Word.66 わスレラレタ愛 〈4〉
「“思い出せ”って…」
地面の割れ目の向こうから、飛び越えて行くことも出来ずに、篭也と和音の様子を見守るアヒルが、篭也が口にしたその言葉を、そっと繰り返す。
「忘れさせた記憶を取り戻すって、どういう意味だよ!?篭也!」
アヒルが身を乗り出し、篭也へと強い口調で問いかける。
「和音はかつて、自身の言葉“忘れろ”により、自身の母親から、自身の記憶を消し去ったんだ」
「え…?」
篭也から伝えられる答えに、アヒルが思わず、大きく目を見開く。
「は、母親から、自分の記憶を…?」
戸惑いの表情で言葉を繰り返しながら、アヒルが、篭也から和音へと視線を移す。
「何だって、そんな真似…」
「……っ」
向けられるアヒルからの視線に、和音は目を細め、少し俯いた。
「て、ってか!“思い出せ”の言葉が必要なら、別に“遠の神”を復活させなくても、檻也の言葉で…!」
「恐らく、檻也の言葉では、無理だったのだろう」
「え?」
もっともであるアヒルの意見を、篭也はすぐに否定する。
「ワ行は、五十音の中で最も強い力を持つ文字行。そこに属する、和音の言葉の効果を打ち消すには、同じワ行の文字の力でなければならない」
「そんな…」
「だから、遠の神を復活させようとしているのだろう?」
アヒルが険しい表情を見せる中、篭也が和音へと視線を移す。
「檻也の言葉で打ち消せるのであれば、“あの時”、あなたはそうしていたはずだ」
「あの時?」
篭也の言葉に、アヒルが戸惑うように首を傾げる。
「あの時、あなたが僕の記憶を消した、あの時に」
「え…?」
その発言に、さらに驚きの表情を見せるアヒル。
「篭也の記憶を、消した…?」
表情を曇らせ、アヒルはその問いかけを投げかけぬまま、静かに篭也と和音のやり取りを見つめる。
「ええ、そうですわね…」
すべてを認めるように、和音がゆっくりと頷く。
「懐かしい話ですわ。もう、十年程前でしょうか…」
晴れた空を見上げ、過去を思い返すように、そっと目を細める和音。
「わたくしは、あなたの記憶を消した。檻也が於の神に選ばれ、於崎の屋敷の者たちの心ない言葉に、泣いていたあなたの、その日の記憶を…」
―――於の神でない者が、“お”のつく言葉を口にするなど、おこがましい!―――
―――ううぅ…!う、うぅ…!―――
誰にも気付かれないように、必死に声を殺して、ただただ泣いていた、まだ幼かった少年。
「……っ」
当時のことが思い出されたのか、篭也が少し苦しげに俯く。
「あんな記憶、あなたには必要ないと思った。あんな、あなたを苦しめるだけの記憶…」
「言姫、さん…」
篭也を傷つけた言葉を憎むように、厳しい表情を見せる和音を見つめ、そっと目を細めるアヒル。和音の言葉からは、篭也への優しさのようなものが、はっきりと感じ取れた。
「けれど、あなたは怒りました」
顔を下ろした和音が、空を見つめていた瞳を、篭也へと向ける。
「“例え、どんなに辛い記憶であろうとも、そのすべてが、自分を形成するもの。消し去っていい記憶など、たったの一つもない”と」
和音が口にした言葉は、篭也がかつて和音に放った言葉そのもので、一言一句間違えなく覚えているところからも、その言葉がどれほどに和音の胸に残ったのか、伝わってくる。
「あなたのあの言葉は、まるで、わたくしの胸に突き刺さるようでした…」
「和音…」
そっと微笑みを浮かべる和音を見つめ、篭也が目を細める。
「ですから、わたくしは決めたのです」
和音が笑みを止め、鋭い表情を見せる。
「“思い出せ”の言葉を使い、わたくしが奪った母の記憶を、すべて取り戻すと」
「……!」
はっきりと言い放つ和音に、篭也が険しい表情を見せる。
「和音!それは…!」
「例えあなたが相手であろうとも、邪魔はさせません…!」
何かを訴えかけるように、身を乗り出した篭也の言葉を遮り、和音が左手に持った手鏡を振り上げる。太陽の反射で輝く鏡面に、篭也の姿が映し出された。
「“渡せ”!」
「あ…!」
和音が言葉を放った瞬間、篭也の左手の中から、大事に握り締めていたはずのアヒルの赤い言玉が消え、一瞬にして、和音の右手の中へと移動する。
「しま…!」
「“分かて”!」
「う…!」
再び言玉を奪われ、焦っている間もなく、和音がさらに手鏡を振り切り、篭也へと鋭い一閃を向ける。
「うあああああ!」
「篭也…!」
一閃に斬り裂かれ、吹き飛ばされる篭也に、思わず身を乗り出すアヒル。
「クッソ…!」
険しい表情を見せたアヒルが、周囲の割れ目を必死に見回す。すると一部の地面の割れ目が、わずかに狭まっており、何とか飛び越えられなくもない箇所を見つけた。
「あそこからなら…!」
アヒルが足を突き動かし、その箇所へと急ぐ。
「この一つ、後一つを…!」
篭也から奪い返したアヒルの言玉を握り締め、和音が、最後の台座へと必死に駆けていく。
「和音っ…」
引きつった表情を見せながら、篭也が必死に体を起こす。
「動くな!和音…!」
和音が台座の前へと辿り着くか着かないかの瀬戸際で、吹き飛ばされた篭也が立ち上がり、右手に構えたその鎌の先を、鋭く和音へと向ける。その強い声に、止まる和音の足。篭也の左肩からは、先程和音に斬り裂かれたため、赤い血が滴り落ちていた。
「一歩でも動いた瞬間、あなたを攻撃する!」
真剣な眼差しを、立ち止まった和音へと向ける篭也。その鬼気迫った表情を見れば、篭也が本気であることが容易にわかる。
「あなたの気持ちはわかる。和音」
篭也が諭すような声を、まっすぐに和音へと向ける。
「だが、やはり、そこに眠る神を、復活させるべきではない!」
瞳を鋭くし、篭也がさらに言葉を続ける。
「旧世代の神々が、韻内部の者たちが、あれほどに必死になるくらいだ。僕にはよくわからないが、その神を復活させることは、余程のことを意味するのだろう」
眉間に皺を寄せ、険しい表情を見せる篭也。
「だから、やはり復活させることは…!」
「わたくしは仮にも、言葉の姫を名乗る者…」
必死に訴えようとした篭也の言葉を、和音の冷静な声が遮る。
「彼の神を復活させることで起こることは、あなた以上に、十分に理解しているつもりです」
「だったら…!」
「それでも!」
張り上げられた篭也の声を、さらに上回る大きな声を発する和音。
「例え…例え、この世界中のすべての人間の言葉を、巻き込むことになるとしてもっ…」
―――あら、お客さん?―――
―――ゆっくりしていってね、和音さん―――
「……っ」
和音が震える唇を噛み締め、勢いよく顔を上げる。
「それでも私は、たった一つの言葉が欲しい…!」
上げられた和音の顔は、今にも泣き出しそうなほどに辛そうで、哀しげなものであった。初めて見る表情を、言葉を向けられ、篭也が驚きの表情を見せる。
「和音…」
小さく名を呼んだ篭也の構えが、一瞬、解かれる。
「これでっ…」
「あ…!」
篭也の一瞬の隙を使い、台座の方を振り返った和音が、台座へと、最後の言玉を持った右手を伸ばす。やっと地面の割れ目を飛び越え、二人と同じ側へとやって来たアヒルが、伸びていく和音の手に、大きく目を見開く。
「篭也…!」
「これで…!」
アヒルが必死に篭也へと促すが、その言葉が届く前に、最後の言玉が、台座へと祀られた。すべての台座に、すべての言玉が祀られたその瞬間、五つの言玉から、強い光が突き上げられる。
「ああ…!」
見開いた瞳のまま、アヒルが突き上げた光を見上げる。
――――パァァァァン!
「な、何だ!?」
町中に響き渡るほどの大きな、甲高い音と共に、言ノ葉山の頂上から空へと突き上げる、五色の光。その光に気付き、山の中腹で桃雪と戦闘中であったスズメが、勢いよく振り向く。
「あれは…!」
「五母の光っ…」
スズメと同じように振り向いたツバメが、険しい表情を見せて呟く。空へと突き上げる赤、青、金、緑、白の五色の光。それは、ついこの間、阿修羅が堕神たちと共に突き上げた、五母の光とまったく同じものであった。堕神ではなく、今の神の言玉により形成されている分、阿修羅たちの時よりも、ずっと光が強い。
「五母の光が上がったということは…」
「アヒルたちは、間に合わなかったのか…!?」
「……っ」
スズメとツバメが焦った様子で言葉を交わしている中、向き合っていた桃雪も同じように、突き上げた光を振り向き、そっと目を細める。
「いよいよ、ですか…」
嬉しそうに笑みを浮かべた桃雪が、スズメたちが光へと目を奪われているその隙に、その場を駆け出し、頂上へと向かっていく。
「封印が、解かれる…」
頂上で突き上げる五色の光をまっすぐに見つめ、恵が茫然と呟く。
「遠久…」
「為介さん、あれを…!」
共に部活動を行っていたツバメにより、緊急の事態を知った雅は、一度、『いどばた』へ向かい、そこで為介と合流して、言ノ葉山を目指して、言ノ葉町の道を駆けていた。目指す山の頂上から突き上げる光を視界に入れ、雅が焦った様子で、後方の為介を振り返る。
「五母の光…」
空へと突き上げる五つの光を見つめ、為介がいつになく、厳しい表情を見せる。
「もしかしたら、もう封印が…」
「先を急ごう」
不安げに声を漏らす為介の後方から、諭すような、落ち着いた言葉が投げかけられた。為介が足を進めたまま、声の聞こえて来た方を振り返る。
「為介」
雅、為介の後方を走る、もう一人の人物。
「はい、“宇の神”」
その者の言葉に、為介はしっかりと頷いた。
『あっ…』
目の前で突き上げた五母の光を、茫然と見上げるアヒルと篭也。何とかしなければならないという思いは十分にあったのだが、二人はその場に立ち尽くしたまま、動くことが出来なかった。もう、どうすることも出来ないことを、体のどこかで、感じ取ったのかも知れない。
「これで…」
達成感に満ちた笑みを浮かべ、光の輝く空を見上げる和音。
「これで、私の望みは叶う…」
和音が見守る中、突き上げた五つの光は、上空で一つに纏まり、さらに強い虹色の光を放つと、雷のように、真下にある封印石へと降り注いだ。
『ううぅ…!』
光が封印石に当たった瞬間、頂上全体を強い光が包み、アヒルと篭也が思わず、目を伏せる。光が落ちると、その巨岩の中央部、『遠』の文字が刻まれた部分に、縦に大きくヒビが入った。
「わ…」
そのヒビを手鏡の鏡面に映し出し、和音がゆっくりと口を開く。
「“割れろ”」
言葉と共に、手鏡から飛び出た赤い光線が、その、封印石に入ったヒビへと突き刺さった。その瞬間、ヒビが一気に縦全体に広がり、巨大な封印石が、左右に割れていく。
『あ…!』
割れていく石を見つめ、目を見張るアヒルと篭也。
「やっと…」
手鏡を力なく下ろした和音が、割れていく封印石を、穏やかな笑顔で見つめる。割れた石が左右それぞれ地面に倒れ、そして、今まで石のあった部分に見えてくる、一つの人影。影は思ったよりも小さく、華奢な人物であった。やがて日の光が降り注ぎ、その人影の全貌を明らかにしていく。
「あれは…」
「少、年…?」
戸惑いの表情で、見えてきたその人物を見つめるアヒルと篭也。そこに立つその人物は、深く瞳を閉じてはいるが、肌艶や顔立ちから、まだ幼い人物であることが十分にわかる。十五か十六か、恐らく、アヒルたちと変わらぬ年齢であろう。恵や茜が復活を憂いていたにしては、あまりに若く、あまりに脆いものに見えた。
「あれが、“遠の神”…?」
「やっと、会えた…」
和音がゆっくりと歩を進め、その少年の前まで寄っていく。
「遠の神」
噛み締めるように、その言葉を呟く。
「“永遠”」
「……っ」
和音の呼ぶその名に反応してか、石の中から現れたその少年は、ゆっくりとその瞳を開いた。




