Word.70 喜ビナキ少年 〈4〉
それから、数日。韻本部、為介自室。
「忌退治?」
机の前に座り、書類に判を押していた為介が、充のその言葉に顔を上げる。
「はい。片琴町すぐ近くの海岸で、忌が大量発生しているらしく、韻本部から依頼が来ました」
充が書類を片手に、さらに言葉を続ける。
「今回、発生場所が海近くということもあって、水系の力を持つ神に、依頼が来たようです」
「ふぅーん」
為介がどこか、興味なさそうに声を漏らす。
「わかった。行くよ」
「はい。ではすぐに、韻へ断りの連絡を…って、へ?」
為介が依頼を断る前提で、返事をしていた充が、聞き入れた言葉をやっと認識したのか、ふと言葉を止め、目を丸くして、前方の為介を見つめる。
「い、今、行くと…?」
「そう言ったでしょ。神に二回も、同じこと言わせないでよ」
机の上を軽く整理して、為介が椅子から立ち上がる。
「すぐに出る。附いてきて、充」
「は、はい!」
まだ戸惑った表情を見せながらも、部屋を出て行く為介の言葉に、大きく頷く充。為介が扉を開け、部屋を出て行くと、充が一人、取り残される。
「ど、どうしたんだろ?一体…」
「早く行くよ、充!」
「は、はい!ただいま!」
不思議そうに首を傾げていた充が、廊下から響く為介の声に、慌てて部屋を出て行った。
「え?為介が、忌退治に?」
午後になり、本部から受けた依頼をこなし、韻へと戻って来た遠久は、神附きである桃雪から、為介が依頼を受け、忌退治に出掛けたことを、報告に受けていた。
「ええぇ。あれほど、単純な忌退治は断り続けていたというのに、どういった心境の変化でしょうねぇ」
「そうだね」
首を傾げる桃雪に対し、明と為介との間にあったやり取りを知る遠久は、どこか嬉しそうに笑みを零した。明の言葉が為介の心を動かし、“為の神”としての為介の行動をも変えたのだろう。
「まぁ、いいことですがね」
「うん。俺も為介に負けないように、頑張らなくちゃ」
「神は、今以上頑張ったら、お体を壊してしまいますよ」
楽しげに言葉を交わしながら、遠久と桃雪が、韻の廊下を進んでいく。
「マジかよ!?」
「ん?」
並んだ部屋の一つから聞こえてくる、大きな声に気付き、遠久がふと、足を止める。
「神?」
「デカイ声出すなって。誰かに聞こえたら、どうすんだよ」
桃雪が首を傾げる中、遠久が扉に近づき、耳を澄ませる。すると部屋の中から、こそこそとした小さな声が、漏れ聞こえてきた。
「言葉で、忌に細工したって?」
「ああ」
焦ったような表情で問いかける男に、得意げな笑顔で頷く、もう一人の男。頬に貼ってある絆創膏の後ろから、腫れ上がった肌が見えている。その男は、為介のことを悪く言い、明に殴り飛ばされた、あの五十音士であった。その部屋には、他にも、暴れ回った明に軽傷を負わされた音士たちが、数名、集まっている。
「マジかよ?いくら何でも、やり過ぎじゃねぇか?んなことしたら、あいつ、死んでっ…」
「死にゃあ、いいんだよ。あんなクソガキ」
困ったような表情を見せた仲間の言葉を遮り、中央に立ったその音士が、冷たい笑みを浮かべる。
「どうせ、誰も悲しみゃしねぇんだ」
「だからってよ…」
「お前らだって、あんなクソガキに、いつまでも神だって、デカイ顔されたくねぇだろうが!」
『そ、それは…』
音士の言葉に、皆が言葉を失い、深く俯く。
「それに、今更騒いだって、もう遅せぇさ。今頃、あいつは忌にやられて…」
「一体、何の話?」
「……!」
勢いよく開かれる部屋の扉と、そこから入って来る鋭い声に驚き、音士が大きく目を見開く。開かれた扉から、部屋の中へと姿を見せたのは、厳しい表情を見せた遠久であった。
「遠、遠の神っ…」
「俺にも詳しく、教えてくれないかな…?」
強く睨みつける遠久に、音士たちは皆、怯えたような表情を見せた。
片琴町、海岸。
「大量の忌、ねぇ」
穏やかな波の打ち寄せる海岸沿いに立った為介が、静かな海を見つめ、小さく声を落とす。どこまでも青の広がるその海には、大量どころか、一匹の忌の姿も見当たらなかった。
「場所、本当にここであってる?」
「はい。報告のあった場所は、確かにここなのですが…」
充がメモを確認しながら、為介の言葉に答える。
「見当たらないですねぇ」
「うん。特に気配もしないし」
頷いた為介が、困ったように肩を落とす。
「大移動でもしてしまったのでしょうか?」
「忌が大移動なんて、聞いたことないけど…まぁ居ないものは、仕方ないもんね」
軽く頭を掻き、為介が充の方を振り返る。
「とりあえず一旦、韻に戻って、報告の確認を…」
<グググ…>
「あ…!」
為介の指示を受けていた充が、振り返った為介の背中の向こう、静かな海の中から現れた、一匹の黒い影に気付き、大きく目を見開く。
「か、神…!」
「え?」
充の必死の呼びかけに、為介が後方を振り返る。
<グアアアアア!>
「ク…!」
激しい咆哮をあげて、飛びかかってくる黒い影に、為介が険しい表情を見せながらも、懐の中へと手を入れる。すぐに取り出された手には、青い言玉が握り締められていた。
「五十音、第四十七音“ゐ”、解放…!」
言玉を輝かせ、為介が自身の文字を目醒めさせる。
「“射抜け”!」
為介が言葉を発して、言玉から、鋭い矢のような水の塊を放つ。放たれた水の塊は、為介へと襲いかかろうとしていた忌の胴体を、勢いよく貫いた。
<ギャアアアア!>
胴体に大きく風穴があき、忌が激しい叫び声をあげる。射抜かれた忌は、黒い煙となって、空中へと掻き消えていった。
「神…!」
忌が消えたことを確認し、充が為介のもとへと駆け寄って来る。
「一応、居るみたいだね、忌。構えておきなよ、充」
「は、はい!」
為介に言われ、充がズボンのポケットの中から、為介と同じ、青い言玉を取り出す。
「さぁーて、どっから…」
<ググ、グ…>
「え…?」
他にも忌が居ないか、周囲の様子を伺おうとしていた為介が、すぐ傍から聞こえてくる、唸るような小さな声に気付き、自分のすぐ足元を見る。海岸に転がっている、先程、掻き消えたはずの忌の小さな欠片から、黒い煙が徐々に広がり、やがて二つの大きな塊となっていく。
≪グアアアアア!≫
「な…!?」
そこから生まれる、二匹の忌に、為介が驚きの表情を見せる。
「こ、これはっ…」
「“満ちろ”!」
≪ギャアアアア!≫
為介の後方から打ち寄せた波にさらわれ、生まれ出たばかりの二匹の忌が、一瞬にして掻き消える。
「神、大丈夫ですか!?」
「充…」
言玉を握り締めた為介が、為介の身を案じ、為介のすぐ横へとやって来る。
「しかし、何故忌が…」
≪グ、ググ…グ…≫
『……!』
さらに聞こえてくる、呻くようなその声に、為介と充が同時に目を見開き、言葉を止める。充の波に流された忌の残骸が、水の中でまた広がり、増えようとしていた。
「ま、また増える、のか…?」
充が引きつった表情で、その増えていく忌を見つめる。
≪グググ、ググ…グアアアア!≫
さらに多くの忌が生み出され、一斉に叫び声をあげる。
≪グアアアアア…!!≫
「うあ…!」
その忌たちの声を合図として、どこまでも広がる海全体から、その青を埋め尽くすように、大量の忌が顔を出す。その地獄のような光景に、為介の表情が凍りつく。
「そんな…確かに、忌の気配はなかったはず…」
≪グググ…≫
「あっ…」
足元に出来た水溜まりの中からも生まれ出る忌に、困惑の表情を見せていた為介が、ハッとした表情となる。
「水で、増えてる…?」
海の中から続々と顔を出す忌を見回し、為介が険しい表情を見せる。
「そんな特殊な忌…それに、そんな忌が相手なら、水系の能力を持ったボクらを選んだりなんて…まさかっ…」
為介がその可能性を思いつき、言玉を強く握り締め、その手を震わせる。
「ハメ、られた…?」
その言葉を呟き、為介がその表情を青白く変える。
≪グアアアアアア!≫
「か、神…!」
「う…!」
一斉に襲い掛かって来る忌に、充が必死に呼びかける中、為介が険しい表情を見せた。
「お疲れ様です、恵さま」
「ああ」
韻本部に設けられた自室で、何やら多くの本やらノートやらを広げていた恵は、茶を持って部屋へとやって来た芽衣子に、顔を上げ、笑顔を向けた。
「どうですか?教員採用の勉強の方は」
「まぁまぁだな」
芽衣子が、机の邪魔にならない場所へと、持って来たコップを置く。
「受かれば、来春から教師ですね」
「ああ」
微笑みかける芽衣子に、恵も大きく笑顔を見せる。
「恵さまが教育者になったら、生徒さんが皆、口悪くなるんじゃないかって心配ですけどね」
「どういう意味だよ」
棘のある言い方をする芽衣子に、恵が口を尖らせる。
「体罰には、くれぐれも気を付けて下さいね」
「その前にまず、試験に受かるかどうかだろ?」
「恵さまなら、受かりますよ」
問いかける恵に、芽衣子は当然のように言い放つ。
「絶対」
「……っ」
強く言い切る芽衣子のその言葉に、自信をもらったような気がして、恵は安心したような笑みを浮かべた。
「恵の神!」
「んあ?」
その時、恵の部屋の扉が勢いよく開き、焦った表情を見せた桃雪が、部屋の中へと飛び込んできた。
「ハァ、ハァ、ハァ」
「桃雪?どうした?」
必死に走って、やって来たのだろう。息を乱した桃雪へと、恵がどこか不審がりながら、問いかける。
「神が、遠久様が、為の神のもとへ…!」
「何…?」
桃雪のその言葉に、恵は表情を曇らせた。
「うあ、あああああ!」
「充…!」
大量の忌に取り囲まれるようにして、黒い影の中へと姿を消していく充。水により増え続けるその忌は、海の水により、際限なくどこまでも増え続け、能力自体が水である為介と充は、その忌を倒す術を持たなかった。充の叫び声を聞き、為介は必死に身を乗り出すが、為介の周りも忌が取り囲み、とても充を助けに行ける状況ではなかった。
「クソ…!」
為介が唇を噛み締めながら、言玉を持った右手を突き上げる。
「“一碧万頃”!」
≪ギャアアアアア!≫
言玉を突き上げた為介が、目一杯大きな声で自身の言葉を放ち、滝のような巨大な水の塊を地面から噴き上げてさせて、周囲にいた大量の忌を、一気に掻き消す。
「守、らなきゃ…」
何度も言葉を使った影響で、子供の為介の体力はすでに限界に近付いており、足元をふらつかせ、息を乱しながらも、為介が自分へと言い聞かせるように、言葉を落とす。
「皆の言葉を、守、らなきゃ…」
≪グ、グググ…≫
為介の言葉が続く間にも、掻き消されたはずの忌は、また水により増殖し、新たに形を作り始める。
「ボクは…ボクはっ…」
唇を噛み締め、為介が強い瞳で、顔を上げる。
「言葉の神だから…!」
為介の今にも泣き出しそうな、それでも強い必死の声が、その場に響き渡る。
≪グアアアアアア…!!≫
「ク…!」
新たに生まれた大量の忌が、一気に為介へと飛びかかって来ると、為介は覚悟を決めた様子で、何かを堪えるように、強く瞳を閉じた。
「“落ちろ”」
≪ギャアアアアア!≫
「え…?」
響いた一つの言葉と、その後に響き渡った無数の忌の叫び声に、固く瞳を閉じていた為介が、ゆっくりと瞳を開く。すると、為介の周囲では、空から落ちた雷のような白い光に打ち抜かれ、忌が次々と掻き消えていっていた。
「大丈夫?為介」
「あ…」
すぐ目の前から向けられる、優しい笑みに、為介は大きく目を見開いた。
「遠の、神…」
為介の前に立っていたのは、遠久であった。遠久を呼んだ為介は、命があったことにか、緊張の糸が切れたからか、ホッとした様子で肩を落とす。
「どうして、ここに…?」
「韻で、話を聞いたんだ。君を良く思っていない音士の連中が、忌を細工して、君を罠にかけたらしい」
「音士…」
遠久のその言葉に、為介の頭の中にすぐに、為介を嫌っていた五十音士たちの顔が浮かんだ。
「このことは韻に報告しておいた。彼等にはちゃんと、処分を受けてもらうから、安心して」
「…………」
微笑みかける遠久に、為介が笑顔を見せることはなかった。彼等であれば、言葉の力で忌の細工も出来るだろうし、情報を操作して、為介を向かわせることも可能だろう。だが、為介はその事実に怒るというよりも、それほどに嫌われていた自分に、少なからずショックを受けていた。
「大丈夫?すぐに応援が来るから、それまで手当ては、ちょっと待ってね」
「充…充、が…」
「大丈夫。彼なら、無事だよ」
充の身を案じる為介に、遠久が少し視線を横へと流して答える。遠久の視線が向いたその先には、深く瞳を閉じた充が倒れ込んでいた。体は傷だらけだが、呼吸でわずかに肩が上下している。確かに、無事なようだ。その姿を見て、為介がさらに安心した様子を見せる。
「さぁ、ここじゃまた忌が発生しちゃうし、もっと安全な場所に行…」
「……?」
不自然に途中で止まった遠久の声に戸惑い、為介が戸惑うように、ゆっくりと遠久の方を見上げる。
「遠の神…?」
「あ…あぁ…」
「遠久、さん…?」
ただまっすぐに正面を見つめたまま、かすかに開いた口から小さな声を漏らす遠久のその様子に、為介がさらに戸惑い、眉をひそめる。
「あぁ…」
「え…?」
開かれた遠久の口端から、流れ落ちる真っ赤な血に、為介が険しい表情となって、すぐさま顔を下げ、自分の目線の高さと同じ高さほどの、遠久の腹部へと視線を移した。
「あ…!」
視線を移した途端、為介が大きく目を見開く。遠久の腹部を、背後から伸びた忌の黒い手が貫通し、そこから、真っ赤な血が、滝のように勢いよく溢れ出していた。
「逃げ、て…為介…」
「あ、ああっ…あっ…」
力ない声で、遠久が為介へと逃げるよう言葉を向ける中、大きく目を見開いた為介が、声にならない声を漏らす。
「逃げ…て…」
最後の最後まで為介の身を案じながら、ゆっくりと前方へと倒れ込んでいく遠久。
「あっ…ああああああ!!」
為介の悲痛な叫びが、空へと突き上げられた。
あの日の出来事が、間違いであったというのなら、やり直させてほしい。
今、すぐに、あの日から。




