Word.70 喜ビナキ少年 〈2〉
だが、恵と遠久の期待も虚しくなるほどに、“最年少神”、井戸端為介の、勝手な振る舞いは続いた。
「お断りします」
「へ?」
為介の口から飛び出した、思いがけないその言葉に、韻本部からの命令を伝えた従者は、思わず間の抜けた声を漏らした。
「こ、断ると…?」
「はい。そんな単純な忌退治、ボクがわざわざ出ていくほどのものではありません」
もう一度、確かめるように問いかけた従者に、為介は何の躊躇いもなく、すらすらと答えていく。
「こんなの、神にやらせずとも、その辺で暇そうにしている、雑魚音士にやらせておけば十分でしょう」
『ああ!?』
為介のあまりの発言に、周囲にいた五十音士たちが、急に殺気立つ。
「何だよ、あの言い方は!一発、ブン殴らねぇと、気が済まねぇ!」
殺気立った音士の一人が立ち上がり、涼しげな表情を見せている為介を、睨みつける。
「やめとけって!お前、この前の見てなかったのか?殴りかかった比守の野郎が、あいつの四字熟語で溺死しかけたとこ!」
「四、字熟語…?」
「そうだよ!あいつ、ガキだけど、化け物みてぇに強えぇんだ!下手に勝負挑んだら、死ぬぜ?」
「ク、クソっ…」
もう一人の、音士らしき男に説得され、立ち上がった音士は、悔しげに唇を噛み締めながらも、再び大人しく座り込む。
「フン…」
座り込んだ男の様子を見て、冷たく鼻を鳴らす為介。
「じゃあ、この件はこれで」
「あ…!」
従者に短く言葉を吐いて、為介があっさりと従者に背を向け、その場を歩き去っていく。
「為、為の神…!」
従者が必死に呼びかけるが、為介が止まる様子はない。
「も、申し訳ありません!申し訳ありません!」
唖然とする従者に何度も頭を下げているのは、まだ若い、眼鏡をかけた、細身の男。為介の神附きで、“美守”の、箕島充であった。
「わっちゃあ。あんな神様じゃあ、大変だろうなぁ。充の奴」
そんな充の様子を見て、同じ部屋に居た正一が、思わず表情をしかめる。そんな正一の横に座っていた明が、真剣な表情を見せ、無言で立ち上がった。
「んあ?神?」
正一が戸惑うように見つめる中、明が素早く歩を進め、部屋を出て行こうとする為介の前へと、行く手を阻むように立ちはだかる。目の前に立った明に、足を止めた為介が、睨みつけるように視線を上げた。
「何?」
面倒臭そうに顔を上げながら、為介が嫌々、明へと問いかける。
「ボクの代わりに、忌退治でもやってくれるの?いっつも暇そうだもんね、安の神は」
「お前は、言葉の神だろう?」
嫌そうな空気を前面に押し出し、問いかける為介に、明が鋭く言葉を向ける。
「だったら?何?」
「だったら、相手を思いやった言葉や、相手を喜ばせるような言葉の一つ、言えねぇのかよ?」
「……っ」
明のその言葉に、普段、不機嫌な表情のまま、あまり顔色を変えない為介が、珍しく大きく顔をしかめる。
「あんたに、ボクの言葉を、とやかく言われる筋合いはない」
はっきりとした口調で言い放って、為介が明の横を通り過ぎ、部屋を出て行く。明はそれ以上、言葉を発することなく、為介を引き止める様子も見せなかった。
「ふぅ」
部屋を出た為介が、大きな扉を閉めた後、一息つくように、大きく息を吐く。
「クソ…」
為介が表情を歪め、小さく声を漏らす。
「悔しい?」
「え?」
前方から聞こえてくる声に、為介が驚いた様子で顔を上げる。為介が上げた視線のその先には、相変わらず穏やかな笑顔を見せた、ウズラが立っていた。
「宇の、神…」
ウズラの姿を捉え、為介がそっと目を細める。
「何の用?安の神といい、あんたといい、五神史上最強の二神って言われてるわりに、いっつも暇そうだよね」
為介が呆れたように肩を落としながら、ウズラへと言葉を掛ける。
「ボクは、暇なあんたたちとは違って、忙し…」
「明に、自分のこと、言い当てられちゃって、悔しい?」
ウズラのその問いかけに、悪態づこうとした為介の表情が、すぐさま止まる。そして、さらに険しい表情となって、為介はウズラを睨みつけた。
「知ったような口をきくな。あんたに、ボクの何がわかる?」
「まぁ確かに、君のこと、あんまりよく知らないし、わからないけどねぇ」
為介の問いかけに、口元を緩め、涼しげな笑みを浮かべるウズラ。
「君が、言葉にとっても“戸惑っている”ことくらいは、見てたらわかるよ」
「戸惑っている…?」
ウズラの言葉を繰り返し、為介が深く眉をひそめる。
「ボクは何にも、迷ってなんてない」
その言葉を否定するように、はっきりと言い放つ。
「ボクは忙しいんだ。失礼するよ」
冷たく言い切ると為介は、ウズラへと背を向け、強く足音を響かせながら、廊下を突き進んでいった。薄く微笑んだままのウズラが見送る中、為介が角を曲がり、ウズラからその姿が完全に見えなくなるところまでやって来ると、そこでふと、足を止める。
―――何だ、居たの。別に居なくなってくれても、良かったのに―――
「……っ」
思い出される冷たい言葉に、為介が小さな体を、さらに小さく屈め込む。
「迷ってなんて、ない…」
為介のその声は、まるで自分に言い聞かせるような、弱々しく、か細い声であった。
「ったく、何なんだよ!あのクソガキャア!」
為介の去った部屋では、明が、全力の大声をあげながら、為介への怒りを爆発させていた。
「いちいち、いちいち、生意気な口ききやがってぇ!あいつの成分は全部、クソ生意気で構成されてんのかぁ!?ああ!?」
立ったまま、両拳を握り締めて、天井へ向けて、ひたすら大声を飛ばしている明に対し、近くに腰掛けた恵や遠久が、迷惑そうな表情を見せ、手で軽く耳を塞いでいる。
「なんで、あんなクソガキ、合格させやがったんだよ!?遠久!」
「遠久のせい、みたいに言うんじゃねぇ。阿呆明」
「んだとぉ!?恵、こらぁ!」
明がさらに顔をしかめ、冷たく言い放った恵を睨みつける。
「まぁまぁ二人共ぉ~落ち着いてぇ」
殺気立つ二人を、ウズラが笑顔で宥める。
「うぅ~ん…」
「ん?」
宥めていたウズラが、恵のすぐ隣の席で、何やら気難しい表情を見せ、悩み込むような唸り声を漏らしている遠久に気付き、首を傾ける。
「どうしたのぉ?とぉクン」
明るく笑みを零し、ウズラが遠久へと問いかける。
「いえ、やっぱり、俺の思い違いだったのかなぁって思って」
「思い違い?」
「はい。神試験で戦ってた時、確かにあの子は、言葉を大切にしてるって、直感で何かこう、思ったんですけど…」
話を続けながら、遠久の表情が徐々に曇っていく。
「でも、今までの言葉の数々を聞いてると、やっぱり思い違いだったのかなぁって」
先程の為介の姿を思い出すように、遠久が部屋の扉の方を見つめ、目を細める。
「違ってないんじゃないかな、たぶん」
「え?」
ウズラの言葉に、戸惑うように振り向く遠久。
「当たってると思うよ。とぉクンの直感」
「それって、どういう…」
「俺、聞いたんだ。あのクソガキのこと」
『……?』
遠久がウズラへと問いかけようとしたその時、部屋の逆側で集まっている、五十音士たちの声に気付き、ウズラと遠久が同時に振り向く。言い争っていた明と恵も、その声が聞こえた様子で、同じように振り向いていた。会話をしているのは、先程の為介の発言に、怒りを露にしていた連中である。
「あいつ、結構な資産家の息子らしいぜ?ま、子供は子供でも、愛人の子供だけどな」
「マジ?」
「マジマジ。家があいつの存在隠したがってさ、学校にも行かせずに、ずっと家に閉じ込めてたんだと」
集団の中央に立った若い音士が、面白可笑しく、為介の話をしている。
「実の親からすら、口きいてもらえなくって、ずっと、誰ともろくに会話せずにきたらしいぜ」
「だっから、あんなに会話、下手クソなのかよぉ。あのガキ」
「そうそう!要は、人と会話するってことの、練習が足りてねぇんだよ」
話を続ける音士が、楽しげに笑う。
「んな、人間としても終わってる奴、言葉の神にすんなって感じだよなぁ!ハハハハハ!」
音士の笑い声が、部屋全体に響き渡った。
「おい」
「ハハハ…!あ?」
背後から掛けられる声に、その音士が、やっとその笑い声を止め、振り返る。
「ああ、安の神!」
音士が振り返ったその先に立っていたのは、先程までの怒り狂った表情からは一転し、静かな、落ち着いた表情を見せた明であった。
「あんたから、韻本部へちょっと言ってやってくれよ!人との会話にも慣れてない、残念なお子様を神になんかしておくなって」
立ち上がった音士が、明との距離を詰め、どこか馴れ馴れしく言葉を放つ。
「最強神って言われてる、あんたからの意見なら、韻もちったぁ、取り入れ…」
「それ以上、喋んな」
「へ?」
明から放たれた、鋭く短い声を、聞き取りきれなかったのか、音士が目を丸くする。
「何だ?何て言っ…」
「だっからそれ以上、くだらねぇこと喋って、言葉を汚すなっつってんだよ!」
聞き返そうとした音士に、明が勢いよく右拳を振り上げた。
「ぐあああ!」
『え…!?』
明の振り上げたその右拳が、音士の頬に見事に炸裂し、辺りの机や椅子を巻き込んで、音士の男が勢いよく後方へと吹き飛ばされていく。響く大きな音に、その音士の周りに集まっていた、他の音士たちが皆、目を見開き、驚きの表情を見せる。
「安、安の神…?」
「たった十二歳のクソガキ相手に、くっだらねぇ言葉ばっか、吐きやがって…」
皆が戸惑うように見つめる中、明が下ろした拳を、力強く握り締める。
「どっちが練習、足りてねぇんだよ!それでも五十音士かぁ!てめぇらはぁ…!!」
『ぎゃあああ!』
怒り狂った明が叫びあげ、近くに居る五十音士たちへと、力一杯握り締めたその拳を振り上げる。明に殴られ叫ぶ者、明から必死に逃げ惑う者で、部屋の中は、一気に大騒ぎとなる。
「お、落ち着いて下さい、安の神!」
「どうか、冷静に!冷静にぃ!」
同じ五十音士を相手に暴れ回る明を、部屋に居合わせた韻の従者たちが、必死に取り押さえるが、明の力は強く、なかなか押さえきれない様子だ。
「あーあ、やっちまった。あの阿呆」
「やっちゃったねぇ~」
「やっちゃいましたね」
そんな明の様子に頭を抱えながらも、止めようとする素振りは見せない恵。ウズラは笑顔で見守り、遠久も特に慌てずに、落ち着いた表情を見せている。皆、どちらかというと、こうなることがわかっていたような様子だ。
「こりゃまた、しばらく謹慎だな」
「止めなくていいんですか?正一さん」
暴れ回る自身の神を見つめながら、どこか暢気に呟く正一に、芽衣子が呆れた視線を向ける。
「あいつが謹慎になってくれりゃあ、俺の仕事が減っていいんだよ」
「そうですか…」
無責任な正一の発言に、芽衣子は深々と肩を落とす。
「安の神!落ち着いてぇ!」
「俺はいつだって、落ち着いてるってのぉ!」
必死に止める従者たちと、明の怒号が、部屋中に響き渡った。




