋭く目を細める。
「動いてきたな。遠久…いや」
一度、弟の名を口にして、恵がすぐに首を横に振る。
「“遠の神”永遠が」
「うん」
恵の言葉に、ウズラも真剣な表情を見せ、頷く。
「まず手始めに、言ノ葉町の人たちの言葉を止めたってところだろうね。俺たちを、焦らせるために」
「では、今後他の町の人間の言葉も?」
「うん…」
篭也が険しい表情で問いかけると、ウズラもさらに眉をひそめ、深く頷いた。
「だが、町中に奴等の姿は見当たらなかった。一体、どこから…」
「北東の町はずれを見て下さいぃ~」
「為介」
相変わらずの緊張感のない声と共に、部屋に雅を連れた為介がやって来る。
「北東って…?」
為介の言葉を受け、映し出されている言ノ葉の景色の中から、北東部の映し出されているものを探すアヒルたち。
「一番左上の映像だよぉ」
「左上…あっ!」
為介に誘導され、左上の映像を見たアヒルが、大きく目を見開く。そこに映し出されていたのは、田園地帯の広がる、辺鄙な町はずれには、不釣り合いの巨大な白城。そして、その屋上で輝かんばかりの光を纏う、巨大な金色の獣であった。その大きな両翼を、空に広々と翻している。
「あれは、礼獣!?」
「“礼獣”という名かは、わからないけどねぇ。でも、浮世現が生み出した生物ってみて、間違いないだろうねぇ」
「浮世現…」
一度戦った、忌を生み出した根源である男の姿を思い出し、保が珍しく、その表情を歪める。
「あれが、町中に“无”の文字の力を、撒き散らしたのか」
「ええぇ。そして、この町の人間の言葉が止まった」
恵の言葉に頷きながら、映像の中の金獣を見つめ、為介が目を細める。
「あの溢れんばかりの光を見る限り、力の充填はバッチリってところでしょう。いつ、次の町の言葉が止められてもおかしくない」
「け、けど」
為介の説明を聞いていた七架が、思わず声を発する。
「いくら何でも、早くないですか?礼獣の時は、堕神からの力を集めるのに、凄く時間かかってたのに」
「集める必要がないからだよ」
「え?」
為介に代わって答えるウズラに、七架が戸惑うように首を傾げる。
「たった一人の力で、すぐに充填が終えられるほどに、強いんだ。永遠の力は」
「そんな…」
「堕神五人の力よりも、さらに強力ということか…」
伝えられる衝撃的な事実に、言葉を失ってしまう七架。冷静に分析をしながらも、篭也も険しい表情を見せている。同じようにウズラの言葉を聞き、七架の横でアヒルが厳しい表情で俯く。
「とにかく時間がない。茜、他の音士たちへの連絡は?」
「今、行っているところです」
「そうか。じゃあ、すぐに話し合いを行う。会議室の準備をしてくれ」
「わかりました」
恵の指示に頷くと、茜は傍仕えの従者を連れ、足早に部屋を後にした。
「ふぅ」
茜が出ていき、閉じた扉を見た後、映し出されている町の映像へと視線を移し、恵は険しい表情を見せ、深々と肩を落とす。
「言葉が止まるのって…」
「ん?」
茜が出ていき、静まり返った部屋に、囁の小さな声が響くと、恵はすぐに囁の方を振り向いた。
「言葉が止まるのって、こんな絶望的な光景なのね…」
囁は壁に映し出された言ノ葉町の映像を、まっすぐに見つめながら、そう言葉を落とした。映し出されている、皆のよく知る町は、人々がすべて動きを止め、一切の物音もせず、不気味なほどに静まり返っていた。行き交う言葉がないだけで、そこにある生気まで、失われてしまったようである。
「話す声も笑い声も、一切しない」
静かな町を見つめ、囁がそっと目を細める。
「これが、“世界の終わり”というものなのかしら…」
『……っ』
囁の言葉を受け、篭也たちは、その絶望的な光景から思わず目を逸らし、深く俯いてしまう。
「落ち込んでる場合か?」
俯いた皆へ、発破をかけるように、強めの口調で言葉を投げかける恵。
「こっからが勝負だろうが。スタート地点で、下向いててどうする?」
恵がさらに言葉を投げかけるが、俯いた篭也たちは、多少表情を動かすものの、俯けたその顔を上げようとはしなかった。そんな皆の様子を見て、恵が少し困ったように肩を落とす。
「俺は」
その時、恵とは別の、アヒルの声が部屋へと響いた。
「俺は、こんな世界は嫌だ」
映し出された町の光景をまっすぐに見つめたアヒルが、ゆっくりと噛み締めるように言葉を放つ。
「こんな、“おはよう”も“ありがとう”も、“いってらっしゃい”も“ただいま”もない世界は、嫌だ」
「神…」
アヒルの声に顔を上げた仲間たちが、アヒルを見つめ、そっと目を細める。
「そうだね」
アヒルの背後からアヒルに歩み寄り、ポンとアヒルの肩に手を置いたウズラが、大きく頷き、その表情に、柔らかな笑みを浮かべる。
「俺も、“おかえり”のない世界は困るなぁ」
「親父…」
微笑みかけるウズラの、その優しい笑顔を見上げ、アヒルもそっと、笑みを零す。
「私も、“遅刻だ”のない世界は困る」
「まぁ言われたら、俺が困っけどな」
穏やかな笑みを浮かべ、言い放つ恵に対して、その笑みを困ったように変えるアヒル。
「ボクも“雅ク~ン”の言葉がないと、色々と雑用押し付けらんなくって困るなぁ~」
「“最低な人間ですね”の言葉がないと困りますよ、本当」
ふざけた口調で言う為介に、眼鏡を押し上げながら、雅が冷たく言い放つ。一人ずつ、笑みを零すことで、今までの張り詰めていた空気が一気に和らぎ、部屋の雰囲気が一変する。その空気を察してか、暗い表情を見せていた安附の四人も、そっと笑みを零した。
「そうね…“さぁ、召し上がれ”の言葉がないと、私がアヒるんに愛の手料理を食べてもらえないし…」
「俺も“すみません”がないと、生きていけないです!はぁ!こんな俺が、しゃしゃり出ちゃって、すみませぇ~ん!」
「私もまた、想子ちゃんに“おはよう”って言いたい!お父さんとお母さんに“ただいま”って言いたい!」
口々に言葉を発し、笑顔を取り戻していく囁、保、七架。三人を見て、安心したように微笑んだアヒルが、もう一人、まだ笑顔を見せていない自身の神附きへと、視線を移す。
「篭也」
アヒルからの呼びかけを受け、俯いていた篭也が、ゆっくりと顔を上げる。
「僕が“神”と呼ばねば、誰もあなたが神だと気付かないだろう?」
「そりゃ、そうだ」
そっと微笑み、問いかける篭也に、アヒルが大きく笑みを零す。
「皆で戦おう。そして、取り戻そう」
両拳を力強く握り締めたアヒルが、笑顔となった皆と一人ひとり、見回していく。
「言葉の明日を!」
『ああ!』
アヒルの言葉に、皆が頷き、大きく返事をした。
言ノ葉町、北東部。永遠たち居城。
「あなたがたには、それぞれ、五十音“と”と“の”の文字を“齎し”ました」
“終獣”が居なくなり、一気に殺風景になった一階の広間の中央に立ち、言葉を放つ桃雪。その桃雪の前には、片膝を床へと付け、深々と頭を下げている女性二人の姿があった。頭を下げているため、表情は見えないが、二人はそれぞれ、赤いショートカットと、青い長髪で、服も髪色に似た色を着ている。
「この文字の力を使い、我が神の為に、存分に戦って下さい。いいですね?」
少し首を傾けた桃雪が、二人へと冷たい笑みを向ける。
「十稀、埜亜」
『はい、桃雪様』
名を呼ばれ、二人がやっと顔を上げる。十稀と呼ばれた赤毛の女性も、埜亜と呼ばれた青髪の女性もどちらも、まだその顔にあどけなさを残した、十六、七歳ほどの少女であった。二人は曇りのない、まっすぐな眼差しを、桃雪へと向ける。
「すべては我が神」
「永遠様の為に」
十稀と埜亜の言葉を聞き、桃雪が満足げに頷く。
「期待していますよ」
『はい』
そう言葉を投げかけて、桃雪が二人の横を通り過ぎ、部屋の出口へと歩いていく。体の向きを変え、桃雪の背を見送りながら、二人はまた深々と、頭を下げた。十稀と埜亜に見送られ、桃雪がゆっくりと広間を出る。すると、出口を出てすぐのところに、眉をひそめた現が立っていた。
「何か用ですか?」
「あの者たちは?」
笑顔のまま問う桃雪に、現が細めた鋭い視線を送る。
「ああ。彼女たちは、韻で育てていた、五十音士候補生ですよ」
軽く腕を組んだ桃雪が、躊躇うこともなく、すらすらと答える。
「候補生の中でも、特に優秀だったんでね。僕が韻を出る前に、引き抜いて来たんです」
桃雪の笑みが、得意げなものへと変わる。
「空席の文字があれば、もっと人数を増やすことも出来たんですがねぇ。生憎、今は空席が二文字しかなくて」
「随分と根回しのいいことじゃのぉ」
感心したように言う現であったが、その表情は訝しげで、桃雪に感心しているようには見えなかった。
「五十音士共の力を恐れてでもおるのか?何よりも自身の神を崇める、お前さんらしくない」
「まさか」
その現の言葉を、桃雪が鼻で笑い、一蹴する。
「五十音士の力を恐れる気持ちなど、微塵もありませんよ。我が神の前では、彼等の力など無に等しい」
「ならば」
「ですがね」
すぐさま言葉を返そうとした現の声を遮り、桃雪が付け加えるように言う。
「僕は、我が神の御手を煩わせたくはないのですよ、現」
桃雪の瞳が、さらに鋭く細められる。
「こんなくだらない戦いごときの為にね」
世界中の人々の命すらかかっている戦いを、くだらないと言い切る桃雪を見つめ、現がかすかに、表情を曇らせる。
「今、我が神は再び、眠りにつかれました」
桃雪が、永遠の眠る部屋を見るように、そっと視線を上げる。
「ですが、五十音士にわらわらと来られては、その貴重な眠りが妨げられてしまう」
上方へと向けられていた桃雪の視線が、また、現へと戻って来る。
「十稀と埜亜は用意しましたがぁ、もう少し、駒が欲しいところなんですよねぇ」
含んだ笑みを浮かべ、まっすぐに現を見つめる桃雪。そんな桃雪の視線を受け、何を言わんとしているのか、すべてを理解した様子で、現が困ったように肩を落とす。
「まったく、食えん男じゃ」
現がどこか呆れたように、言葉を吐き捨てる。
「お前さんにとっては、わしも駒の一つというわけか」
「ええ。そして僕も、駒の一つ」
頷いた桃雪が、穏やかな笑みを浮かべ、遠くを見るような瞳を見せる。
「我が神の望みを叶えるため、死に物狂いで動く駒」
「…………」
そんな桃雪を見つめ、現が何やら考え込むようにそっと俯き、そしてまた、すぐに顔を上げる。
「良かろう。お前さんの望み通り、数えきれんほどの駒を生み出してやる」
現が口元を歪め、何やら楽しげに笑う。
「わしの、とっておきの“四字熟語”でなぁ」
現の言葉を受け、桃雪もまた、楽しげに笑った。




