Word.66 わスレラレタ愛 〈2〉
――――かつて、五十音士だった母は、誰よりも言葉を愛し、何よりも言葉を敬っていた。
「言葉ってね、とても素晴らしいものなのよ?和音」
それは、幼い頃から聞かされ続けてきた、母の口癖。
「言葉は素晴らしい力を持っているの」
「力?」
「そう」
大きく頷いた母が、誇らしげに笑う。
「私たちがね、言葉を大切にすればするほど、言葉は私たちに“幸せ”をくれるの」
「幸せに?」
「そうよぉ。だから私たちは、言葉を守るの」
“守る”と、言葉を守ると言った母の笑顔は、とても生き生きしていて、輝いていた。
「世界中の人たちの分も、言葉を守るのよ」
幼い私にとって、母のその笑顔が、まだよく知らない、“幸せ”というものの象徴となった。
でも、その“幸せ”が崩れ去るまで、そう時間はかからなかった。
「忌との戦いでの傷が原因だったんですって…?」
「ああ…言葉による回復も、間に合わなかったらしい…」
「まだ若いのに、残念よねぇ…」
五十音士だった母は、忌との戦いで傷を負い、激しく損傷した右足を、このままでは他の部分にも影響が出てしまうということで、切断した。
「お母、さん…?」
「…………」
右足を失った母は、五十音士を続けることも出来なくなり、五十音士を辞めてそのまま、家の自室に閉じこもりきりになってしまった。口数の減った母から、毎日のように聞かされていた、あの口癖を聞くことは、一度もなかった。
「お母さん、あの…」
「言葉なんて…」
窓から外の景色を眺めたまま、母が小さく声を漏らす。
「言葉なんて、無ければ良かったのに…」
それは、あんなにも言葉を愛した母の口から聞くことになるとは、思ってもみなかった言葉だった。
それから一年程の時が流れて、私が六歳になった頃、私は“わ”の文字の力に目醒めた。
「和音を、言姫に…?」
「ええ」
その事実を知った韻本部の者たちが、すぐに私の家を訪れてきた。
「言姫は、音士の中でも一際、重要な役割を背負っております」
「お嬢様はまだお若いですが、今後のためにも、早々に韻へ入られて、我々の教育を受けることが好ましいかと思…」
「嫌よ!」
大声で否定した母に、韻からの従者だけでなく、私も驚いた。
「どうして…?どうして、和音が言姫なんかに、五十音士にならなきゃいけないの!?」
「そ、それは、言葉がお嬢様を選んだからで…」
「言葉に一体、何の権利があるっていうの!?」
従者の言葉に、母はさらに声を張り上げた。
「和音の自由を奪う権利が、和音の未来を決める権利が、言葉にあるっていうの!?」
「あ、あのっ」
「私の足を奪う権利が、言葉にあったっていうの…!?」
「奥さん、落ち着いて…!」
机の上に置いてあったコップを床へと投げつけ、まるで暴れるように叫び散らす母を、従者の者たちが必死に抑え込む。
「嫌!嫌よ…!嫌ぁぁぁぁ…!!」
「……っ」
狂ったように泣き叫ぶ母を、私はただ、見つめることしか出来なかった。
「あなたのお母様のお気持ちもわからなくはありませんが、あなたが“わ”の文字に目醒めてしまった以上、あなたには言姫になっていただく他、ありません」
何とか母を落ち着かせると、帰り際、韻の従者たちは、冷静な声で私にそう言った。
「数日後には、韻本部へ来て下さい。お母様には、あなたの方から諦めていただくよう、何とか話をつけて下さい。お願いします」
「…………」
私はその言葉に頷きもしなかったが、私の答えなど聞かずに、従者たちは韻へと帰って行った。
「お母さん…」
家に戻ると、投げつけたコップの破片で汚れた部屋の中央で、母が力なく座り込んでいた。
「お母さん。あのね、私…」
「言葉が…」
何とか言葉を投げかけようとした私の声を、母の言葉が遮る。
「言葉が、すべて奪っていくのよ…」
諦め切った、絶望の声。
「私から、大切なものをすべて…」
「……っ」
絶望した母の姿を見ているだけで、胸が押し潰されてしまいそうで、苦しくて、辛くて、仕方なかった。こんな姿の母を、見ていられなかった。
「お母さん、あのね…」
それは、その時の私が選ぶことの出来た、最良の言葉。
「“忘れて”」
お母さん、あなたは今、“幸せ”ですか…?――――
言ノ葉山、頂上。
「これが…」
和音がやっとのことで辿り着いたその頂上、木々もなく広がった草原の中央には、一つの、巨大な石が置かれていた。石というよりは最早、巨岩である。平らな表面の真ん中には、『遠』の文字が刻まれていた。
「これが、封印石…」
その文字の刻まれた部分へと手を触れ、和音が目を細める。
「……っ」
和音が石から手を離し、周囲を見回す。石で造られた五つの台座が、中央の封印石を取り囲むようにして置かれていた。再び袖口に手を入れた和音が、台座と同じ数の、神々の言玉を取り出す。
「始めましょうか…」
そう言葉を落とすと、和音は一番近くの、封印石の後方の台座へと、歩を進めた。
「“滅せ”!」
緑色に強く輝く右足を、空中から降下する勢いも足して、桃雪へと目いっぱい振り下ろす恵。桃雪は言玉を持ったまま右手をあげ、下ろされた恵の足を受け止める。
「んなもんで…!」
「“諸刃”」
「な…!」
腕程度では止められないことを確信していた恵であったが、桃雪が落とした言葉と共に、桃雪の腕を包み込む白い光に、大きく目を見開く。
「ううぅ…!」
光を帯びた桃雪の腕に、受け止められていた恵の右足が、一気に斬り裂かれる。赤い血を撒き散らした右足を引きながら、恵が後方へと下がっていく。恵が、そのまま下がった場所で足を下ろすと、傷ついた右足から、吸収されていた言玉が、力なく零れ落ちた。
「他愛ないですねぇ」
「ク…」
前方から聞こえてくる軽い口調のその声に、恵が険しい表情で、顔を上げる。
「あなたも、もどかしいでしょう?“め”の文字だけで、戦わねばならないなんてぇ」
光り輝いていた手をもとに戻し、また、手の中で言玉を玩びながら、桃雪が恵へと声を掛ける。
「あなたが、あなたの本来の文字“ゑ”で戦ったなら、僕に遅れを取ったりしないはず。違いますかぁ?」
「……そうだな」
試すように問いかける桃雪に、恵が少し間を置いて頷く。
「“ゑ”で戦っていたら、お前ごとき、もうとっくに倒していただろう」
地面に足をついたままではあるが、まるで勝ち誇ったような、自信に満ちた笑みを浮かべる恵に、微笑んでいた桃雪の表情が、そっと歪む。
「相変わらず、強気な物言いですねぇ」
桃雪が再び笑みを浮かべるが、その笑みは少し、引きつって見えた。
「あなたのそういうところが嫌いだったんですよ。昔からね…!」
「ク…!」
言玉を持った右手を振り上げる桃雪に、恵が険しい表情を見せ、地面に落ちていた言玉を拾い上げる。
「恵先生!」
それぞれに言玉を突き出し、自身の言葉を放とうとしたが、そこへ上空から、大きく恵の名を呼ぶ声が割って入ってきて、二人は互いに動きを止め、上空を見上げた。
「恵先生…!」
「朝比奈、神月」
両手に浮かび上がった真っ赤な格子を持ち、上空から、言ノ葉山へと現れたのは、アヒルと篭也であった。空から恵の方を見ているアヒルたちの姿を確認し、恵が少し驚いた表情を見せる。
「おやおや、もう牢から出て来てしまったのですかぁ」
恵と同じようにアヒルたちを見つめ、困ったように肩を下げる桃雪。
「“謡”とやらも結構、やりますねぇ。さすがは内部組織。けどっ」
「あ…!」
言玉を向ける先を、恵から上空へと変える桃雪に、恵が眉をひそめる。
「ここから先へは、行かせませんよぉ」
桃雪が鋭く微笑み、手の中の言玉を強く輝かせる。
「“も…」
「“明光”!」
「何…?ううぅ!」
先に響く言葉に、戸惑うように振り向く桃雪。だが振り向いた途端、桃雪の瞳に、強い緑色の光が入り、あまりの眩しさに目が眩んで、桃雪は思わず顔を伏せた。
「今のうちに、とっとと行け!頂上に向かった和音を、止めるんだ!」
「え?」
身を乗り出すようにして上を見上げ、叫ぶ恵に、アヒルが驚いたように目を丸くする。恵は、上空から見てもわかるほどに傷だらけで、桃雪に対し、優位に戦いを進めているようには、とても見えない。そんな状態の恵に、この場を任せることは、気が引けた。
「け、けどよ…!」
「私に構ってる場合じゃない!すべてが手遅れになるんだ!頼む、和音を止めてくれ!」
「先生…」
必死に願う恵の、その切羽詰まった様子に、アヒルが目を細める。
「神」
「ああ」
呼びかける篭也に、真剣な表情となって頷くアヒル。
「とにかく今は、言姫さんのところへっ…」
「そうは…させるか!」
「あ…!」
アヒルが篭也へと指示を送ろうとしたその時、まだ目が眩んだままの桃雪が、はっきりとは見えていない状態で、ただ感覚を頼りに、右手の言玉を突き上げる。桃雪のその動きに気付き、険しい表情を見せる恵。
「待…!」
「“燃えろ”!」
恵が食い止める間もなく、桃雪が上空のアヒルたちへと、真っ白に輝く、巨大な炎の塊を放った。炎は勢いよく上昇し、瞬く間に、二人へと迫る。
「しまった…!」
向かってくる炎を見下ろし、険しい表情を見せる篭也。すべてに避ける時間はなく、二人の体を浮かせるために格子を使っているため、防ぐ言葉を放つことが出来ない。
「朝比奈!神月!」
『ク…!』
恵が身を乗り出す中、アヒルと篭也が厳しい表情で、歯を食いしばる。
「“吸い込め”!」
「チュゥゥーン!」
「え…?」
アヒルたちが浮かんでいる場所よりも遥か上空から、大きく羽根を広げ、舞い降りて来た金色の巨鳥が、二人の前に大きく陣取り、向かって来た炎を、思いきり開いたその口の中に、あっという間に吸い込んでいく。一気に視界を埋め尽くすその巨鳥に、アヒルは大きく目を見開いた。
「よくやったぜ、チュン吉」
「スー兄!」
チュン吉と呼ばれたその巨鳥の背の上で立ち上がる、よく見慣れた姿に、思わず名を叫ぶアヒル。
「スズメ」
「あれは、宇団の…」
現れたスズメを見上げる恵の横で、やっと眩んでいた目がもとに戻り出した桃雪も、同じようにスズメの姿を見つめ、眉をひそめる。
「何故、今、宇団が…」
「“突っ込め”…」
「う…!」
スズメの姿に戸惑っている間もなく、桃雪の後方から、スズメの乗っているチュン吉と同じような、金色の巨鳥が、勢いよく突進してくる。
「ぐ…!“縺れろ”!」
桃雪が必死に身を捩りながら言葉を発すると、巨鳥の大きな翼が、わずかにそのバランスを崩し、まっすぐだった体が傾く。傾いたその巨体と、地面との隙間を縫うようにして、身を転がし、桃雪が何とか巨鳥の攻撃を避ける。
「残念。避けられちゃったね、スワ郎…」
「ツー兄!」
桃雪を通り過ぎた巨鳥を、その場に止めるように右手をあげ、現れるツバメ。
「アヒル、篭也」
「へ?」
ツバメの方を見下ろしていたアヒルが、すぐ前方のスズメに名を呼ばれ、顔を上げる。
「恵ちゃんのフォローは、俺等がする。お前たちはとっとと、先に進め」
「スー兄」
真剣な表情で言い放つアヒルに、アヒルがそっと目を細める。
「わかった」
アヒルも真剣な表情を見せ、スズメの言葉に、しっかりと頷く。
「篭也」
「ああ。“翔けろ”!」
アヒルに名を呼ばれると、篭也がすぐに頷き、短く言葉を落とす。すると、二人の掴まった格子が、またもや素早く空を翔け抜け、山の頂上へと向かっていった。去っていく二人の姿を、スズメがチュン吉の上から、まっすぐに見送る。
「逃がしてしまいましたか…」
地面に伏せていた体を起こしながら、同じようにアヒルたちの姿を見送り、桃雪が眉をひそめる。
「後で、言姫様に嫌味の二、三、言われてしまいそうですね。やれやれ」
桃雪がその場で立ち上がりながら、困ったように肩を落とす。
「よいしょっと」
チュン吉を降下させたスズメが、その背から飛び降り、恵のすぐ横辺りへと着地する。
「傷ひどいなら、治すぜ?恵ちゃん」
「お前等、なんでここに…」
「文句は受け付けねぇぜ?これでも一応、神命令で来てんだからよ」
ひそめた表情を向ける恵に、スズメが明るい笑みを向ける。
「そうか。宇の神が…」
「それと」
考えるように俯いた恵が、言葉を付け加えるスズメに、再び顔を上げる。
「恵ちゃんポイントを、稼ぎに」
「言ってろ、阿呆」
「冷た!」
短く言葉を吐き捨てる恵に、スズメがショックを受けた様子で、表情を歪ませる。
「これ以上、お姫様の機嫌を損ねないためにも、とっとと倒させてもらいますよ」
そう言って、強く言玉を握り締める桃雪に、スズメとツバメが一気に鋭い表情となって、それぞれ、右手を振り上げる。
「そう簡単に、倒されてたまるかっての。行くぜ、チュン吉!」
「呪うよ、スワ郎…」
二人の呼びかけに、二羽の金鳥が、同時に桃雪へと飛びかかっていった。




