Word.70 喜ビナキ少年 〈3〉
翌日。
「え?謹慎?」
韻本部に設けられた自室で、十二歳の子供が読むものとは思えない、分厚く難しい本を読んでいた為介は、神附きである充からの報告に、驚いた様子で顔を上げた。
「安の神が?」
「はい。神の生い立ちについてを、とやかく言っていた五十音士他、数名の音士に軽傷を負わせた上、従者が止めるのも聞かずに、しばらくの間、暴れ回ったとか」
充が眼鏡を押し上げながら、報告の書かれた紙を、読みあげていく。
「そういうわけで、本日から一週間、自宅謹慎の処分を受けられるそうです」
「そう…」
充の報告を受けて、少し表情を曇らせた為介が、視線を下へと落とす。
「面会は特に禁止されておりませんので、会いに行かれるのでしたら、地図を…」
「なんでこの忙しいのに、謹慎中の神に会うために、わざわざ時間を割かなきゃいけないの?」
「え?」
鋭く返って来る言葉に、充が戸惑うように声を漏らす。
「で、ですが安の神は、神のために…」
「あっちが勝手にやったことだよ。ボクには関係ない」
遠慮がちに訴え出た充の言葉を、為介があっさりと遮る。
「そんなくだらない報告、今後はいちいちしなくていいから。もう下がって」
「は、はぁ…」
為介の指示に頷きながら、どこか困ったような、呆れたような表情を見せて、充は一度、軽く頭を下げると、そのまま足早に、為介の部屋を出て行った。
「…………」
部屋に一人きりとなった為介は、再び本に視線を落としながら、少し悩むように、目を細めた。
その日、午後。言ノ葉町、町の小さな八百屋『あさひな』。
「へい、らっしゃい!」
店の前で、大きく声をあげるのは、『あさひな』の若き店主、朝比奈明。明は、早くに死んだ両親に代わり、高校を卒業してすぐに、この『あさひな』を継ぎ、店主となったのであった。日に焼けた肌に、鉢巻にエプロンの姿が、何とも勇ましい。
「今日は何がおすすめかしら?」
「今日はねぇ、大きくて、新鮮なジャガイモとタマネギが入ってるよぉ。今晩、カレーなんてどう?」
「明さんが言うなら、間違いないわね。じゃあ、そうするわ。ニンジンももらえる?」
「へい、毎度!」
やって来た主婦の客に、明るく笑顔で対応し、明が素早く取った袋に、並んでいる野菜の中から、一番大きなものを選び、袋の中へと詰めていく。袋を客へと手渡し、代金をもらう明。
「ありがとうございました!また、よろしくお願いします!」
去っていく主婦の背に、大きな声を飛ばす。
「ふぅ~」
客の足が止むと、明はホっとした様子で息を落とし、額に滲んだ汗を、巻いている鉢巻を上下させ、拭った。そこへ、明の背後から、こちらへとやって来る足音が聞こえてくる。
「へい、らっしゃい!」
すぐさま笑顔を作り、勢いよく振り返る明。
「げっ」
だが一瞬にして、明の表情は歪んだ。
「んだよ。誰かと思えば、クソガキじゃねぇか」
歪めた表情をそのままに、明が少し肩を落とす。
「客かと思って、営業スマイルしちまっただろ。ああ、スマイル一回分、無駄にしたぁ」
「…………」
明の前に現れた為介は、あれこれと言葉を続ける明の方は見ずに、どこかそっぽを向いたまま、気まずそうな、それでも何かを言いたげな、複雑な表情を見せている。
「スマイル代返せ、スマイル代」
「返す必要ない。ボクは客として、ここに来たんだ」
「ああ?」
やっと口を開いた為介のその言葉に、明が眉をひそめる。
「ああ、そうですかぁ。じゃあ、今日は何にしましょう?」
いかにも面倒臭そうにしながら、明が一応、為介へと問いかける。
「マスクメロン、一つ」
「ウチは野菜しか、置いてねぇっての!」
メロンを要求する為介に、明の怒鳴り声が、大きく響き渡った。
店番を妹の茜へと任せ、明は、為介と共に、近くの土手へと移動した。土手へと腰掛けた為介が、傾いてきた日に照らされ、美しく輝く言ノ葉川を見つめている。
「ほらよ」
そこへ、やって来た明が、為介へと一本の缶を差し出す。為介は振り返りながら、明からのその缶を受け取った。
「野菜ジュース…」
缶の表に書かれた文字を見て、為介が少し眉をひそめる。
「こういう時って普通、オレンジジュースとか、そういうの選ぶものじゃない?」
「うっせぇ!野菜ジュースのんが、体にいいんだよ。とやかく言うなら、飲むな」
文句をつける為介に、強く言い返しながら、明が為介のすぐ横へと腰を下ろす。為介はしばらくの間、不満げに野菜ジュースを見た後、喉は乾いていたのか、渋々、缶の口を開けた。野菜ジュースを口の中に飲み入れ、好みの味でなかったのか、少しその表情を曇らせる。
「んでぇ、何の用なんだ?俺に話があるから、忙しいのにわざわざ、こんな所まで来たんだろ?」
同じように野菜ジュースを一口飲み、為介へと問いかける明。明の問いかけに、為介が自分の口元から、缶の口を離す。
「謹慎処分になったって、聞いたから…」
「ああ」
為介の言葉に、明が認めるように、大きく頷く。
「いつものことだ。一年の内、半分以上は謹慎してっからなぁ、俺」
何の自慢にもなっていないが、明はどこか得意げに話す。
「ま、ウチの八百屋はべらぼうに忙しいからなぁ。たまには謹慎になって、全力注がねぇと、経営がっ…」
「結構、暇そうに見えたけど」
「ああ!?んだと、こらぁ!」
こっそり口を挟んだ為介の言葉を聞き逃さず、明が笑顔を崩し、激しく怒鳴りあげる。得意げになったり、怒ったり、すぐさま変わる表情は、あまり表情を変えない為介にとっては、とても不思議なものに見えた。
「でも、その…ボクのことで、殴ったって…」
深く俯いたまま、為介がどこか言いにくそうに、言葉を発する。
「ああ?それで、気になってわざわざ様子、見に来てくれたってかぁ?礼儀のなってねぇ、クソガキくんが」
明はあからさまに悪態づくが、その言葉を受けても、為介は俯いたままで、言い返そうとする素振りは見せない。そんなどこか落ち込んだ様子の為介を横目に見て、明は少し目を細め、肩を落とした。
「べっつに、お前のために殴ったんじゃねぇよ」
「え…?」
否定する明の言葉に、為介がやっと、顔を上げる。
「あいつ等が、五十音士のくせに、くだらねぇことばっか言って、言葉を汚したから、殴っただけだ。俺は」
野菜ジュースをどんどんと飲みながら、明が素っ気なく、言葉を続ける。
「俺が勝手にやったことなんだから、お前は全然、気にしなくていい」
「……っ」
川を見つめたまま、放たれる明のその言葉に、為介がそっと目を細める。
「昨日、あんたに“思いやりのある言葉とか、人を喜ばせるような言葉とか、一つくらい言えないのか”って言われたこと…」
「ああ?んなこと、言ったっけかぁ?」
「言われたこと、だけど…」
明が惚けるように、大きく首を傾ける中、川を見つめる為介の表情が、そっと曇る。
「前にも実は、同じようなこと、言われたことあるんだよね」
為介の口調は、今までの他人行儀な、攻撃的なものではなく、どこか親しみのあるもののように思えた。
「だけど、考えても、どうしたらいいのか、わからなくって…あんたと同じように言ったその人に、どうしたらそういう言葉を言えるのかって、聞いたんだ」
明もまっすぐに川を見つめ、黙ったまま、ただ為介の声に耳を傾ける。
「そしたら、その人が言った。“自分が言われて、嬉しかった言葉を、口にすればいい”って」
為介の声が、少し低くなり、どこか暗く響き渡る。
「でも、それが、わからないんだ」
小さく言葉を紡ぎながら、為介が自嘲するような笑みを浮かべる。
「ボク、生まれてきちゃ、いけない子供だったから…」
川に懸った橋へと視線を向けた為介が、どこか切り出すように、言葉を発する。その言葉に、明は少し表情を動かしたが、為介の方を振り返ろうとはしなかった。
「だから、家から出してもらえなかったし、誰も、父さんと母さんでさえ、ボクとは、ろくに話してくれなかった」
為介の幼い、だがどこか物悲しい声が、土手に響く。
「掛けられたことのある言葉って言ったら、“居なくなればいい”とか、“なんで生まれてきたんだ”とか、そういう、冷たい言葉ばっかりで…」
膝の上へと置いた手を、為介が強く握り締める。
「掛けられて嬉しかった言葉なんて、一つも思い出せなくて…」
言葉を続ける為介の口元が、わずかに震える。
「だから、わからなかった」
薄く浮かべられていた為介の笑みが、ふと止まる。
「いっぱい辞書も読んだし、言葉の本も読んだけど、でも、わからなかったんだ」
「…………」
為介のその言葉を聞き、川を見つめる明が、そっと目を細める。
「だから、その…あんたがボクのために怒ってくれたって聞いた時、その、よくわからないけど、たぶん…」
少し言いにくそうにしながら、為介が明の方を振り向く。
「嬉しかった」
短い、単調な言葉を、為介が明へと向ける。
「嬉しかった、んだと思う。だから、その…」
少し躊躇うように、置かれる間。
「……ありがとう」
自分でも迷うように言葉を続けながら、為介が明へと、噛み締めるように礼を放った。礼を言うとすぐに、為介はまた、深く俯いてしまう。
「じゃあ、それだけだから、ボクはこれで…」
「ありがとう」
「え…?」
すぐにその場を去ろうと、為介が立ち上がろうとしたその時、明の口から放たれる言葉。その言葉に驚き、為介は思わず、去ろうとするその動きを止めた。為介が戸惑うように見上げる中、明がゆっくりと、為介の方を振り向く。
「な、なんで“ありがとう”なの?」
「別にぃ?お前に“ありがとう”って言われて嬉しかったから、“ありがとう”って言い返しただけ」
困惑した様子で問いかける為介に対し、明は素っ気なく答える。
「なぁ、為介」
明の野菜ジュースを持っていない方の手が、まだ小さな、為介の頭の上へと乗った。
「この世界に、“人を傷つける言葉”っつーのは山程あるけど、“人を喜ばせる言葉”ってのも、同じだけ、山程あるんだ」
言い聞かせるような明の声が、優しく響き渡る。
「お前はまだ若い。これから山程、色んな奴と出会って、山程、色んな言葉を話す」
まっすぐに為介を見つめ、明が穏やかに笑う。
「焦る必要なんてねぇ。一つずつ、覚えていけばいい」
「……っ」
向けられる明の温かな笑顔を見つめ、瞳を潤ませた為介が、溢れ出るものを堪えるように、強く唇を噛み締める。
「うんっ…」
噛み締めた唇から、小さく零れ落ちる声。
「うん…!」
明の言葉に、為介は大きく頷いた。
「いやぁ、上手くいったみたいだねぇ」
「ったく…」
どこかウキウキとした声をあげるウズラの横で、恵は呆れたように、深々と肩を落とす。ウズラと恵がいるのは、言ノ葉川ほとりの木陰。木陰から顔だけを出しながら、土手の上の明と為介の様子を、観察していたのであった。
「なんで神が揃いも揃って、盗み見なんてしなきゃいけねぇんだよ」
「盗み見じゃなくって、見守ってるんだよぉ。恵ちゃん」
「同じことだろうが」
言い直すウズラに、恵がまた肩を落とす。
「けど、やっぱり不思議だなぁ。明さんって」
二人と同じように、木陰から明たちの様子を見つめていた遠久が目を細め、感慨深げな表情で呟く。
「一番、人の感情とか、そういう繊細なものには鈍感そうなのに、結局は、一番敏感で、すぐに気付けて」
遠久が、どこか感心するように言う。
「不思議な人だよね、ホント」
「明は、根っからの神様だからねぇ~」
「ああ。そして神は、人を救う」
ウズラの言葉に頷き、再び明たちの方を見上げた恵が、そっと笑みを浮かべる。
「あいつが守ってるのは、言葉だけじゃなくって、人の心もなのかも知れない」
「うん…」
響く恵の言葉に、ウズラと遠久も、穏やかに微笑んだ。
「へい、らっしゃ~い!」
「なんでお前が、ここに居んだよ…」
為介と共に『あさひな』の店へと戻った明を出迎えたのは、頭に鉢巻きをつけ、エプロンを纏った、すっかり八百屋に染まっている、満面の笑みのウズラであった。出迎えた親友の、その笑顔を見て、明が勢いよく表情を引きつる。
「あ、お兄ちゃん、戻ったの?」
「茜」
そこへ店の奥から、明の妹、茜が姿を見せる。
「いっちゃん、この人が、明の妹で、俺の未来のお嫁さんの茜ちゃんだよぉ~」
「まぁウズラさん、お嫁さんだなんて」
「まだやるっつってねぇだろうが!勝手なこと、言ってんじゃねぇ!」
明るい口調で茜を紹介するウズラに対し、茜がほんのりと頬を赤く染め、明が怒り狂った様子で怒鳴りあげる。そんな皆のやり取りを、どこか新鮮そうに見つめる為介。
「外は寒かったでしょう?はい、お兄ちゃん特製の野菜スープでも飲んで」
「あ、ありがとう、ございます…」
茜から湯気の立ったお椀を受け取り、為介が慣れない様子で礼を呟く。夕方になって、吹いてきた冷たい風に、すっかり体は冷え切っていたので、為介はその湯気に惹かれ、すぐにスープへと口をつけた。一口飲んで、為介が大きく目を見開く。
「美味しい…」
どこか驚いたような表情で、素直な感想を漏らす為介。
「う、美味くて、当たり前だろうが!この俺様の、特製スープだぞ!?」
「あ、明さん、照れてる」
「良かったなぁ、明。唯一の取柄を、誉めてもらえて」
「うっせぇ!」
店の奥から、からかうように声を掛ける遠久と恵に、明が思いきり、怒鳴りあげる。
「アハハっ」
『……っ』
明のその様子を見て、為介が堪え切れなかったのか、勢いよく笑みを零す。初めて見る為介の大きな笑顔に、最初は皆、驚いた表情を見せたが、すぐに、為介と同じように、笑みを浮かべる。
『ハハハハハ!』
為介と共に、皆が大きく微笑んで、辺りを笑い声が包み込んだ。




