Word.71 明日ナキ少年 〈5〉
「芽衣子…!」
芽衣子を連れ、遠久のもとから、韻本部へと逃げ帰って来た為介は、芽衣子を韻の治療室へと運んだ。そこへ、為介からの連絡を聞きつけ、恵がやって来る。
「芽衣子!」
「恵、さま…?」
芽衣子の眠る寝台のすぐ横へと、必死に駆け寄る恵。自身の名を呼ぶその声に、深く瞳を閉じていた芽衣子が、薄く瞳を開き、か細い声を漏らす。
「治療は?」
恵の後から、治療室へと現れた明が、部屋の入口付近に立っている為介へと、小声で問いかける。その問いかけに、為介はそっと、首を横に振った。治療室に、治療班の従者は見当たらない。すでに治療は終わり、手の施しようがないことは、確認されていた。
「そうか…」
明が視線を落とし、険しい表情を見せる。
「恵、さま…」
「芽衣子…!」
その薄い瞳で恵の姿を捉え、どこか嬉しそうに微笑む芽衣子の右手を、恵が両手で強く握り締める。
「良かった…間に、合って…」
「え…?」
「私の、力…」
恵が握り締めた芽衣子の右手の中には、芽衣子の緑色の言玉が握り締められていた。芽衣子はそのまま、言玉を右手の中へと吸収させる。すると、芽衣子の右手が、緑色に輝き始めた。
「私の、言葉…消えて、しまう前に…恵さまに…」
光り輝く右手で、芽衣子がしっかりと、恵の手を握り締める。恵もそれに応え、固く握り締め合うと、やがて芽衣子の右手の光が、恵の右手へと移った。光る自身の手を見て、恵がそっと目を細める。
「芽衣子…」
「恵、さま…我が、神」
とても大切そうに、丁寧に言葉を発した芽衣子が、恵を見上げ、穏やかに微笑む。
「どうか…お幸せ、に…」
願うような言葉を最期に、芽衣子の瞳が閉じられ、恵の両手に握り締められていた右手が、ゆっくりと寝台に落ちていく。その光景に、大きく目を見開く恵。
「め、芽衣子…?」
いつもすぐに返事をしていた芽衣子が、今はもう、恵の呼びかけに答えない。
「芽衣子ぉぉぉ…!!」
『……っ』
恵の悲痛な声が響くと、為介と明も、遣り切れない表情できつく唇を噛み締め、その場で深く俯いた。
「ク…うぅ…!」
芽衣子の眠る寝台に顔を埋め、言葉にならない声を漏らす恵。
「恵…」
明の後ろで、眠るカモメを抱いたまま、恵を見つめ、茜が悲しげに眉をひそめる。
「明」
「ウズラ」
皆に遅れるようにして、ウズラが治療室へとやって来ると、明がウズラの方を振り返った。
「どうだった?上層の連中は何て…」
「韻は、動かない」
「何だと…?」
ウズラのその言葉に、明が大きく表情をしかめる。明の傍で聞いていた為介と茜も、同時に表情を曇らせた。
「どういうことだ!?為介からの報告は、いってるはずだろ!?」
治療室であるというのに、気を遣うことなく、明が思いきり声を荒げる。
「今まで発見された、死因不明の謎の死体も、恐らくは遠久の…!」
「うん、わかってる。全部わかってて、それでも韻は動かないんだよ」
明の言葉を遮り、ウズラが鋭い口調で言い放つ。韻の意志を伝えているウズラであったが、ウズラ自身、韻に怒りを感じているような、そんな様子であった。
「どういう、こと?なんで、韻は…」
「遠久くんは、五十音、最後の音“を”の力を持つ者。もし、その“を”の文字を消せば、五十音の他の文字もすべて消え、この世界から五十音士はいなくなってしまう」
戸惑った様子で問いかけた茜に、ウズラがすらすらと言葉を続ける。
「上層部は、五十音士を失い、韻の統制がなくなってしまうことを、恐れているんだよ…」
「そんなの…!」
「クソ!」
韻を批判しようとする茜の声は、明が拳を治療室の壁へと叩きつけた、その大きな音により、掻き消された。
「自分たちの権力が残れば、他の人間は、何人死んだって構わねぇっていうのか!?」
「兄さん…」
心からの怒りを見せる兄の姿を見て、茜がそっと、目を細める。
「でも、韻が動かないんじゃ、どうしたら…」
「消そう」
「え…?」
考え込むように下を向いた茜が、小さく聞こえてくるその声に気付き、ゆっくりと振り向く。
「恵…」
「“を”を、遠久の文字を、消そう…」
茜が振り向くと、そこには、芽衣子の眠る寝台の横から、ゆっくりと立ち上がった恵の姿があった。涙の滲む表情に、すでに悲しみはない。恵は決意したような、鋭い瞳を見せていた。
「“を”の文字を消せば、すべての文字が消え、遠久にかけた、私の“永遠”の言葉も消えて、あいつは死ぬはずだ」
「……いいのか?」
少しの間を置いて、明がどこか、確かめるように聞く。
「お前はそれで、いいのか…?」
「遠久を、あんな風にしてしまったのは私だ」
問いかける明をまっすぐに見つめ、恵がはっきりとした口調で、言葉を紡ぐ。
「だから、私が遠久を止める」
「……わかった」
恵の真剣な表情を見て、決まった覚悟を感じ取って、明は大きく頷いた。
「茜、お前はカモメ連れて、家帰ってろ」
「え?だけど…!」
「心配しなくても、死にやしねぇよ。俺もウズラもな」
不安げに身を乗り出す茜に、明が安心させるように、穏やかな笑みを向ける。そしてすぐに、その表情をまた、真剣なものへと変える。
「行くぞ。言ノ葉山へ」
明の言葉に、三人の神は、迷うことなく、大きく頷いた。
「神!」
「あ、充」
言ノ葉山へ行く準備のため、韻本部にある自室へと戻った為介を出迎えたのは、為介の神附き、充であった。充が居ると思っていなかった為介は、少し驚いた様子で、充の名を呼ぶ。
「どちらへいらしてたんですか?先に戻れと言ったきり、全然帰って来られないですし」
「ご、ごめん」
眉間に皺を寄せ、険しい表情を向ける充に、為介が短く謝罪の言葉を放つ。
「まぁ構いませんけど。それで、先程の報告書のことなんですけど」
「充」
報告書を取り出し、話をしようとした充の言葉を遮って、為介が充の名を呼ぶ。いつになく真剣な表情を見せている為介に気付き、充は戸惑うように首を傾げた。
「神?」
「充、あ、あのね…」
「“為の神”、井戸端為介!」
為介が充に話を切り出そうとしたその時、部屋の外から、鋭い声が届く。
「中に居るのか!?井戸端為介!」
「な、何だ?」
荒々しいその声に、戸惑うように振り返る充。
「韻への反逆行為の罪で、貴様を拘束する!抵抗せずに、大人しく我々に従え!」
「もう、手を打ってきたか…」
聞こえてくる声に、為介が険しい表情となって呟く。遠久を倒そうとするであろう為介たちの行動を察し、それを防ぐために、反逆行為などと言って、拘束しようとしているのだろう。
「時間がない。充、あの…!」
「反逆、行為…?」
「……っ」
真実を話そうとした為介の瞳に飛び込んで来たのは、為介へと冷たい、疑いの眼差しを向ける充であった。その瞳を見て、為介が思わず、言葉を止めてしまう。
「神、あなた、まさか…」
「…………」
“違う”と、否定すれば良かった。それからすべてを話せば、充は理解してくれただろう。だが、為介は、そう言うことが出来なかった。充は今、確かに為介を疑っている。為介が何も言っていないうちに、外から聞こえてくる声を信じ、為介に疑いの瞳を向けている。何も言わずとも、無条件で為介を信じてくれると、心のどこかでそう思っていた為介は、何も言うことが出来なかった。
「……ごめん」
小さく謝罪の言葉を零しながら、為介が歩を進め、部屋の奥にある窓へと向かう。
「今まで、ありがとう。充」
俯いたまま、そっと礼の言葉を落とすと、為介はそのまま窓を叩き割り、部屋の外へと飛び出していった。
「井戸端為介!」
為介が出て行ったと同時に、部屋の扉が開かれ、韻の従者らしき物々しい男たちが、続々と部屋の中へと入って来る。
「窓から逃げたか。追え、追うんだ!」
『は!』
先頭に立った男の指示に頷き、従者たちが為介を追って、次々と窓の外へと飛び出していく。その様子を見つめ、その場に立ち尽くした充は、そっと目を細める。
「神…」
それが、充の、為介に対する最後の呼びかけとなった。
「ハァ!ハァ!」
「遅っせぇぞ、クソガキ!」
「ご、ごめん」
為介が韻本部の外へと出ると、すでに明たち神と、正一や宗吉、熊子ら、その神附きの面々が集まっていた。怒鳴りあげる明に、為介が息を切らしながら、小さく謝る。
「充はどうした?」
「……っ」
明からの問いかけに、表情を曇らせる為介。
「充は…来ない」
俯いたまま答える為介に、明がすべてを察したように、そっと眉をひそめる。
「……そうか」
為介の答えに頷くと、明は為介を励ますように、軽く二度、為介の頭を叩いた。そしてすぐに皆の方を向き、真剣な表情を作る。
「チンタラしてると、追手が来る!とっとと行くぞ!」
集まった面々は、明の指示に、厳しい表情となって頷いた。
――――何が、間違っていたというのだろう。あの日の僕らは確かに、笑顔で共に在れたのに。
「遠久!」
「……っ」
荒々しく名を呼ぶ明や恵を見て、遠久はただ、楽しげに笑い、右手に持った言玉を、迷うことなく、かつての仲間たちへと向ける。
「“終えろ”…」
言葉と共に、放たれる終末の光。
「神!ううぅぅ…!」
「宗吉…!」
遠久が放った光を、ウズラを庇った宗吉が受け、力なくその場に倒れ込んでいく。倒れた宗吉へと、熊子と塗壁が、必死に駆け寄っていく。
「宗氏…!」
「宗吉さん…!」
「……っ」
二人の呼びかけに応えることのない宗吉の様子を見て、ウズラが悔しげに唇を噛み締める。
「まともに戦ってたんじゃ、全員やられちまう…!」
「五母の力で封印を」
「え?」
険しい表情を見せる明に、ウズラが鋭く言葉を掛ける。
「ウズラ?」
「五母の力で、遠久の体を、文字ごと封印するんだ。もう、その方法しかない」
明をまっすぐに見据え、ウズラがいつもの明るい笑顔など一切なく、厳しい表情で言い放つ。遠久の力の強力さは、神々には、少し相対しただけでも十分に理解出来た。まともに戦っていては、明日は守れない。ウズラのその言葉に、明や為介、恵も皆、鋭い表情となって、頷いた。
「第一音“あ”!」
「第二音“ゐ”」
「第三音“う”…」
「第四音“ゑ”…!」
四人の神が、自身の言玉を構え、それをまっすぐに、言ノ葉山頂上の岩の上へと立っている遠久へと向ける。赤、青、金、緑の光の柱が空へと突き上げられ、中央に立つ遠久を取り囲む。
『“四母封印”…!!』
「ううぅ…!」
周囲四方向から、一気に強い光を浴び、ずっと笑顔を見せていた遠久の表情が、大きく歪む。
「神…!」
「おおっと」
苦しむ遠久のもとへと駆け寄ろうとした桃雪の前に、明の神附きである正一が立ちはだかる。
「俺が相手だ。ここで大人しくしててもらうぜ、桃雪」
「ク…!」
不敵に笑う正一に、桃雪が大きく、その表情を崩す。
「グ…ううぅぅ…!うああああああ!!」
『……!』
封印を進めていた四人が、苦しみながらも、必死にもがき、四つの光の柱にも負けない、巨大な白光の塊を生み出す遠久に、一斉に表情を曇らせる。
「あいつ…!今使える全部の力を結集して、この場で爆発を起こす気か…!」
「え…!?」
明の言葉に、為介が驚きの表情を見せる。
「例え封印が完成したとしても、俺たち全員が爆死したんじゃ、すぐに封印は解ける…考えたね」
「そんな…!」
冷静に言い放つウズラに、思わず声をあげる為介。ウズラは口調こそ冷静だが、その表情には焦りが浮かんでおり、額には汗が滲んでいた。
「遠久…」
光の中の弟を見つめ、恵が一層、険しい表情を見せる。
「どうしたら…」
「……一つ、方法がある」
「え?」
考えるように俯いたウズラが、明の言葉に、また顔を上げる。
「封印はほとんど完成してる。四人のうちの誰か一人が残り、封印を完成させて、他の三人が逃げ延びれば、封印は解けない」
「一人が犠牲になるっていうのかい?」
明の言葉に、どこか批判するように問うウズラ。
「そんな方法は…」
「それでいい。私が残る」
「恵!」
認めまいとウズラが言葉を発する中、恵が名乗りをあげるように、皆の前へと出る。
「あいつをこんな風にしたのは、私だ。私が残るのが、丁度いい」
「だったら…だったら、ボクが残る!」
恵の横から身を乗り出し、名乗りをあげたのは為介であった。
「為介」
「ボクが…ボクが馬鹿だったせいで、遠久サンは怪我して、あんなことに…だから、残るならボクが…!」
「ボケ」
「痛って!」
必死に主張を続ける為介の頭部に、明の容赦ない頭突きが炸裂した。相当に痛かったのか、為介が両手で頭を抱え込み、その場に蹲る。少しの間、痛がって、まだ少し涙の滲んでいる瞳で、為介がようやく顔を上げた。
「な、何す…!」
「死ぬことでしか、責任取れねぇような神になってんじゃねぇよ、クソガキ」
「……っ」
怒鳴りあげようとした為介の声が、明のその言葉を聞き、止まる。
「お前もだ、恵」
「…………」
穏やかな笑みを浮かべ、恵の方を振り返る明に、恵は一瞬だけ目を合わせると、何も言葉を発せぬまま、すぐに深々と俯いた。
「ぐああああああ…!!」
「……っ」
さらに叫び声を大きくし、力を膨らませる遠久を振り返って、明が鋭く、目を細める。
「明…君、まさか…」
「ウズラ」
険しい表情で言葉を向けたウズラの声を遮って、明がそっと、ウズラの名を呼ぶ。
「茜とカモメのこと、頼むな。後、八百屋も…」
まっすぐにウズラを見つめ、明が穏やかに笑う。
「確かにちょっと寂れてっけど、親父たちから預かった、大事な店なんだ。だから、頼む…」
「明…」
願うような明の言葉を聞き、ウズラが目を細める。他に手段もなく、止めることに意味もない。何より明は強く覚悟を決めており、何を言ったところで揺るがないことは、ウズラが一番、理解していた。理解は出来ていても、割りきれない思いを噛み潰すように、ウズラが一度、深く瞳を閉じる。
「わかった」
「……ありがとう」
再び瞳を開き、しっかりと頷いたウズラを見て、明が笑顔を見せ、礼を零す。明の笑顔を見ると、ウズラはすぐに恵や為介、倒れた宗吉に付き添っている熊子たちの方を見て、自身の言玉を突き出した。
「“動かせ”!」
『え…!?』
ウズラの言玉から飛び出した金色の不死鳥が、まだ納得しきれていない様子で、困惑する恵たちを、次々と乗せていく。
「明…!」
「明サン!」
不死鳥の背の上から身を乗り出し、必死に明の名を呼ぶ恵と為介を見上げ、明がそっと笑みを零す。
「正一、お前も…」
「俺はここに残るぜ」
「え…?」
明が振り向き、桃雪との交戦を続けている正一に、声をかけようとしたが、明が言葉を言い切る前に、正一は断りの返事を放った。正一の言葉を聞き、明が戸惑うように首を傾げる。
「十何年も、あんたに附いてきた。もう、遅刻しまくる神以外には、附けそうもねぇ。だから、俺も残る」
「正一…」
そう言って微笑む正一を見て、明がそっと目を細める。
「ありがとな…」
明が礼の言葉を囁くと、正一は満足げに笑みを浮かべ、また桃雪との戦いを始めた。
「行け!ウズラ!」
高々と顔を上げた明が、上空にいる巨鳥へ向かって、大きく叫ぶ。
「ズラスケ!」
「クワアアァァ!」
ウズラの呼びかけに甲高い鳴き声で応えると、金色の巨鳥は、その美しいばかりの両翼を広げ、勢いよくその場から飛び立っていく。
「明サン…!」
必死に身を乗り出し、明の名を叫ぶ為介。ウズラや恵も、ただ険しい表情で、まっすぐに明を見下ろす。遠ざかっていく仲間たちを見上げ、明はそっと微笑んだ。
「後の時代を、言葉の明日を、頼んだぜ…」
決して届かない声を小さく落とすと、明は上空から、前方へと視線を移した。
「ああああああ…!!」
「……っ」
皆の五母の力の中で、必死にもがき、狂ったような叫び声をあげる遠久を見つめ、明が鋭く目を細める。
「神…!」
「明…」
交戦中だった正一と桃雪が、思わずその手を止め、それぞれの神の行く末を見つめる。
「さぁ、遠久」
遠久の名を呼び、言玉を持った右手を突き出す明。
「これで、終わりだ…!!」
明の言葉を合図とした封印の完成と同時に、遠久の生み出した、巨大な白光が勢いよく爆発し、言ノ葉山を包み込んだ。
――――バァァァァン!
「あ…!」
飛び立った巨鳥の背の上から、言ノ葉山頂上での大きな爆発を確認し、為介が背の上から体が落ちてしまいそうなほどに身を乗り出して、大きく目を見開く。
「あ…明さぁぁぁん…!!」
「……っ」
為介の叫び声を聞きながら、瞳を閉じ、強く唇を噛み締め、深々と俯くウズラ。
「…………」
空へと噴き上げる爆風を見つめる恵の瞳から、一筋の涙が、零れ落ちる。
その日、五十音の世界から、すべての“神”が消えた。




