Word.72 発動 〈1〉
すべての五十音が消えてしまうことを覚悟し、それでもすべての言葉を終わらせぬため、“遠の神”永遠を倒すことを決めたアヒルに、恵が話したのは、恵の弟、遠久であった永遠の、哀しい過去であった。
「それが、先生の“永遠”の真実…?」
「ああ」
聞き返したアヒルに、恵がゆっくりと頷く。
「そっか」
アヒルは特に驚いた様子もなく、落ち着いた表情で顔の向きを変え、国語資料室から、外の景色を眺めた。グランドには、楽しげに下校していく生徒たちの姿が見える。かつて遠久も、今、アヒルが着ているものと同じ制服を纏い、この部屋から同じように景色を眺めて、自身の永遠を憂いたのかと思うと、哀しみにも似た、不思議な気持ちを抱いた。
「旧世代の“安の神”って、俺の伯父さんだったんだな」
「ああ、明か」
アヒルの言葉を受け、恵が懐かしむように、穏やかに微笑む。
「いい奴だったよ。愛想がないから、八百屋は多少、寂れてたがな」
かつて、紺色のエプロンを纏い、白い鉢巻を巻いて、『あさひな』の店の前で、大きく声をあげていた明の姿を思い出し、恵がそっと目を細める。
「ウズラも茜もよく知っているが、不思議なもんだな。お前と初めて会った時、二人よりも先に、明のことを思い出した」
「遅刻ばっかするから?」
「かも知れん」
納得するように頷き、恵がさらに笑みを深くする。
「その明も、死んでしまった」
恵の表情が、突然、暗くなる。
「すべては、私の不用意な言葉が招いたことだ」
恵が、自身を責めるように、厳しく言い放つ。
「あの日、私が、遠久と死別する勇気を持てていれば、こんなことにはならなかった」
恵の言葉を背中に受け、景色を眺めながら、アヒルが目を細める。
「初めから、家族と死別する勇気を持ててる奴なんて、いねぇよ…」
「それでも受け入れるのが、人としての務めだ」
励ますように言ったアヒルの言葉も、恵はすぐに払いのける。
「私は弱かった。だから、言葉に逃げた」
またしても続く、自身を責めるような恵の言葉。
「弱かった私の言葉のせいで、何の関係もないお前たちまで、巻き込んでしまった…」
「……先生は、後悔してる?」
アヒルは、恵の方を振り返らぬまま、恵に問いかけを向ける。
「“永遠”っていう、自分の言葉…」
「……っ」
アヒルの問いかけを受け、そっと目を細める恵。
「ああ…」
恵が、小さく頷く。後悔しないために、自身も“永遠”の道を選んだが、後悔は消え去るどころか、終わらない時の中で、ただ深まる一方であった。
「後悔、している」
今まで、茜にもウズラにも明かさなかった胸のうちを、恵が噛み締めるように、言葉にする。
「俺も、死ぬほど後悔したよ」
窓枠に肘を掛け、アヒルが遥か高い、空を見上げる。
「カー兄に、“居なくなれ”って言ったこと」
「朝比奈…」
アヒルの言葉に、恵が表情を曇らせる。
「でも、あの後悔があったから、その分、俺は、“言葉”を大切に思えるようになった気がするんだ」
口元を緩めたアヒルが、穏やかに笑みを零す。
「あの日の後悔がなかったら、俺は、言葉で、簡単に人を傷つけるような奴になってたかも知れない」
淡々としたアヒルの声が、資料室に響く。
「人の痛みにも気付くことが出来ずに、ただ何の意味もなく、言葉を発し続けてたかも知れない」
空を見上げていたアヒルが、そっと視線を下ろし、窓の外から、再び部屋の中へと視線を移す。
「そんな奴だったら、“安の神”にだって、なれてなかったかも知れねぇだろ?」
どこか試すような笑みを浮かべ、首を傾けて、アヒルが恵へと問いかける。
「確かに苦しかったし、辛かったし、色んなことがあったけど…」
カモメの死を背負った過去を思い出し、アヒルが少し俯いた後、またゆっくりと、その顔を上げる。
「今、“安の神”として、言葉を守るために戦えることを、俺は誇りに思ってる」
大きく胸を張り、晴れやかな笑顔で、アヒルが言い放つ。
「だから先生、“関係ない”なんて、言わないでくれよ」
アヒルの笑みが、少し困ったようになる。
「俺たちの“言葉”だ。皆の“言葉”だ。関係ない人間なんて、この世界に、たったの一人も居ない」
「朝比奈…」
「それに、俺は」
アヒルがそっと、口を開く。
「俺は、先生と同じ“時”を生きたい」
「……!」
アヒルのその言葉に、恵が驚いた様子で、大きく目を見開く。
―――俺、先生と同じ“時”を生きてみたいな…―――
それはかつて、カモメが恵へと放った言葉。
「俺たちがいつか、ここを卒業していくように、恵先生にもこの場所で、卒業アルバムの中で、一つひとつ、年を重ねていってもらいたい」
誠実な笑みを浮かべ、アヒルがはっきりとした口調で、さらに言葉を続ける。
「その為にも、俺は戦いたい」
そのまっすぐな瞳が、何にも遮られることなく、恵へと向けられる。
「俺、頑張るからさ、だから、恵先生も一緒に戦ってくれ!な?」
アヒルがさらに、笑みを大きくする。その笑みを向けられた恵は、堪えられないものを押さえるように、右手で口元を覆い、アヒルに顔が見えないように、深く俯いた。
「……敵わないな」
「へ?」
「いや」
恵の言葉が聞き取れず、首を傾げたアヒルへ、恵がすぐに声を返し、口元を覆っていた手を下ろして、ゆっくりと顔を上げる。
「あまりにもカモメと同じことを言うから、少し昔を思い出しただけだ」
「カー兄が、同じことを?」
その言葉に、アヒルが目を丸くする。
「じゃあカー兄も、先生の“永遠”を…」
「ああ、知っていた」
恵が認めるように、そっと頷く。
「“永遠”の暗闇の中で苦しんでいた私にとって、たった一つの光のようなものだった。カモメは」
「……っ」
懐かしむように目を細め、悲しげな笑みを浮かべる恵を見て、アヒルが少し眉をひそめる。
「恋人、だったのか…?」
アヒルが躊躇いがちに、一つずつ、言葉を綴る。
「え?」
「いや、その」
少し驚いた様子で振り向いた恵から、途端に目を離し、頭を掻くアヒル。
「奈々瀬がさ、恵先生の部屋行った時に、カー兄の写真飾ってあったって言ってたから、もしかして、と思ってさ」
頭を掻きながら、アヒルがどこかぎこちなく、言葉を続ける。担任の教師と、大好きだった兄が恋人同士であったかも知れないと思えば、ぎこちなくなるのも無理はないだろう。そんなアヒルを見て、恵は少し困ったように微笑んだ。
「安心しろ。そんな関係じゃない」
「へ?」
恵の答えに、アヒルが再び、恵の方を振り向く。
「大好きだった兄の恋人が、こんな乱暴教師じゃ、気が気じゃないもんなぁ」
「そういうつもりで言ったんじゃ…」
また恵から視線を逸らし、俯いて、否定の言葉を発するアヒルであったが、その言葉は途中で途切れ、恵へと届きはしなかった。
「ただ、救われていたんだ」
「え…?」
聞こえてくる言葉に、アヒルがまた、顔を上げる。
「あいつの優しさに、笑顔に、言葉に…」
―――先生…―――
今も思い出の中で、優しく微笑みかける青年。
「その一つひとつに、私はただ、救われていた…」
天井を見上げた恵が、天井よりもさらに遠くを見つめるような瞳で、そっと微笑む。
「あいつと居る時は、何でかな」
自分でも戸惑うように、恵が呟く。
「この“永遠”の時の中じゃなくて、“刹那”を生きてるような、そんな気がしたんだ」
「恵先生…」
恵の泣き出しそうな声を聞きながら、アヒルは何も言えずに、ただ、恵を見つめ続けた。
「さぁ、昔話は終わりだ」
恵が話を、自分自身の気持ちを切り替えるように、ポンと一つ手を叩き、いつものように、はっきりとした口調で、明るい笑みを浮かべ、アヒルの方を見る。
「ウズラたちにも、話しに行くんだろう?もう期限も間近だ。とっとと行けよ」
「あ、そうだった」
資料室の掛け時計を確認し、アヒルが思い出した様子で頷く。
「あれ、でも今日、居残り掃除は」
「免除してやる。今日だけ、特別な」
「サンキュ…ってか、別に今日、遅刻してねぇんだから、免除は当然だろうが!」
恵の言葉に一度は礼を言いかけたアヒルであったが、今日、掃除をさせられる必要性がなかったことを思い出し、恵を力強く指差して、反論する。
「ったく!じゃあ俺行くから、また後でっ…」
「朝比奈」
「へ?」
歩を進め、部屋を出て行こうとしたアヒルを、扉を開いたところで、恵が呼び止める。アヒルは部屋から出かかった体を戻し、恵の方を振り返った。
「ありがとう」
「……っ」
笑顔の恵から向けられる言葉に、アヒルもそっと笑みを零す。
「ああ」
恵の言葉をしっかりと受け止めて、アヒルは国語資料室を後にした。大きな音を立てて扉が閉まり、部屋に一人残った恵が、静かに立ち尽くす。
「……ありがとう」
もう一度、噛み締めるように、恵はその言葉を繰り返した。
「…………」
国語資料室にある窓のすぐ下、部屋の外側の中庭に座り込んでいるスズメは、深く考え込むような、神妙な表情を見せ、しゃがみ込んだまま、青い空を見上げていた。
「また、盗み聞き?」
「ん?」
聞こえてくる、よく聞き覚えのあるその声に、スズメが空から視線を下ろし、振り向く。
「ツバメ」
スズメが振り向くと、そこにはツバメが立っていた。
「何してんだよ?オカルト同好会中だろ?」
「今日、定休日だから…」
「あっそ。つーか、部活って定休日って言い方、すんのか?」
少し呆れたような表情を見せながら、スズメがツバメへと言葉を掛ける。
「アヒルくんと恵先生の会話、聞いてたの?」
ツバメが窓の外から部屋の中を見て、資料室で話しているアヒルと恵の姿を捉える。
「ああ。そしたら恵ちゃんがいきなり、兄貴への想いを語り出して、マジ恋心が抉れた」
スズメが両手で心臓を押さえ、その表情を大きく歪める。
「やっぱ失恋て、甘酸っぱいよなぁ。ああぁ~、あの日のヒトミの気持ちが、痛いほどわかるぜ」
「はぁ…」
しみじみと語るスズメを見て、ツバメが少し困ったように肩を落とす。
「スズメのそれは、恋心とかじゃなくて、ただのカモメ兄さんへの対抗心じゃないの…?」
「……っ」
ツバメの鋭い問いかけに、スズメが眉をひそめる。
「兄さんが好きになったものを、追いかけるように好きになる…スズメは、何でもそうだよね」
少し低いツバメの声が、スズメへと落とされる。
「恋盲腸も、ナスビも、恵先生も…」
ツバメの言葉を聞きながら、スズメが、その言葉を否定しようとはせず、鋭く目を細める。
「仕方ねぇだろ」
短く言葉を放って、その場で立ち上がるスズメ。
「俺は男の子なの。男なら普通、兄ちゃんに対抗心の一つや二つ、燃やすだろうが」
「恵先生は、恋盲腸やナスビとは違う。人なんだよ…?」
どこか子供っぽく主張するスズメに対し、ツバメが責めるように、言葉を向ける。
「その、一つや二つの対抗心が、あの人の心を抉ることだってあるんだ…」
「…………」
ツバメの言葉を聞き、スズメが頬を膨らますような子供らしい顔から、真剣な、鋭い表情へと変わる。
「はぁ~あ、大人だよなぁ。ツバメもアヒルも」
大きく両手を伸ばしながら、スズメが少し気の抜けた声を漏らす。伸ばしていた手を下ろし、スズメはまた、上空に広がる空を見つめた。
「結局、一番ガキなのは、俺なのかもなぁ」
青い空を見つめ、スズメが少し、自嘲するような笑みを浮かべる。
「さぁーて、帰りに恋雑誌キュンクルの最新号でも、立ち読みしてくっかなぁ」
上を向いたままツバメに背を向け、その場を去ろうと歩を進めていくスズメ。
「スズメ…!」
「大丈夫」
呼び止めたツバメに、スズメはすぐさま、声を返した。
「大丈夫だ」
振り返ったスズメが、ツバメに、短い言葉と共に、少し悲しげな笑みを向ける。そしてまた、すぐに背を向け、スズメはその場を去っていった。
「スズメ…」
中庭に一人、残ったツバメが、どこか不安げに、片割れの名を呟く。
「あれ?ツバメさん?」
「え…?」
背後から名を呼ばれ、ツバメが戸惑うように振り返る。
「きゃあ!やっぱりツバメさんだぁ!超偶然ですねぇ~もしかして、運命!?」
「想子ちゃん…」
勢いよくツバメの前へとやって来て、黄色い声をあげたのは、アヒルの幼馴染みで、七架の親友でもある想子であった。部活の途中であろうか、剣道の胴着を身に纏っている。
「ツバメさん、どうしたんですかぁ?こんなところに一人で」
「あ、いや…」
不思議そうに問いかける想子に、ツバメが誤魔化すように、首を横に振る。
「想子ちゃんは、部活…?」
「はい!今日は短縮練習の日なんで、もう終わったんですけど」
「じゃあ、久し振りに一緒に帰ろうか…?僕も今日は、部活もないし」
「え!?」
ツバメのさりげない誘いに、想子は、雷撃でも走ったかのように、大きく目を見開く。
「ほ、ほほほほほ本当ですか!?」
「うん。下駄箱で待ってるよ…」
微笑むツバメに、想子はさらに驚きの表情を見せた後、必死に堪えるように体を震わせて、それでも溢れ出てしまったかのように、大きな笑みを浮かべた。
「マッハで着替えてきます!」
「別にゆっくりで大丈夫だよ…」
猛スピードでその場を飛び出していく想子を、ツバメが軽く手を振り、見送る。
「ふぅ…」
嵐のように想子が去り、また一人となったツバメが、深く肩を落とす。
「……っ」
視線を落としたツバメは、鋭く、その瞳を細めた。




