Word.71 明日ナキ少年 〈2〉
――――三年後。
言ノ葉町、言ノ葉高校。
『目白先生、さようなら!』
「ああ、気を付けてな」
試験に合格し、晴れて教師となった春から、三年の時が流れ、恵はすっかり、教師として慣れてきた日々を送っていた。国語資料室の窓際の椅子に座り、本を読んでいた恵が、窓の向こうから手を振る女子生徒に応え、軽く手をあげる。女子生徒たちは楽しそうに、微笑み合いながら帰っていく。そんな後ろ姿を見つめながら、恵もそっと笑みを浮かべた。
「ふぅ」
「お疲れ様」
「ん?」
聞き覚えのある声が耳に入り、恵が窓の外から、部屋の中へと視線を移す。
「遠久」
穏やかな笑みを浮かべ、資料室へと入って来たのは、言ノ葉高校の特徴的な水色の制服を着た、恵の弟、遠久であった。
「どうした?」
「借りてた本、返そうと思って」
読んでいた本を閉じ、立ち上がった恵に、遠久が一冊の古い本を差し出す。恵は遠久の方へと歩み寄ると、その本を受け取る。
「そんなの、別に家でも構わなかったのに」
「これから韻に行かなくちゃいけないんだ」
「忌退治か?」
「うん」
問いかける恵に、遠久があっさりと頷く。
「最近、多くないか?確か昨日、退治が終わったところだろう?」
「まぁ、確かに多いかなぁ。でも仕方ないよ。お姉ちゃんと明さんは仕事忙しいし、ウズラさんは今、ほら」
「ああ、茜が妊娠中だったな」
遠久に促され、恵が思い出した様子で頷く。一年前、以前から交際していたウズラと茜は、多少の明の反対もあった中、結婚をし、今、茜は第一子を身ごもっていた。ウズラはそんな身重の妻の世話をするため、最近、神としての活動を休んでいるのである。
「あのはねっかえりがもうすぐ母親かと思うと、驚きだな」
「ハハハ」
しみじみと呟く恵に、遠久が乾いた笑みを零す。
「まぁだから、その分、俺と為介が頑張らないとね」
「そうか。気を付けてな」
「うん」
先程、帰っていく女子生徒たちに掛けたものと同じ言葉を、恵が遠久にも送る。
「そういえば今日、遅刻した生徒にチョーク投げつけたんだって?隣のクラスの連中が、怯えてたよ」
「私の貴重なホームルームに、遅刻して来る奴の方が悪いんだよ」
「あんまり皆を怖がらせないでよ?」
厳しく言い放つ恵に、遠久が少し困ったような笑みを浮かべる。そのまま数歩、前へと出ると、遠久は窓際に立ち、開いた窓から身を乗り出すようにして、下校していく生徒たちを眺めた。
「ここに通ってる皆ってさ、いつか、ここを卒業していくんだよね」
「そりゃそうだろう」
遠久から返ってきたばかりの本を棚へと戻しながら、恵がすぐさま言葉に答える。
「どんなに楽しくても、終わる時は来る。学校ってのは、そういう場所だ」
「うん。そう、だよね…」
恵の言葉に、歯切れ悪く頷く遠久。
「じゃあ、どうして俺は、ずっとここに居るんだろう…?」
「……っ」
小さく落とされた遠久のその言葉に、棚と向き合っていた恵が、ハッとした表情となって、目を見開く。
「あ…」
慌てて遠久の方を振り向く恵であったが、すぐに言葉は出て来なかった。
「何年経っても一年生のまま、何年経っても十六歳のまま…」
窓の外の生徒たちを見つめ、遠久がそっと目を細める。
「一緒の時間を過ごした友達が卒業していっても、俺はずっとここに居る…」
「遠久…」
言葉を続ける遠久の姿に、恵が眉をひそめる。
「それは…」
「わかってるよ。“永遠”を生きる俺は、皆とは生きてる時間軸が違うんだから、同じ時を生きることは出来ないって」
恵の言葉を遮って、遠久がさらに言葉を発する。
「でも、時々ね、感じるんだ」
小さく笑みを零し、遠久が恵の方を振り返る。
「皆が歩いてる、大きな時の流れの中に、たった一人、取り残されているような、そんな感覚」
少し俯く遠久を、恵が険しい表情で、まっすぐに見つめる。
「皆が歩いていくのを、旅立っていくのを、俺は立ち止まったまま、ただ見送ることしか出来ない」
また窓の外を振り返り、正門を出て、帰っていく生徒たちの背中を見送る遠久。
「誰とも一緒に歩めないまま、ずっと一人ぼっちのまま、この“永遠”を生きていくのかなって思うと…」
窓枠に置いた右拳を、遠久がゆっくりと握り締める。
「どうしようもなく、不安になる」
「…………」
寂しげな遠久の、壊れてしまいそうなほどに不安げな遠久の背中を見つめ、恵が目を細める。
「情けないね。神様なのに、こんなの」
恵の方を振り返った遠久は、込み上げる気持ちを誤魔化すように、明るく笑みを浮かべた。その笑みが、悲しげな表情よりも強く、恵の心に突き刺さる。
「神だとか、そんなのは関係ないだろう」
少し視線を落としたまま、恵がやっとのことで、言葉を発する。
「一人が怖くない人間なんていない」
言葉を続けながら、恵が遠久のもとへと歩み寄っていく。
「でも大丈夫だ、遠久」
遠久のすぐ前へと立ち、遠久の握り締められた右拳を、包み込むように掴む恵。
「私がお前を、一人になんてしない」
「え…?」
はっきりと届くその言葉に、遠久が戸惑いの表情を見せる。
「お姉ちゃ…」
「“永遠”」
その日、恵の世界からも、明日が消えた。
「恵!」
韻本部にある恵の部屋へと飛び込んできたのは、険しい表情を見せた茜であった。茜は、少女のようだった数年前に比べ、髪も伸び、美しい大人の女性へと成長していた。体に比べ、大きく出た腹部は、彼女に新しい命が宿っていることを示している。
「何だ」
机の前に座り、書類を眺めていた恵が、少し不機嫌そうに顔を上げる。
「デカい声を出すな、妊婦」
「どういうことよ!?」
恵の忠告を無視し、恵の座る机のすぐ前へとやって来た茜は、声を荒げ、机に右手を叩きつける。
「自分に“永遠”の言葉をかけたって!」
「……っ」
怒鳴りあげるようにして届く茜のその言葉に、恵が眉をひそめる。
「別に、どうということはない」
声を荒げる茜とは対照的に、恵は努めて、冷静に話す。
「それに、私が私の言葉をどう使おうと、私の勝手だろう?」
「あなた、自分が放った言葉が何なのか、本当にわかってるの!?」
書類へと目を落としていた恵であったが、茜のその問いかけに、再び鋭く視線を上げた。
「わかっていないはずがないだろう。あれは、私の言葉だ」
「ずっと一緒に居た私たちとも、誰とも共に歩めない、ただ延々と続く時間の中を、生きていくつもり!?」
さらに投げかけられる問いかけに、恵が瞳を細める。
「それを、遠久に強いたのは私だ」
「……っ」
厳しく言い放つ恵に、茜が眉をひそめる。
「それを強いて、遠久を苦しめたのは私だ」
自分を責め立てるような言葉を、さらに続ける恵。
「だから、私も遠久と共に“永遠”を生きる。遠久を決して、一人にはしない」
そう言った恵は、一切の迷いもない、澄み切った表情を見せていた。恵の覚悟は、相当のものなのだろう。でなければ、“永遠”の言葉を、自身にかけることなど出来るはずもない。恵の覚悟は十分に伝わってきたが、それを受け止めることが出来ず、茜は深く俯いた。
「けど…」
茜がどこか、震えたような声を漏らす。
「けど、じゃあ兄さんは、兄さんはどうなるのよ!?兄さんは、恵のことを…!」
「明には、もう伝えた」
「え…?」
返って来る恵の声に、茜が戸惑うように瞳を揺らす。
「“お前とは共に生きられなくなった”と、もう伝えた…」
視線を落とした恵が、悲しげに、薄く笑みを浮かべる。
「そ、そんな…」
その事実に衝撃を受けた茜は、胸の前できつく両手を握り締めたまま、言葉も出ずに、ただ茫然としていた。顔を上げた恵が、茜の方を見て、また笑う。
「そんな顔をするな。八百屋は多少寂れてるが、明はいい奴だ。いい相手がすぐに見つかる」
「そんなの…そんなの!」
「茜」
何かを言いかけた茜の声を遮り、恵がそっと、茜の名を呼ぶ。
「私は、私の放った言葉に責任を持ちたいんだ」
「責任…?」
「ああ。人として、神として、自分の放った言葉から、逃げたくない」
聞き返した茜を、恵がまっすぐに見つめる。
「だから、遠久だけに“永遠”の言葉は、背負わせない。私も一緒に、背負っていく」
決意のこもった瞳で、恵が笑う。
「“永遠”に」
「恵…」
恵があまりにも晴れやかに笑うので、茜はそれ以上、何も言うことが出来なかった。
その頃。言ノ葉町、町の小さな八百屋『あさひな』。
「毎度ぉ!」
常連の主婦客を、いつものエプロンに鉢巻姿の明が、笑顔で見送る。
「ふぃ~」
客足が止むと、明は一息つくように、長く声を漏らした。
「やぁ」
後方から聞こえてくる声に、明が振り返る。すると、振り返った先には、紺色のスーツを着たウズラが立っていた。仕事着を纏ってはいるが、相変わらず柔らかで、穏やかな笑みを浮かべている。そんなウズラを視界に入れ、明はすぐさま表情をしかめる。
「何だよ、昼間っから」
軽く頭を掻きながら、明が不機嫌そうに言い放つ。
「ちゃんと働け。お前が働かねぇと、俺の可愛い妹とその子供が、路頭に迷うことになんだからな」
「わかってるよぉ。今はお昼休みなだけで、ちゃんと働いてるってばぁ」
厳しく言い放つ明に、ウズラが少し拗ねるように、口を尖らせる。
「心配しないで、お義兄ちゃん」
「次、呼んだら、大根でブン殴るぞ…?」
ウズラが首を傾け、可愛く呼びかけると、明は大根を構え、大きく、その表情を引きつった。
「振られたんだって?」
「……っ」
問いかけるウズラに、明が大根を持っていた手を、ゆっくりと下ろす。
「ああ」
短く頷き、ウズラから視線を逸らす明。そんな明の様子を見て、ウズラが少し困ったように、肩を落とす。
「恵ちゃんのこと、本当にこれで良かったの…?」
ウズラの問いかけに、遠くの空を見つめた明が、そっと目を細める。
「良くなかったとしても、どうにも出来ねぇだろ」
明が吐き捨てるように、言葉を落とす。
「俺に、あいつを止める権利はねぇよ」
「……そうだね」
力なく微笑み、明の言葉を認めるように頷くウズラ。どうすることも出来ないもどかしさが、二人の間を流れていく。
「本当に、重たいものだね」
ゆっくりと言葉を落とし、ウズラが明と同じように、青い空を見上げる。
「“言葉”というものは」
青い空を見上げたまま、ウズラはそっと表情を曇らせた。
「聞いたぁ?恵の神の話!」
韻本部にある、五十音士や従者たちの溜まり場となっている部屋に、よく通る女性の声が響き渡った。
「自分に“永遠”の言葉、かけたってやつでしょ~?聞いた聞いた」
「いいよねぇ。あの年のまま、ずっと年も取らないなんてさぁ」
興味を引く話題だったのか、皆、急に身を乗り出すようにして、その話題に参加してくる。
「でもそのせいで、安の神と破局しちゃったらしいよ?」
「そりゃそうよねぇ~だって、生きてる時間が違うんだもん。一緒になんて、居られないでしょ」
「確かに。自分だけ年取って死んでくなんて、何か嫌だもんねぇ」
「若さに目が眩んで、恋人と破局だなんて、残念な人よねぇ。恵の神も」
「…………」
忌退治の報告のため、廊下を横切ろうとしていた遠久は、部屋の中から漏れ聞こえてくるその会話に、思わず立ち止まってしまっていた。部屋に入って、文句の一つを言うことも出来ない。まるで、すべての力を奪われたように、遠久はその場に立ち尽くしていた。
―――これでもう、お前は一人じゃない。ずっと私が一緒だ、遠久…―――
「……っ」
恵の笑顔を思い出し、遠久がそっと俯く。遠久に“永遠”を与えたことに罪悪感を覚えていた恵に、あんなことを言えば、恵がどう行動するのかなど、遠久にはわかっていた。それでも、わかっていたというのに、遠久は恵に言葉を向け、恵を“永遠”へと引き込んだのだ。
「神?」
その名を呼ばれ、遠久が振り返る。
「桃雪…」
遠久の後方から、遠久の方へと歩み寄って来たのは、遠久の神附きの桃雪であった。廊下の途中で立ち止まっている遠久を、不思議に思ったのだろう。桃雪は少し、首を傾げている。
「どうか、なさいましたか?」
「ううん」
問いかける桃雪に、遠久は笑みを浮かべ、首を横に振る。
「何でもないよ」
言葉が、音もなく、この心を、蝕んでいく。ゆるやかに、確実に。




