Word.69 神ニ、託ス 〈1〉
―――世界中のすべての人間が、その行動を停止し、やがて死に至るでしょう…―――
アヒルの母、茜により伝えられたのは、衝撃の現実であった。
「世界中の皆の、すべての言葉が、終わって…」
「すべての人間が、死ぬ…」
その衝撃的で、絶望的な現実に、部屋にいる誰もが言葉を失い、光の灯らない暗い表情を見せた、顔を上げる気力もなくし、ただ深く俯く。どうすることも出来ない状態であることを、誰もが瞬時に悟り、諦めてしまっていた。
「そう、暗い顔をなさらないで下さい」
「この状況で無茶を言うな」
俯いた皆へと声を掛ける茜に対し、篭也が突き放すように答える。
「五十音士では、遠の神には勝てない。遠の神の言葉により、世界中の言葉が終わる。これでどう、悲観的にならずにいろと…」
「まだ、方法はあります」
『え…?』
茜のその言葉に、俯いていた皆が一斉に、顔を上げる。
「世界中の言葉を守る、方法が」
「な、何だ!?」
思わず立ち上がり、アヒルが身を乗り出して、茜へと問いかける。
「その方法って、一体…!」
「それは…」
茜がゆっくりと視線を動かし、座った状態のまま、立ち上がったアヒルを、まっすぐに見上げる。
「あなたです、アヒル」
「へ?お、俺?」
正面から茜の視線を浴び、アヒルが戸惑うように声を漏らす。
「俺って、どういう…」
「この場には、二つの文字の力を持った五十音士が、数名います」
茜が真剣な表情を見せ、言葉を続ける。
「まずは、今言ったように、“あ”と“う”の文字を持っている、アヒル」
アヒルへと向けられていた茜の視線が、再び動き出す。
「それから、“ゑ”と“め”の文字を持つ恵、“ゐ”と“い”の文字を持つ為介」
恵と為介を捉え、茜がさらに視線を動かしていく。
「それに、“た”と“は”の文字を持つ、高市保さん」
「へぇ!?お、俺ですかぁ!?」
茜に名を呼ばれ、保が慌てて声をあげる。
「はぁ!こんな存在感薄い俺が、皆さん差し置いて、名前呼ばれちゃってすみませぇ~ん!」
「まぁ、高市さんの場合は、波城灰示さんと合わせての二文字ですけど」
保が席を立ち、頭を抱えて、謝り散らしている間に、茜が笑顔でひっそりと付け加える。
「そして最後に…」
茜の視線が、アヒルのすぐ横の席へと辿り着く。
「“か”と“お”の文字を持つ、神月篭也さん」
「へ?“お”?」
「……っ」
アヒルが目を丸くして、首を傾げるその横で、篭也は眉をひそめ、どこか気まずそうに、そっと俯く。
「二つの文字を持っていることが、一体、何だというのです…?」
篭也へと集まった視線を逸らさせるように、囁が茜へと問いかける。
「二つの文字を持っていれば、例え永遠の“无”の力を受けても、一撃で倒れずに済むのです」
囁の方を振り向き、茜が少し笑顔を見せる。
「他の神が倒れた中で、アヒルだけが唯一、倒れずにいられたのは、二つの文字を持っていたからこそ」
「そういや、あの桃雪とかってのも、そんなこと言ってたな」
桃雪の言葉を思い出しながら、アヒルが再び、自分の席へとつく。
「二つの文字を持っていれば、例え、一つの文字が終わらされても、もう一つの文字で攻撃することができ、尚且つ、その間に終わらされた先の文字を再解放することが出来るのです」
強く説明を続けながら、茜が机の上に置かれた両手を、握り締める。
「二つの文字を駆使すれば、永遠を倒すことも可能なはず」
「成程ねぇ…」
茜の説明に、囁が感心するように頷く。
「け、けど、それって…相当に難しいことのような…」
「そうねぇ。あまり上手くいくとも思えないわ」
「ですが」
冷静に分析し、険しい表情を見せる七架と囁に、茜がすぐに言葉を掛ける。
「諦めれば、それこそ、すべて終わりなのです」
『……っ』
茜の言葉に、二人がそっと眉をひそめる。
「それしか方法がないんだ。黙って見ているわけにもいかないし、そうするしかないだろう。神」
「あ、ああ。そう、だな」
鋭く呼びかける篭也に、アヒルが少し歯切れ悪く頷く。
「えぇっと、じゃあとにかく遠の神を見つけ出して、俺たち五人で遠の神をっ…」
「その前にもう一つ、アーくんたちに話しておきたいことがあるんだぁ」
「へ?」
皆へ指示を送ろうとしたアヒルの声を、ウズラが遮る。
「あなた、それは…」
「きちんと話しておいた方がいいって、俺はそう思うんだよ。茜ちゃん」
どこか止めるように振り向いた茜に、ウズラが穏やかな笑顔を向ける。
「その方がきっと、後悔しない」
「……わかりました」
ウズラのその言葉に、茜はそっと目を細め、少し間を置いた後、ゆっくりと頷いた。
「な、何だよ?一体」
両親のただならぬ様子を察し、アヒルが緊張した面持ちとなって、躊躇いつつも、ウズラへと問いかける。
「永遠の持つ“を”の文字というのは、五十音、第五十音。つまり、五十音最後の文字になる」
真剣な表情を見せ、ウズラが落ち着いた口調で続ける。
「五十音を締めくくる、五十音最強の文字」
「だから、何だよ?“を”の文字が強いってことは、母さんの話で十分に…」
「その最強の文字を消せば、つまり、“を”の文字の力を持つ永遠を倒せば…」
アヒルの言葉を遮り、ウズラがまっすぐに、アヒルを見つめる。
「五十音士の持つ、すべての文字の力が失われる」
「え…?」
ウズラのその言葉に、アヒルの表情が止まる。
「すべての文字の力が、失われる…?」
「うん」
戸惑いの表情で聞き返したアヒルに、ウズラが深く頷く。
「“を”を消せば、私の“さ”も、アヒるんの“あ”も篭也の“か”も、すべての文字の力が消えてしまうということ…?」
「うん。それも、今の五十音士だけが、力を失うんじゃない」
ウズラが眉間に皺を寄せ、厳しい表情を見せる。
「文字そのものが力を失うから、五十音士の存在、そのものが失われてしまうだ」
「どういうことだ?何故、そのような…」
「わかりません」
鋭く、追及するように問いかける篭也に、今度は茜が口を開く。
「ただ、それが、五十音のルールなのです」
その掟を知らせるように、はっきりと響く茜の声。
「“を”の文字を消せば、他のすべての五十音も消える。この世に五十音士が誕生した時から、決まっていたこと」
「決まって、いたこと…」
茜の言葉を、茫然とした表情で繰り返す篭也。篭也と同じようにアヒルも、他の皆も、衝撃を隠しきれない表情となっていた。
「だからこそ韻は、二十数年前、永遠を倒そうとした旧世代の神々を、反逆者とし、五十音の世界から追放しました」
茜も険しい表情となって、言葉を続ける。
「永遠により、すべての言葉が終わらされてしまうことよりも、五十音士による韻の統制が崩れてしまうことを恐れたのです」
「じゃあ…」
アヒルがまだ戸惑いの表情を見せたまま、小さく声を漏らす。
「じゃあ、親父たちは…」
下に向けられていたアヒルの視線が、まっすぐにウズラを捉える。
「自分たちの文字が、五十音士がすべて消えるってわかってて、それでも、遠の神を倒そうと…?」
「……うん」
アヒルの問いかけに、薄く笑みを零した状態で、ウズラがそっと頷いた。
「永遠にあんな暴走を許してしまったのには、俺たちに責任があったし、それに何より」
ウズラが笑みを深くし、アヒルと真正面から目を合わせる。
「世界中の言葉を終わらせることだけは、させたくなかったから」
「……っ」
そう言って笑う父をまっすぐに見つめ、アヒルが少し目を細める。
「けど、その選択を、アーくんたちに無理強いするつもりはない」
「え?」
考え込むように俯いていたアヒルが、ウズラのその言葉に、眉をひそめ、顔を上げる。
「今までずっと、自分たちの言葉を守るための戦いをしてきた、君たちだからね」
今までのアヒルたちの戦いを、すべて理解している様子で、ウズラが話す。
「永遠との戦いは、自分の言葉を消すための戦いになってしまう。君たちにそんな戦いをしろだなんて、俺は言えない」
顔を上げたアヒルに、ウズラは再び笑いかける。
「だって、今、君たちの持っている文字は、君たち自身のものだから」
「親父…」
「だから、君たち自身で考えて、選んでほしい」
ウズラの声が、どこか願うように響く。
「永遠を倒すために戦うかどうかを」
「け、けど…」
眉をひそめたアヒルが、押し出されるように、すぐさま声を出す。
「俺たちが文字を失いたくないって、そう選択しちまったら、遠の神が…」
「その時はまた、別の方法を考えるさ」
不安げに呟くアヒルに、その不安を拭い去るように、大きな笑みを向けるウズラ。
「俺はね、アーくん。君たち後生の五十音士に、後悔をさせたくないんだ」
「後悔…?」
「うん。俺たちの時代が、生み出してしまった永遠によって、君たちをこんなところまで、巻き込んできてしまった…」
「…………」
ウズラの笑みが、少し悲しげになる。恵もその言葉に深刻な表情となって、深々と俯く。
「せめてその、償いかな?償いにも、ならないだろうけど」
「そんなの…」
悲しく笑う父に、立ち上がり、大きな声で否定してしまいたいと思うアヒルであったが、今まで起こってしまった戦いの数々と、今のこの現状の厳しさに、それを口にすることは出来なかった。
「だから、最後の道は、君たちで決めて」
ウズラがアヒルたちを見回し、もう一度、大きく微笑みかける。
「僕の結論なら、もう出ている」
「へ?」
すぐに答える篭也に、ウズラが目を丸くする。
「我が神の意志が、僕の意志だ」
「篭也」
こんな状況下、こんな重い決断だというのに、何の迷いもなくはっきりと言い放つ篭也に、隣に座るアヒルが、少し驚いたように振り向く。
「フフフ…私も篭也と同じ答え…」
「お、俺もアヒルさんが決めることには、絶対賛成です!はぁ!俺なんかが、偉そうにすみません!」
「わ、私も、朝比奈くんが決めることに従います!」
「お前等…」
篭也と同じように、次々と答えていく安団の面々を見回し、アヒルが目を細める。
「安団の意志は、アヒルに委ねられたようですね」
「五十音すべてに係わる問題なんだしぃ、安団だけじゃなくって、他団にも聞いとかないとだと思いますけどぉ?」
「それなら今、この場で聞いてくれる?」
「へぇ?」
茜とウズラに意見していた為介が、入口の方から入ってくる声に、振り返る。その声に部屋の者たちが皆、視線を集めた。
「エリザべス」
「檻也」
恵と篭也が、それぞれ声を漏らす。入口から部屋の中へとやって来たのは、エリザと檻也、イクラ、そして三名の神附きの者たちであった。永遠に負わされた傷を治療中のはずであったが、謡の手当てが良かったのだろうか。皆、すっかり元気そうである。
「話はだいたい、聞いてたわ」
「盗み聞きは良くないって、幼少の頃、習いませんでした?エリザ様」
「うっさいわね!」
横から注意するように言う慧に、エリザが勢いよく怒鳴りあげる。
「皆さん、お怪我は?」
「だいたい治ってるわ。問題ないわよ」
「それに、大人しく寝ている場合でもなさそうだしな」
皆の体を気にかける茜に対し、エリザと檻也が口々に答える。
「とにかく!私、衣の神と衣団は、アヒルの決定に従うわ」
「俺たち於団も、安の神に委ねる」
「ええぇ!?」
次々と答えるエリザと檻也の言葉を聞き、驚きの表情となるアヒル。
「委ねるって、お前等…!」
「イクラくんはぁ~?」
アヒルが何やら言いたげにする中、二人の次の答えを求めるように、為介がイクラへと問いかける。
「俺は、俺以外の神を消す…」
「はい、そちらにお渡ししまぁ~す!」
相変わらずのことしか言わないイクラに代わり、笑顔でアヒルへと手を差し向ける金八。
「意見は一致してるようだねぇ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!そんな揃いも揃って、俺に任せられても…!」
「神」
立ち上がり、他の神たちに抗議しようとしたアヒルに、篭也が強く呼びかける。
「他神が、ああ言っているのだ。ゴタゴタと言うな」
篭也がアヒルを見ぬまま、叱るように言い放つ。
「安の神の名が下がる」
「……っ」
篭也の厳しい言葉に、ハッとした表情を見せるアヒル。顔を上げたアヒルが、ゆっくりと皆を見回す。エリザが檻也がイクラが、茜がウズラがスズメやツバメが、為介が恵が雅が、そして安団で共に戦ってきた仲間たちが、迷う様子なく、まっすぐにアヒルを見つめていた。
「……わかった」
真剣な表情を見せ、アヒルが大きく頷く。
「半日だけ、時間を与えます」
頷いたアヒルへ、茜が言い放つ。
「その間に、道を、最後の道を、選んで下さい」
願うように、詫びるように、向けられる茜の声を、アヒルがしっかりと受け止め、声なく頷く。
「さぁ、そろそろ夜明けの時間だ」
部屋の壁に掛けられた時計を見ながら、ウズラが座っていた椅子から、ゆっくりと腰を上げる。
「帰ろうか。言ノ葉へ」
アヒルは、ウズラ等と共に、自宅のある言ノ葉町へと連れだって帰っていき、まだ安静が必要なエリザたちは、救護室へと戻っていった。一気に人が減り、謡の会議室には、茜と恵だけが残る。
「さてと、じゃあ私も帰る」
皆が帰った後、少し時間を置いて、恵がゆっくりと席を立つ。
「韻の方は任せたぞ」
「はい」
恵の言葉に茜が笑顔で頷くと、恵はそのまま茜に背を向け、部屋の出口へと歩き出した。
「恵」
恵が部屋を出ようと扉を開けたその時、茜が恵を呼び止める。その声に、少し戸惑うように振り返る恵。
「何だ?」
「あまり、一人で背負い込まないで下さい」
「……っ」
茜のその言葉に、恵の表情が、途端に曇る。
「遠の神のことは、あなただけが悪いわけではないのです」
笑顔を消した茜が、真剣な表情で、恵へと訴える。
「ですから、自分ばかりを責めるようなことは…」
「私が悪くないってんなら…」
茜の言葉を遮り、恵が低い声を漏らす。
「一体、誰が、悪かったって言うんだよ…」
力ない問いかけを残し、恵が開いた扉を抜けて、足早に部屋を出て行く。静まり返った部屋に、扉の閉まる音が、やたら大きく響き渡った。
「恵…」
閉まった扉を見つめ、茜はどこか悲しげに、目を細めた。




