Word.69 神ニ、託ス 〈2〉
翌朝。言ノ葉町、小さな町の八百屋『あさひな』。
「んん~…流し、そうめん…」
自室の寝台の上で大きく寝返りを打ちながら、何とも気持ち良さそうに、寝言を呟くアヒル。その直後、阿アヒルの部屋の扉が、勢いよく開いた。
「グッド、モゥモゥモーニング!アーくぅ~ん!」
全力で声を張り上げ、部屋へと飛び込んできたウズラが両手に握り締めているのは、大量のもやし。
「レッツ、流しもやしぃ~!」
「ぶふ!」
ウズラが両手いっぱいのもやしを、寝ているアヒルの顔面に向かって投げつける。大きく開いていた口の中にもやしが飛び込んできて、アヒルが呼吸を乱したのか、苦しげな声を漏らす。
「あ、起きたぁ?アーく…」
「全然、流れてねぇぇ!」
「いやぁぁぁ!」
勢いよく起き上がったアヒルが、その起き上がった反動を利用し、思いきり右足を振り上げる。アヒルの右足がウズラの顎を蹴り上げると、ウズラの容赦ない悲鳴が、家中に響き渡った。
「酷いよぉ~アーくぅ~ん」
赤く腫れ上がった顎を押さえながら、ウズラが涙目となって、床にしゃがみ込む。
「息子をもやしで呼吸困難に追い込むことの方が、酷いだろうが!だいたい、俺が呼んだのはそうめんだ!」
「もやしも、つゆにつけたら美味しいよ?」
「つゆの問題じゃねぇ!」
ウズラに怒鳴りあげながらも、散らばったもやしを、丁寧に片づけていくアヒル。片づけながらも、横目で情けない父の姿を見つめ、深々と溜息を吐く。昨日、永遠に相対した時の、勇ましい父の姿など、今は欠片も見当たらない。
「ったく、やっぱりいつもの親父かよ」
「へぇ~?」
「いや、いい。何でもない」
諦めたようにそう言うと、アヒルは集めたもやしを机に置いた。
「アヒルー!ついでに親父も、そろそろ飯だぞー!」
「おぉーう!」
「お父さんついでにって、どういうこと!?スーくぅ~ん!」
何一つ変わらず、いつものように騒がしく、朝比奈家の朝が始まった。
「さぁ、アヒるん。たぁーんとお食べ…」
「…………」
学校へ行く準備を整え、一階の居間へと降りたアヒルに、鍋を差し出したのは、囁であった。紫色の煙の噴き出している鍋を見つめ、アヒルが固まる。
「作ってから時間経っちゃったけど…ちゃんと温め直したから…」
確かに温かそうな煙は出ているが、問題は温かいか冷たいかではないように思える。
「ちなみに、これは何だ?」
「ビーフストロガノフよ…」
「いや、俺料理詳しくないけど、絶対別物だぞ!?これ!」
鍋を指差し、アヒルが必死に訴える。
「料理の見た目なんて、作る人によって違うのよ…」
「違い過ぎだろ!?」
「いいから、はい。あーん…」
「いやだぁぁぁ!」
鍋をすくったスプーンを差し出す囁から、必死に顔を逸らし、何とか逃れようとするアヒル。
「ゴタゴタ言うな。安の神の名が下がる」
「じゃあ、お前が食えよ!」
「バカ市、ご飯と味噌汁」
「はいはぁーい!」
「おい!」
アヒルに注意したものの、自分は保の作った安全な朝ご飯を食べようとする篭也に、アヒルが思いきり表情をしかめ、怒鳴りあげる。
「はぁ!こんな人並みに出来るのは料理だけの俺が、一丁前に神月くんの言葉に答えちゃって、すみませぇ~ん!」
「うるさい、早く運べ」
「アヒるん…自発的に食べないなら、無理やりいくわよ…?」
「ぎゃあああ!」
謝り散らす保や、アヒルを追いかけ回す囁で、居間は大混乱となる。
「ああー、うっせ」
台所に立ちながら、あまりにも騒がしい居間の声に、思わず顔をしかめながら、耳に人差し指を入れるスズメ。朝から聞くには、この大声は苦痛である。
「スーくん、お父さんのご飯はぁ?」
「ほら、キャベツの千切り」
居間を抜け、台所へとやって来たウズラが、スズメから差し出された、ボールいっぱいの千切りキャベツを見て、固まる。
「お父さんは、カブトムシさんじゃないんだよぉ!?スーくん!」
「当たり前だろ。カブトムシに謝れ」
「がぁーん!」
スズメのあまりに冷たい言葉を受け、ショックを受けたウズラが、その場にしゃがみ込む。
「うぅ…酷いよぉ。仮にも自分の神様にぃ…」
「家庭内では、神だの神附きだのは一切無しって、僕らが宇団に入る時、そう決めたのは父さんでしょう…?」
空になった洗濯かごを抱えたツバメが、庭から家の中へと戻って来ながら、ウズラへと声を掛ける。
「そうそう!家ん中では、宇の神も宇附もなしなし!」
「じゃあ、一家の大黒柱のお父さんを敬う気持ちは…」
「さ、弁当作ろ」
「掃除、掃除…」
「ううぅ…」
ウズラの訴えをあっさりと無視し、スズメとツバメが、それぞれ家事に励んでいく。するとウズラは、さらに深く俯き、悲しげな声を漏らした。
「おはようございまぁーす」
その時、通用口が開き、すっかり準備を整えた紺平が、アヒルたちを迎えにやって来る。
「いつものように、お邪魔しまーす」
「紺平!」
「へ?」
最早、遠慮もなく朝比奈家に入ろうとした紺平が、居間から廊下へと飛び出し、必死にこちらへと駆けてくるアヒルに気付き、目を丸くする。
「ガァ?どうかし…」
「俺の代わりに食ってくれ!」
問いかけようとした紺平の肩を掴み、切羽詰まった表情で、必死に懇願するアヒルの後ろに、紫色の煙を放つ鍋を抱えた、囁の姿。
「無理」
「ええぇ!?」
「フフフ…」
当然ながら即答する紺平に、アヒルは大きく驚き、囁は不気味に微笑んだ。
同じ頃。言ノ葉町、町の小さな何でも屋さん『いどばた』。
「ふんふふん、ふぅ~ん」
アヒルたちと共に言ノ葉町へと戻った為介は、自身の屋敷でわずかの仮眠を取ると、今日も定刻通りに起床して、開店準備を整えていた。鼻歌に合わせ、ハタキを振る手が揺れる。
「さぁーて、今日はどの商品を、目玉商品にしちゃおっかなぁ」
楽しげに声を弾ませ、為介が店の棚に並んだものを見回す。すると為介の視界に、どこか間の抜けた表情の怪獣型の、割と大きめサイズの置時計が飛び込んできた。為介がすぐに、その時計を手に取る。
「うん、この時計なんかもい…!」
しっかり動く針と見て、為介の言葉が途中で止まる。
―――年を取ったね、為介…―――
「……っ」
二十数年振りに出会った少年の言葉を思い出し、為介がその表情を曇らせる。
「おはようございます」
その時、店の扉が開き、きっちりと学校の準備を整えた雅が、姿を見せた。
「為介さん。今日なんですけど、僕、部活で…」
扉を閉じた雅が、為介の方を振り向くと、発していた言葉を途中で止める。
「為介さん…?」
変なデザインの置時計を見つめ、茫然と立ち尽くしている為介の様子に、戸惑うように首を傾げる雅。その声に気付いたのか、少しハッとなった為介が、やっと雅の方を見た。
「やぁおはよう、雅くん。今日は部活の日?」
「え?あ、はい」
何事もなかったかのように、笑顔で問いかけてくる為介に、雅が少し戸惑いながら頷く。
「そう。まぁじっくりコトコト、励んでおいでぇ」
為介の笑顔を見つめ、雅がそっと眉をひそめる。
「為介さん」
「んん~?」
「大丈夫、ですか…?」
「……大丈夫」
少しの間を置いて、為介が雅に、鋭い笑みを向ける。雅を安心させるというよりは、雅のそれ以上の発言を許そうとしないような、そんな笑みであった。
「早く学校に行きなぁ。遅刻しちゃうぞぉ?」
一瞬の鋭さを隠し、いつもの軽い口調で言葉を投げかける為介に、雅が少し困ったように、肩を落とす。
「わかりました。行ってきます」
どこか諦めるようにそう言うと、雅は店を出て行った。戸の閉まる音が響き、店がまた密室になる。
「…………」
その静かな空間の中で、目を細め、神妙な表情を見せて、再び置時計を見つめる為介。
「返事に困るのは、年を取っても同じだね…」
為介が小さく呟きを落とし、自嘲するような笑みを浮かべた。
「ぶっはぁ…」
学校へと向かう道を歩きながら、少し顔色を青くしたアヒルは、肩を落とし、深々と溜息を吐いた。
「三途の川が見えた…」
「あら、そんなに誉められると照れるわ…」
「誉めてねぇ!」
すぐ隣を歩きながら、頬に手を当て微笑む囁に、アヒルが勢いよく怒鳴りあげる。
「こんな俺ですけど、今度は、川が見えるくらいの料理が作れるよう、頑張りますぅー!」
「頑張らんでいいわい!」
逆隣から決意表明してくる保にも、怒鳴るアヒル。
「おぉーい、朝比奈!」
「ああ?」
いつものように、道の前方から聞こえてくる聞き覚えのあるその声に、アヒルが思いきり表情をしかめ、鬱陶しそうに振り向く。
「ここで会ったが、百年目ぇぇ!」
『昨日振りっス!アニキ!』
「うるっしゃーい!」
アヒルたちの前へと現れたのは、例によって、多くの子分を引きつれた守であった。
「あ、真田さん、おはようございまぁーす!」
「おはよう」
一転してデレデレとした表情となって、守が囁に手を振ると、囁も微笑みを浮かべ、手を振り返す。
「よぉーし、じゃあ朝比奈!今日という今日こそ、コテンパンのパンダのお昼寝にしてやるぞぉ!」
「今日、体調不良だからやめね?」
「にゃにをぉ?」
まだ気持ち悪そうに腹をさすりながら、弱々しく言うアヒルに、守が大きく眉をひそめる。
「何が体調不良だ!気合いが足りん、気合いがぁ!一丁、俺が気合いを注入してやろう!」
そう意気込んで、守が両拳を構え、アヒルへと駆け込んでいく。
「おりゃああ!」
「あー、気持ち悪い」
「ぐおおおぉう…!」
『アニキぃぃ!』
アヒルが力なく言葉を落としながら、腹をさすっていた手を、向かってきた守へと素早く突き出す。その手が見事にみぞおちに突き刺さった守は、何とも苦しげな声をあげながら、その場に崩れ落ちる。そんな守へと、必死に駆け寄っていく子分たち。
「何してくれてんだぁ、朝比奈!相手はアニキだぞぉ?すんごく手加減しろぉ!」
「そうだ!弱い者いじめして、楽しいかぁ!?」
「アニキは夢見がちな人なんだぁ!現実の厳しさ、教えんじゃねぇ!」
「お前等の言葉も、大概、酷いけどな…」
口々に訴える子分たちの、守を庇えていないその言葉に、アヒルが思わず呆れた表情となる。
「相変わらず、騒がしい連中だな」
「ホント」
立ち止まっているアヒルたちの少し後方を歩きながら、篭也が呆れ果てた様子で肩を落とす。篭也の言葉に、横を歩く紺平も、深々と頷いた。
「けど、結構普通なんだね」
「ん?」
紺平のその言葉に、篭也が眉をひそめ、振り向く。
「俺も一応さ、昨日のこと全部、檻也くんから聞いたんだ」
「そうか」
昨日起こった、あまりに多くの出来事を思い出し、篭也が少し視線を落とす。
「だから正直、今日の朝、どんな顔してガァに会えばいいのか、ちょっと悩んじゃって…」
紺平が前を歩くアヒルの背を見つめ、少し目を細める。あの背に、世界中のすべての人々の言葉が、すべての五十音士の運命が、負われているのかと思うと、見ているこちらが震えるような、そんな心境だった。
「でもガァも皆も、すっごくいつも通りなんだもん」
朝一番のアヒルの様子を思い出し、紺平が少し肩を落とす。
「何か少し、拍子抜けっていうかさぁ」
「無理やり、普通にしているのかもな」
「え…?」
篭也のその言葉に、紺平が戸惑った様子で振り向く。紺平が振り向くと、篭也は先程までの紺平と同じように、アヒルの背を見つめ、神妙な表情を見せていた。
「神月くん?」
「無理やり、普通にしているのかも知れない。神も、皆も」
篭也がアヒルの背へと送っていた視線を、そっと空へと上げる。
「こんな、当たり前の日常を過ごすのは、もう、最後かも知れないからな…」
「……っ」
篭也の言葉が何を意味しているのかを知り、紺平も眉をひそめ、表情を曇らせる。
「おっはよ、ガァ!」
「おはよう、朝比奈くん」
「おう、おはよう。想子、奈々瀬」
前を行くアヒルが、横道からやって来た七架と想子に遭遇し、互いに笑顔で挨拶を交わす。
「ガァがこんな時間に登校なんて、明日はヤリでも降るんじゃなぁ~い?」
「うっせぇ、クソ想子」
「アハハ」
「ほぉーら、ナナに笑われた」
「お前のせいだろうが!」
悪戯っぽく言う想子に対し、しかめっ面を向けるアヒル。そんな二人の様子を見て、七架が楽しげに笑う。そんなアヒルたちの様子を見つめながら、紺平はそっと、目を細めた。
「最後の日常、か…」
言ノ葉高校、一年D組。
「おらぁー、とっとと席つけぇ」
やる気のない口調を飛ばしながら、片手に出席簿を抱え、教室へと入って来る恵。恵の言葉に、皆がすぐに自分の席に向かい、腰を下ろす。
「出席取るぞぉ。居る奴は、口に拳入れて、早口言葉言えぇー」
「出来るかぁ!」
「んあ?」
勢いよく返ってくるツッコミに、教壇に立った恵が、出席簿から視線を上げる。
「おう、トンビ。お前が遅刻じゃねぇとは、珍しいな」
「だっから俺はトンビじゃなくて、アヒルだっての!」
「どっちでもいいだろうが」
「どっちでも良くねぇ!」
アヒルと恵のやりとりを、クラスの者たちは皆、慣れた様子で聞き流す。
「あ、そうだ。高市」
「聞けい!」
あっさりとアヒルを無視し、その横の保へと視線を移す恵に、アヒルが席から立ち上がって抗議をする。
「お前、昨日の反省文やり直しな」
「はぁ!こんなサルよりも反省してない俺が、二度も反省文書いちゃってすみませぇ~ん!」
恵の言葉に、謝り散らして答える保。
「んで、朝比奈は居残り掃除」
「なんで!?今日、俺、遅刻してねぇーじゃん!」
「何となくだ」
「何となくって何だぁ!?体罰で訴えんぞぉ!?」
恵の勝手な主張に、立ち上がったままのアヒルが、さらに声を張り上げる。
「うるさい」
「フフフ…」
「相変わらず、騒がしい連中ねぇ」
「そ、そうだね」
そんなアヒルたちの様子を見ながら、口々に言葉を落とす篭也、囁、想子、七架。クラスの皆も笑い声を漏らし、教室は明るい空気に包まれていく。
「絶対、訴えてやる!」
「はいはい。じゃあ出席、取るぞぉ」
アヒルたちの当たり前の時間が、当たり前のように、過ぎていっていた。




