Word.69 神ニ、託ス 〈4〉
言ノ葉高校、国語資料室。
「失礼します」
「遅いぞ」
資料室へと入って来たアヒルの姿を見た途端、部屋の中で本を読んでいた恵は、不機嫌な表情をアヒルへと向けた。
「居残り掃除にまで、遅刻するんじゃねぇ。とっとと昨日の書庫整理の続きを…」
「恵先生」
「あ?」
不意に言葉を遮るアヒルに、恵が戸惑うように眉をひそめる。資料室の扉を閉じたアヒルは、その前に立ち、ゆっくりと俯けていた顔を上げた。
「……っ」
顔を上げたアヒルの、その決意した表情を見て、恵がハッとした表情となる。察した様子で、恵は素早く読んでいた本を閉じ、椅子から立ち上がった。
「朝比奈、お前…」
「親父に言った方がいいのか、母さんに言った方がいいのか、色々と悩んだんだけどさ」
恵が眉をひそめる中、アヒルが恵へと、笑顔を向ける。
「やっぱり最初に、恵先生に言っておきたいって思って」
笑うアヒルを、言葉もなく、ただ見つめる恵。
「俺の決めた答え、俺の選んだ、最後の道を」
「……ああ」
少し間をあけて、恵が聞くことを了承するように、そっと頷く。
「俺、今日一日、ずっと“言葉”について、考えてた」
恵へと語りかけるように、アヒルが話を続ける。
「皆の言葉を一つ一つ聞いて、俺自身の発した言葉を思い返して、周りで行き交ってる言葉を、何個も何個も耳に入れた」
恵は口を閉じたまま、真剣な表情で、アヒルの話に耳を傾ける。
「そんで、思った」
自身の思いを確認するように、アヒルが自分の胸元へと視線を落とす。
「俺は、“言葉”が好きだ」
噛み締めるように言葉を発し、大きく笑みを浮かべるアヒル。
―――グッドモゥモゥモーニング!アーくぅ~ん!―――
―――うるさい、早くしろーーー
―――さぁ、たぁーんとお食べ…フフフ…―――
―――はぁ!こんな俺がすみませぇ~ん!―――
―――おはよう、朝比奈くん―――
「挨拶も、笑い声も、怒る声も、さりげない言葉の一つ一つが、本当に全部好きだ」
今日一日に、行き交った言葉の数々を思い出し、アヒルがその表情全体から、笑みを溢れ出させる。
「そして、それは、“安の神”だから、好きなんじゃない」
顔を上げたアヒルが、再びまっすぐに恵を見つめる。
「“安の神”になる前から、ただの朝比奈アヒルだった頃から、俺は、“言葉”が大好きだった」
「……っ」
アヒルのその溢れる笑みに、恵も思わず、笑みを零す。
「ああ、そうだな」
アヒルの言葉を認めるように、大きく頷く恵。恵は、安の神に、五十音士になる前のアヒルも、よく知っている。そして、なる前からアヒルが、言葉を大切にしていたことも、十分理解していた。
「安の神だからじゃなくって、俺は、俺だから、朝比奈アヒルだから、言葉を、皆の言葉を守りたいんだ」
その思いの強さを表すように、アヒルが強く拳を握り締める。
「だから、俺は…」
恵をまっすぐに見据えたアヒルが、言葉の力を溜めるように、少しだけ間を置く。
「安の神として、皆の言葉を守るために戦う」
アヒルの声が、資料室に、強く響き渡る。
「安の神として、“を”の文字を、すべての五十音士の文字を、消す」
「…………」
まっすぐにアヒルを見つめた恵が、アヒルの選んだその答えを聞き、複雑そうに、表情を曇らせる。
「本当に、いいのか…?」
最後の確認をするように、アヒルへと問う恵。
「そう決めてしまったら、お前が、すべての五十音の重みを、背負うことになるんだぞ…?」
「……わかってる」
少し視線を落とし、アヒルが短めに頷く。
「でも、もう決めたんだ」
そっと笑みを零し、再び顔をあげるアヒル。
「この重みを、背負っていくって」
「…………」
何の迷いもないまっすぐな瞳で、何の曇りもない晴れやかな笑顔で、そうはっきりと言い放つアヒルを見つめ、恵はどこか苦しげな表情を見せるが、言葉を返すことはしなかった。
「それに、本当は、結構前から、五十音士の“言葉”ってものに、ちょっと疑問持ってた」
「疑問…?」
「ああ」
眉をひそめた恵に、アヒルが大きく頷く。
「持ったのは、始忌との戦いの後なんだ」
アヒルが少し歩を進め、扉の前から、資料室の中へと進む。
「俺は結局、伍黄を倒すっていう選択をしたけど、あれは本当に正しかったのかなって」
―――あの俺の痛みが、こんなに簡単に、掻き消されてたまるかぁぁ…!―――
今も胸に刻みつき、決して離れようとしない、あの戦いの時の伍黄の、心からの叫び。
「俺は、五十音士の言葉で、勝手に生み出されてしまったあいつを、長年の痛みから逃れようと、ただ必死だったあいつを、言葉を守るために消した」
「それはっ…」
アヒルの言葉を素直に受け入れられなかったのか、恵が思わず、すぐさま口を開く。
「それは…」
だが、口を開いた恵も、アヒルのやったことが正しかったと、そう言い切ることは出来ず、そっと俯いてしまう。
「五十音士は、言葉の重みを知る者…」
恵が何も言えぬうちに、アヒルがさらに言葉を続ける。
―――俺以外の神など、この世には必要ない…!―――
―――それでも私は、たった一つの言葉が欲しい…!―――
「言葉を何よりも重んじてるから、時に、言葉に狂わされる…」
―――俺に、俺たちに…カー兄を返せよぉ…!―――
―――俺から大切なものを奪った言葉が、絶対に“許せない”…―――
「言葉を何よりも重んじているから、時に、言葉を許せない…」
イクラの、和音の、阿修羅の、必死な、そしてどこか悲しげだった姿を思い出し、アヒルが俯いたまま、目を細める。
「もしかしたら五十音士は、言葉を、重いものにし過ぎちまったんじゃないかなって」
「……っ」
恵が視線を落とし、何やら考え込むような表情を見せる。
「確かに、そうなのかも知れないな」
「うん。だからもう、終わらせるんだ」
頷いたアヒルが、その場に立ち止まり、笑みを零す。
「たくさんの痛みを、悲しみを生み出してきた五十音士を、俺たちの代で、この時代で、終わらせる」
アヒルが、決意した表情を、再び恵へと向ける。そんなアヒルを見つめ、恵はどこか不安げな表情を見せた。その恵の不安を感じ取ったのか、アヒルが安心させるように、大きく笑う。
「大丈夫」
満面の笑みで、自信満々に言葉を放つアヒル。
「五十音士がいなくなっても、言葉がなくなるわけじゃない」
アヒルが胸へと手を当て、自分自身にも言い聞かせるように、言葉を続ける。
「人が、胸の中に眠る思いを伝えたいって思えたら、伝えたいって思える相手に出会えたら、言葉はきっと、続いていける」
大切なものを噛み締めるように、一つ一つの言葉を、丁寧に落としていくアヒル。
「小さな小さな、人の思いを伝って、この長い時の中を、ずっと…」
笑みを深くし、アヒルがまた、顔を上げる。
「俺はそう、“信じる”」
「……っ」
アヒルの眩しいばかりのその笑顔を見つめ、恵はさらに、その瞳を細めた。
「随分と、洒落たことを言うんだな。トンビのくせに」
「だから俺はアヒルだっての!」
相変わらず名を間違える恵に、アヒルが大きく口を尖らせる。
「っつーか、ほとんど受け売りなんだ。さっき篭也から、カー兄の言葉、教えてもらってさ」
「そうか。あいつの言葉か」
笑顔を見せるアヒルに、恵がすぐに納得するように頷く。
「どうりで、効くはずだ…」
「え?」
小さな声で落とされた恵のその言葉を、アヒルは耳に入れることが出来なかった。
「お前がそこまでの覚悟を決めて、この戦いに臨もうとしてくれてるっていうのに、黙っとくってのは、筋が通らねぇよな」
「え…?」
今度は言葉を聞きいれるが、その意味がわからず、戸惑うように首を傾げるアヒル。
「先生?」
「朝比奈」
呼びかけるアヒルに対し、名を呼ぶことで答える恵。
「私が自分の言葉、“永遠”で、若さと命を永遠のものにしたって話した時、お前、言ったよな?」
確認するように、恵がアヒルへと問いかける。
「“なんで、そんなこと”って…」
「それは…」
恵の言葉に、アヒルがどこか気まずそうに俯く。まるで、恵を責めるような言葉。アヒルは決して、恵を責めようと思って言ったわけではなかった。ただ、あの時は、あの言葉が出てきてしまったのだ。
「その言葉に、今、答える」
「え?」
答えると言った恵に、アヒルが驚いた様子で顔を上げる。
「何故、“遠の神”永遠が、生まれてしまったのか、そのわけも…」
「恵、先生…?」
ひどく辛そうな、思い詰めたような、そんな表情を見せる恵に、戸惑うように首を傾げるアヒル。
「永遠は、私の言葉“永遠”により、私と同じように永遠の時を生きることとなった者」
恵がゆっくりと視線を上げ、その瞳で、アヒルの姿を捉える。
「私の、“弟”だ」
「え…?」
その言葉に、アヒルの表情が止まる。
「弟…?」
――――死にたくない。死にたくないよ、お姉ちゃん。
ただ、君がそう、願ったから……。




