Word.64 動キダス永遠 〈4〉
言ノ葉高校、家庭科室。
「おかしい、絶対おかしいわ…」
「ええ、おかしい…」
制服の上にエプロンを纏った女子生徒たちが、眉間に皺を寄せ、顔を寄せあいながら、何やらひそひそと話をしている。
「私たちお料理クラブの、本日のメニューは、ビーフストロガノフだったはずなのに…」
「どうして、あの新入りの方のお鍋からだけ…」
女子生徒たちの視線が、一点に向けられる。
『紫色の湯気が…』
「んん~…」
皆が見つめる視線のその先では、囁が少し首を傾げながら、紫色の湯気の立ち込める鍋を掻き回していた。囁は注がれる視線にも気付かずに、ひたすら鍋を見つめている。
「もう一味、加えた方がいいかしら…」
そう言って徐に、囁が手に取ったのは、山葵であった。チューブのフタを取り、囁が山葵を、鍋の中へと大量にブチ込む。
『ひぃ!』
その光景に寒気すら覚え、高い声を漏らすお料理クラブの皆々。
「これでよし、と…」
囁がテーブルの上に山葵を置き、再び鍋を掻き回し始める。
「アヒるん、喜んでくれるかしら…」
見守る皆とは対照的に、何やら楽しげな笑みを浮かべる囁であった。
言ノ葉高校、一年D組。
「ふっはぁ~」
放課後の教室に一人残り、大きな溜息を吐き出しているのは、保であった。
「二時間書いて、たったの三行…」
保の机の上には、一枚の原稿用紙が置かれていた。原稿用紙は最初の数行が埋まっているだけで、半分以上、真っ白の状態である。そんな白い用紙を見つめ、困ったように肩を落とす保。
「結構難しいものですねぇ。反省文って」
保が書いているのは、今日、遅刻した罰として恵に命じられた、反省文であった。
「反省文より、アヒルさんと一緒に居残り掃除の方が良かったかなぁ…」
机の上へと頬を乗せ、こっそりと呟く保。
「ふわぁ!こんな人生そのものが反省の俺が、一丁前に、反省文に文句付けちゃって、すみませぇ~ん!」
勢いよく顔を上げ、保が大きな声で謝り散らす。誰も居ない教室に、保の大声が響き渡り、廊下にまでこだまする声が聞こえた。響きが良すぎて、逆に少し虚しくなる。
「はぁ…書こ」
虚しさを胸に抱きながら、もう一度、ペンを手に取る保。
「ん…?」
その時、保が、ふと気付いたように、窓を振り向く。
「雨…?」
薄暗くなり始めた空から、細かい水の滴が、降り落ちて来ていた。
言ノ葉町、とあるコンビニ。
「ナナー!悪いけど、傘立て取ってきてくれる~?」
「リンちゃん」
店の外の掃除をしていたリンが、中へと入って来て、レジに立っていた七架へと声を掛ける。
「傘立てって、雨?」
「うん。何か、急に降って来た」
店の奥から傘立てを運び出しながら、七架がリンへと問いかけると、リンが外を見ながら答える。
「ホントだ」
リンの手を借り、傘立てをレジ台の外へと出しながら、七架も外を見る。降り始めた雨は、一気に強くなり、いつの間にか、大粒の雨が押し寄せている。
「困ったなぁ。私、今日、傘持って来てないんだよね」
「通り雨かもよ?すぐ止むんじゃない?」
「だと、いいけど…」
傘立てを店の入口横へと置いた七架が、ゆっくりと空を見上げる。
「……っ」
暗い空に、七架は少し不安げな表情を見せた。
「トンビ…!」
為介の屋敷へと行っていた恵は、またしても言葉を使い、国語資料室へと戻って来た。勢いよく扉を開け、恵が部屋の中へと駆け込む。
「トンビ!」
恵が、部屋の中を見回した後、開いている書庫の扉から、中に立っている人影を見つけ、少しホッとしたように肩を落とす。一転してゆっくりと歩を進め、恵が書庫の中へと足を踏み入れた。
「良かった。まだここに居たか」
立ち尽くしているアヒルへと、薄く笑みを浮かべ、声を掛ける恵。
「トンビ。もう片付けはいいから、お前、今から為介のとこにっ…」
「…………」
「トンビ?」
まるで反応のないアヒルに、恵が少し戸惑うように首を傾げる。不審に思った恵が、アヒルが右手に握り締めている一冊の本へと、視線を移した。
「……っ」
“卒業アルバム”と書かれているその表紙を見ると、恵が途端に眉をひそめる。
「掃除、してたら見つけて、さ。カー兄載ってるかなって思って、それで、見てたんだ…」
「そう、か…」
どこかぎこちない口調で説明するアヒルに、恵も少し詰まった返事をする。
「先生、カー兄の担任だったんだな。知らなかった」
アヒルの言葉に、今度は答えずに、恵がそっと俯く。
「最初はさ、まぁ五年程度のことだし、恵先生、二十四とか言いつつ、実は三十くらいで、年、誤魔化してたのかなぁとか思ってたんだけど…でも」
言葉を付け加えたアヒルが、その表情を曇らせる。
「恵先生、載ってた」
短く言葉を落とし、アヒルが俯く。
「二十年前のアルバムにも、載ってた」
顔を上げたアヒルが、ゆっくりと振り向き、恵の方を見る。
「今と同じ、その姿で…」
向けられるその視線と、目を合わすことが出来ずに、恵は俯いたまま、アヒルの言葉を聞き続けていた。
「せ、先生って実は、俺の親父と同い年くらいとか!?だったらすっげぇよなぁ~見た目、超若いし、テレビとか出れんじゃねぇ!?」
無理に明るい笑みを作り、不自然なほど弾んだ声で、アヒルが恵へと語りかける。
「…………」
「アハハ!ハハ、ハ…」
黙ったままの恵に、アヒルの笑い声が途切れ、笑顔が徐々に消えていく。
「先、生…」
完全に笑顔を消したアヒルが、恵を見つめるその瞳を、そっと細める。
「先生…あの、そのっ…」
言葉を切り出そうとするが、なかなか口にすることが出来ず、アヒルが迷うように俯く。
「その…」
「お前の、考えている通りだ」
「え…?」
切り出す前に返って来る声に、アヒルが顔を上げる。
「二十数年前から、私は、今の姿のまま、一切、年を取ってはいない」
恵が言葉を発しながら、ゆっくりと俯けていた顔を上げていく。
「二十数年前、当時、“恵の神”であった私は…」
上がった視線が、やっと、アヒルの視線とぶつかる。
「自身の言葉“永遠”を使い、自分の若さと命を、永遠のものとした」
「……!」
告げられるその真実に、アヒルが大きく目を見開く。
「え、“永遠”…?」
恵のその言葉を繰り返したアヒルは、ひどく困惑した表情を見せていた。
「う…うぁ…」
全身に激しく傷を負ったエリザが、声にならない声を漏らしながら、力なく、床へと倒れ込んでいく。緑色に輝いていた右足は光を失い、そこから、吸収されていた言玉が、床へと零れ落ちた。
「やれやれ。他愛のない…」
どこかつまらなそうな表情で肩を落とした桃雪が、右手に握り締めていた白色の言玉を、服の胸ポケットへと戻す。
「終わりましたよ、言姫様」
「ご苦労さまです。毛守さん」
後方にいる和音の方を振り返り、桃雪が報告すると、和音は満足げに頷いた。短い歩幅で歩を進め、和音がうつ伏せに倒れたままのエリザのもとへと、歩み寄っていく。正確には、エリザのもとへというより、エリザのすぐ横に転がっている、エリザの言玉のもとへであった。
「これで、三つ目…」
その場にゆっくりとしゃがみ込み、転がっている言玉へと手を伸ばす和音。
「……っ」
だが、その和音の手は、もう後少しで言玉に届くという距離で、伸びてきた手により、強く掴み止められる。眉をひそめた和音が、伸びてきた手の方を振り向いた。
「何か…?」
「ハァ…ハァ…」
和音を止めたのは、エリザの傷だらけの手であった。倒れたまま、立ち上がることも出来ない状態のエリザが、必死に顔だけを上げ、問いかける和音を睨みつける。
「渡さ、ない…」
呼吸を乱したまま、必死に言葉を続けるエリザ。
「言葉で…人を傷つけるような、人間にっ…」
エリザが、もうほとんど残っていない力を振り絞り、和音の手首に痕がつきそうなほど強く、和音の手を握り締める。
「言葉で…人の記憶を消すような、非道な人間に、私の文字は、神の力は渡さない…!」
「……っ」
強く放たれたエリザのその言葉に、和音が一瞬、整ったその表情を大きく崩すと、すぐさま、冷え切った表情を作る。
「くだらない、理由ですわね…」
「う…!」
低く響く声を落とし、エリザに掴まれているものとは逆の手を、エリザへと突き出す和音。向けられた和音の手には、赤い言玉が握り締められていた。光を増す言玉に、エリザが大きく目を見開く。
「“分かて”」
「う…!きゃああああ!」
輝いた言玉により、和音の手を掴んでいたエリザの手が、激しく斬り裂かれ、エリザが勢いよく後方へと吹き飛ばされる。
「うぅ…!」
後方にあった机を吹き飛ばし、さらにその後ろの壁へとエリザが背中を打ちつけると、一気に激しく走る痛みに、全身の力が抜け、エリザの意識が薄れていく。
「アヒ、ル…」
小さくアヒルの名を落とすと、エリザは瞳を閉じ、そのまま気を失った。
「ボクより容赦ないですねぇ~、あなたは」
言玉を手に取り、立ち上がった和音のもとへと、感心するような笑みを浮かべた桃雪が、歩み寄って来る。
「衣の神を、檻也たちと同じところへ、運んでおいて頂けますか?毛守さん」
「了解いたしましたぁ」
和音からの指示に軽い口調で頷くと、桃雪が気を失ったエリザを抱え上げ、そのまま和音の部屋を出て行く。
「…………」
部屋に一人きりとなると、和音が体の向きを変え、数歩、足を動かす。部屋の隅にある棚の前へと立ち、棚の真ん中部分を見つめる和音。その棚には、青と白、二つの言玉が置かれていた。そのすぐ隣へ、今、エリザから回収した言玉を並べる。
「これで、三つ…」
置いた言玉から手を離し、和音が三つの言玉を見つめ、目を細める。
「後はそう、朝比奈アヒルの力さえ手にすれば…」
口元を緩め、和音が冷たい笑みを浮かべる。
「そうすれば、封印を解くことが出来る…目醒めさせることが出来る…」
顔を上げ、天井を見上げる和音。
「五十音、最後の神…“遠の神”永遠を…」
静かなその部屋に、和音の高い声が響き渡った。
戻ったばかりの穏やかな日常が、終わりを告げるのに、そう、時間はかからなかった。




