Word.65 届かヌ言葉 〈4〉
「ど、どうして、急に韻の本部へ行くことになったの…!?」
雨の降る道を必死に駆けながら、七架が前方を走る囁へと問いかける。コンビニでバイトをしていた七架は、突然やって来た囁と保に韻本部へ行くことを知らされ、頼み込んでバイトを早抜けしたのである。
「わからないわ…」
「恵先生が、とにかく早く行けって、そう言ってたんです!」
「恵先生が?」
必死に足を動かしながら、七架が二人の言葉に眉をひそめる。
「もしかしたら…アヒるんに何かあったのかも…」
「え!?朝比奈くんに!?」
不安げに表情を曇らせる囁。アヒルの名が出ると、七架も一気に、険しい表情となる。
「篭也とも連絡が取れないし…あの先生が慌てるくらいだから、余程のことがあるのかも…」
「じゃあ、早く行こう!朝比奈くんのところに!」
「ええ…ビーフストロガノフが冷めないうちに…」
強く頷き合って、囁と七架が、さらに足を速める。
「あ、待って下さいよ!真田さん、奈々瀬さぁ~ん!」
前を行く二人の後を、保が叫びながら、必死に追いかけた。
言ノ葉山。言ノ葉町で一番、言葉の力の集まりやすい場所であるという、そこは、かつて、アヒルが守の力を借り、砕けた自身の言玉を、再生させた場所である。四人の神から奪った、五つの言玉を持って韻を出た和音は、桃雪と共に、この山を訪れていた。
「今日の言ノ葉の天気は、大雨のはずですがぁ…」
まったく雨の降っていない、真っ青な空を見上げ、桃雪が首を傾げる。
「“分て”の言葉を使い、この辺りの雲だけを取り払いました」
「成程」
前方を歩く和音の言葉を聞き、視線を上空から周囲へと向ける桃雪。確かに、言ノ葉山の外側に見える町並みの上空は、厚い雲に覆われて薄暗く、強い雨が打ちつけていた。この山の上の空だけが晴れており、雨の降っていない状態である。
「便利なものですねぇ、あなたの言葉は」
感心するように言って、桃雪が笑う。
「それでぇ?こんな山の中に、本当にいらっしゃるんですかぁ?」
笑みを止めた桃雪が、和音の背中へと、どこか疑うように問いかける。
「“我が神”は」
わざとらしく言葉を強調し、桃雪が再び、鋭く笑う。
「ええ、間違いありません」
桃雪の方を振り返ろうとはせず、まっすぐに前を見据え、進む歩を止めぬまま、和音が確信を持って答える。
「二十数年前の文献によれば、彼の神は確かに、この言ノ葉山に封印されたと、そう記録されています」
今、まさに向かっている山の頂上を見据え、和音が目を細める。
「彼の神、“遠の神”永遠は…」
「……っ」
和音の口から出るその名に、桃雪が嬉しそうに、口角を吊り上げる。
「我が神が封印されて二十数年…思えば、長く苦しい時間でしたよ」
桃雪が青い空を見上げながら、どこか懐かしむように目を細める。
「でも、その長く苦しかった時間も、やっと終わる…」
噛み締めるようにそう言って、桃雪がまた顔を下ろしていく。
「あなたには、本当に感謝していますよ。言姫様」
「いえ…」
背中に向けられる言葉に、短く声を落とす和音。
「復活に尽力して下さったあなたの願い、我が神が、必ず叶えてくれることでしょう」
「…………」
桃雪の言葉に、今度は答えようとはせずに、和音が何やら神妙な表情で、そっと俯く。自身の願いが叶えられるというのに、和音のその表情は、あまり嬉しそうには見えず、どこか思い詰めているようにすら見える。
―――和音…!―――
思い出されるのは、強く和音を責め立てるような、鋭い篭也の瞳。
「わたくし、は…」
「おやぁ」
「え…?」
何かを見つけたような桃雪の声に、和音が俯けていた顔を上げる。
「あ…」
顔を上げた途端、その表情を曇らせる和音。頂上へと続く山道の中央に、まるで和音たちが来ることがわかっていたかのように、堂々と待ち構える人影があった。
「目白、恵…」
「待っていたよ、和音」
固く腕組みをした恵が、突き刺すような鋭い瞳で、まっすぐに和音を見つめる。
「おやおや、待ち伏せされてしまいましたかぁ」
「お前はっ…」
和音の背後に立つ桃雪の姿に気付き、恵が眉をひそめる。恵の視線が向けられたことを知ると、桃雪はそれに応えるように、和音のすぐ横まで出てきた。
「どうもぉ、お久し振りです。恵の神」
「桃雪…」
深々と頭を下げる桃雪に、顔をしかめる恵。互いの名を知っているところを見ると、知り合いであったようである。
「和音が一人でやってるにしては、動きが早いと思っていたが…成程な。お前が附いていたというわけか」
「お変わりないようでぇ」
険しい表情を見せる恵に対し、桃雪は楽しげに笑みを向ける。
「ああ。“永遠”を生きてるんですから、お変わりしたくても、出来ないんでしたっけぇ?」
「……っ」
挑発するような桃雪の言葉に、さらに表情をしかめる恵。
「お前こそ、私が知る二十数年前から、少しも姿が変わっていないように見えるが…?」
「その辺はまぁ、色々とありまして」
鋭く問いかける恵に、桃雪は誤魔化すように笑う。
「お前のことは、まぁいい。和音」
恵が再びその視線を、桃雪から和音へと移す。
「ここへ、何をしに来た?」
「ここへ来られた時点で、そんなことはもう、とっくにおわかりになっているのでは…?」
問いかける恵に対し、和音もまた、問いかけを返す。
「“恵の神”目白恵」
和音がまっすぐに恵を見つめ、改めて、恵の名を呼ぶ。
「わたくしがここへ来たのは…」
真剣な表情を見せた和音が、ゆっくりと口を開く。
「二十数年前、あなた方、旧世代の神々がこの地に封印した、五十音最後の神、“遠の神”を復活させるためです」
「……っ」
はっきりと言い放つ和音に、恵は一際、厳しい表情を見せた。
「“遠の神”の復活?」
厚い鉄格子で遮られた牢から、外へと出ながら、篭也が確かめるように、聞き返す。
「それが、和音の目的であると?」
「ええ」
篭也の問いかけに頷くのは、先程、アヒルたちの前へと現れた、美しい女性。柔らかな雰囲気を持っており、傍に居ると、誰もが安心してしまうような、そんな空気を纏っている。三十そこそこにしか見えないが、何か、その小柄な体の奥に、まっすぐに一本通った、強い芯のようなものを感じた。この女性の持ってきた鍵により、牢が開き、アヒルたちは外へと出ることが出来たのである。
「…………」
篭也に続くようにして牢を出たアヒルが、その女性を、じっと見つめる。まったく見覚えのない女性なのだが、どこか懐かしいような、変な感覚に囚われていた。
「言姫が、韻上層部の人間までも利用し、何か良からぬことを企てていることを察知した我々は、韻の中でひそかに同志を集め、内部組織を形成し、言姫の動きを監視していました」
「組織?」
「“謡”という名の組織です」
「謡…」
女性の口にしたその名を繰り返し、篭也が少し俯く。
「そういえばそんな組織があると、昔、於崎に仕えていた音士から聞いたことがあるような…」
「恐らくは、あなたと同じように聞き及んでいたのでしょう。あなたの弟君である於の神が、言姫の動きを知らせに、私のところへやって来ました」
「檻也が?」
「ええ。ですから我々も、こうして、表立って行動することを決めたのです」
「そうか…」
女性の言葉に、納得したように頷く篭也。篭也と同じように、檻也も和音の不穏な動きに気付き、一早く、行動を起こしていたのである。
「ちゃんと、理解出来ているか?神」
「へ!?」
急に篭也に話しかけられ、じっと女性を見つめていたアヒルが、慌てた様子で、間の抜けた声を漏らす。女性へと関心が向くあまり、二人の話はあまり、耳に入って来ていなかった。
「えぇーっと、その…」
「まったく、仕方のない神だな。あなたにも関係のある話なんだ。しっかりと聞いておけ」
「わ、悪い…」
子供のように注意され、アヒルが申し訳なさそうに肩を落とす。
「それで、和音は何故、五つの言玉を?」
「二十数年前、今は旧世代の神とされる、かつての五神は、自分たちの言玉を使い、その力のすべてを懸けて、“遠の神”を封印しました」
改めて問いかける篭也に、女性がすらすらと答える。
「神々の言玉を用いて施された封印を解くには、同じように、神々の言玉が必要です」
「成程な…だが神を封印するとは、一体何故、そのようなことをする必要が…」
「茜様」
篭也の言葉を遮るようにして、入って来る声に、女性が素早く振り向く。茜と呼ばれたその女性のもとへと、韻の従者たちと同じ黒い着物を纏った、一人の男が歩み寄って来た。
「アカネ…?」
聞き覚えのあるその名に、眉をひそめるアヒル。
「見張りの交替時間が迫っております。騒ぎを大きくせぬためにも、今のうちに彼等を外へ…」
「そうですね」
従者の言葉に大きく頷き、茜が再び篭也を見る。
「それを話せば、長くなります。ですが、今は一刻を争う時。その時間はありません」
「ああ、そうみたいだな」
茜の言葉に反論することもなく、すぐさま納得する篭也。今、長々と話をしてしまえば、和音に従う韻の者たちに見つかり、茜たちも含めて、再び捕まってしまう可能性もある。それだけは、避けねばならなかった。
「あなた方はすぐにここを出て、言姫を追って下さい。これは、あなたの言玉です」
「え?僕の?」
「五神の言玉以外は、置いていったのでしょう。言姫の部屋にありました」
「済まない」
和音に奪われていたはずの言玉を、篭也が茜から受け取る。
「だが、追うとしても、和音の場所が…」
「言ノ葉山です」
「言ノ葉山?」
言ったこともある場所の名をあげられ、アヒルが意外そうに、目を丸くする。
「ええ。そこに“遠の神”が封印されています」
「……わかった」
受け取ったばかりの言玉を強く握り締め、真剣な表情を見せて、篭也がしっかりと頷く。
「行こう、神」
「ああ。けど、まだザべスや檻也が捕まったままで…」
「残りの神々の解放は、私たちが行います」
他の神たちの心配をするアヒルに、茜が安心させるように、優しく微笑みかける。
「必ず全員、助け出しますので、ここは我々に任せ、あなたは行って下さい」
「あ、ああ。じゃあ、頼む」
向けられる優しい微笑みに、胸の奥がこそばゆくなるような、妙な感覚を覚え、アヒルは答えながら思わず、少し言葉を詰まらせてしまった。
「こちらも頼みます。アヒル」
「……っ」
少しの違和感もなく、当たり前のように呼ばれる名に、アヒルが目を細める。
「あ、あのさ…」
少し躊躇いながら、アヒルが口を開く。
「あの、その、えぇっと…」
必死に言葉を探すアヒルを見つめ、茜が穏やかに笑う。
「大丈夫ですよ」
「へ…?」
そっと伸ばされた、茜の白く細い手が、アヒルの頬へと触れる。
「またすぐに、会えますから」
何の根拠もないというのに、その言葉は、あっという間に胸の中へと染み込んで、躊躇いもなく、簡単に信じることが出来てしまった。アヒルから自然と、笑顔が零れ落ちる。
「ああ、楽しみにしてる」
笑顔で言うアヒルに、茜も一層、笑みを零す。
「神!」
「おう!」
先を行く篭也に呼ばれ、茜の手を離れ、その場を駆け出していくアヒル。
「彼等の先導を。韻の外まで、必ず無事に、送り届けて下さい」
「はい」
茜の指示に頷くと、傍で膝をついていた従者が、すぐにその場を駆け出し、アヒルと篭也の後を追っていった。静かになったその場に、茜が一人、立ち尽くす。
「頼みましたよ、アヒル…」
茜の願うような声が、地下の空間に、そっと響き渡った。




