Word.64 動キダス永遠 〈2〉
その頃、言ノ葉高校、国語資料室。
「はぁ」
箒を持ったアヒルが、深い溜め息を落とす。
「町の危機を救った神様に、居残り掃除なんて、普通させるかねぇ」
「私は一教師なんでな。どの生徒に対しても、あくまで一生徒として、公平に接するんだよ」
「毎日、掃除させてる時点で、公平じゃねぇと思うけど」
「何か言ったか?」
「いえ」
鋭く問いかけてくる恵に、すぐさま首を横に振って、アヒルが掃除をする手を早める。
「お前、その後、体の調子は大丈夫なのか?」
「へ?あ、ああ。もうすっかり」
アヒルが右腕を大きく回しながら、笑顔で答える。戦いの後、すぐにスズメにより、傷の治療を受け、家に帰ってからウズラと少し騒動を起こしつつ、即眠ると、次の日にはすっかり回復していた。
「力は?」
「ああ、問題ねぇよ。今回は前みたいに、言玉使えなくなるとかもなかったし」
「そうか」
アヒルの答えに、恵が少し安心したように肩を落とす。
「けど、戦いの途中で出てきた金色言玉が、ガァスケの姿にもならねぇし、いつまで経っても消える様子なくてさぁ」
「……っ」
続くアヒルの言葉に、すぐさま曇る恵の表情。
「言玉二つって結構、嵩張るんだよなぁ。どうにかなんねぇかなぁ」
大きく首を捻り、少し悩むように呟くアヒル。アヒル自身は、新たに得た力について、難しく考えている様子はなく、それよりも言玉が嵩張ることを気にしているらしい。そんなアヒルを見つめながら、恵が何やら思い出すように、その瞳を細める。
―――動かざるを得ないでしょう…―――
恵の脳裏を過ぎるのは、昨夜、カモメの墓で出会ったあの者の言葉。
「トンビ」
「だっから、俺はアヒルだっての」
いつものように名を間違える恵に、呆れるように言い返しながら、アヒルがゆっくりと振り向く。
「トンビ…」
「だっから…!ん?」
またしても違う名を呼ぶ恵に、今度は強く言い返そうとしたアヒルであったが、振り向いたその先で、浮かない表情を見せている恵に、戸惑うように眉をひそめた。
「恵、先生?」
「あっ」
怪訝そうに首を傾げるアヒルを見て、恵がハッとした表情を作り、慌てて持っていた本へと視線を落とす。
「拭き掃除ついでに、本棚の整理もしとけ」
「ええぇ~?」
恵からの言葉に、途端に顔をしかめるアヒル。
「ったく、人遣い荒いなぁ」
「…………」
面倒臭そうに言いながら、箒を壁に立てかけ、近くの床に置いてあるバケツにかかっている雑巾を取るアヒルの背を見つめ、恵がそっと、目を細める。
―――あの子が、安の神が“う”の文字に目醒めてしまった、今…―――
「……っ」
思い出される言葉に不安げな表情を見せ、恵はゆっくりと俯いた。
言ノ葉町、町の小さな何でも屋『いどばた』。
「やぁ、いらっしゃ~い。神月クンっ」
学校の帰り、『いどばた』へとやって来た篭也を、相変わらず陽気な口調の扇子男、為介が出迎える。まるで緊張感のない笑顔の為介を見ると、篭也は少し呆れるように肩を落とした。
「衣の神は?」
「もう来てるよぉ。中へどうぞ」
「ああ、邪魔する」
為介に案内され、篭也が店の奥の、為介の屋敷へと入っていく。
「今日、美守は?」
「部活だってぇ~」
「ああ、オカルト同好会か」
いつも屋敷にいるはずの雅の姿が見当たらず、篭也が問いかけると、為介は短く答えた。その間に廊下を進み、奥の広めの和室へと通される。そこには、和室には似合わない外見のエリザが、正座をして待っていた。
「済まない。待たせた」
「いいえ、大丈夫よ。私が無理やり、呼びつけたんだし」
エリザへと声を掛けながら、篭也がエリザの向かいへと座る。襖を閉めると、為介も襖のすぐ横へと腰を下ろす。閉め切られた部屋に、妙な緊張感が走る。
「で、話というのは何だ?」
篭也が早速本題へ入ろうと、エリザに問いかけると、エリザは急に険しい表情を見せた。
「説明するより早そうだから、とりあえず見てもらえるかしら」
「見る…?」
「慧」
「はい、エリザ様!」
エリザが天井へ向けて呼びかけると、天井裏にでも潜んでいたのか、上から派手な忍び装束の少女が飛び降りてきた。その少女は、篭也のよく見覚えのあるエリザの神附き、“計守”の慧こと、慧左衛門子であった。だが、降りてきた慧は、篭也の知っている慧とは多少、違っていた。
「お久し振りです、神月殿」
「あ、ああ。髪、切ったんだな、慧」
笑顔で挨拶する慧に、篭也が言葉を返す。慧が以前、武器にもしていた長い髪は、肩より上のところまで短く切られていた。そのせいか、随分と印象が変わっている。
「は?」
「え…?」
大きく首を傾げる慧に、眉をひそめる篭也。篭也は、自分が何か、首を傾げられるようなことでも言っただろうかと考えたが、特に不自然なことは言っていないはずであった。髪型だけではない。慧に何か、違和感のようなものを感じる。
「あ…えっと、この間は済まなかった。あなたが檻也のことを、教えてくれたお陰で、何とか檻也も無事っ…」
「は?」
「……っ」
またしても首を傾げる慧に、今度ははっきりとした違和感を覚え、篭也が眉をひそめ、言葉を止める。
「衣の神、これは…」
「言ったでしょう?説明するよりも、見てもらった方が早いって」
振り向く篭也に、エリザも厳しい表情を見せる。
「数日前、突然帰って来たと思ったら、この状態」
「エリザ様?」
慧へと鋭い視線を送るエリザに、慧はわけがわからない様子で、戸惑うように首を傾げている。
「私が慧を、言姫の監視に付けていたのは、君も知ってるわね」
「あ、ああ…」
確認するように問うエリザに、篭也が詰まりながら頷く。檻也が行方不明になった際、韻に乗り込んだが、和音に真実を教えてもらうことの出来なかった篭也は、監視していた慧から礼獣のことを聞き、檻也を探しに行くことが出来たのである。
「慧、君、私に言姫を監視しろって言われた?」
「え?言姫様をですか?そのような命を、受けた覚えはありませんが」
自然と答える慧に、篭也がさらに眉をひそめる。エリザも同じように、鋭く目を細めた。慧は、嘘をついているような、様子はない。無理に言っている、様子もない。本当に自然な状態で、エリザの問いかけに正直に答えている。
「これは…」
「消されちゃったみたいだねぇ」
張り詰めた空気の中に、軽い口調の声が入って来ると、篭也とエリザが同時にそちらを振り向いた。
「“記憶”」
鋭く微笑む為介に、篭也が表情を険しくする。
「消した?記憶を?」
為介の言葉に、エリザは困惑の表情を見せる。
「それって、どういう…」
「“忘れろ”」
「え?」
問いかけようとしたエリザの言葉を遮り、落とされる一つの言葉。その言葉を口にしたのは、何やら思いつめたような、苦しげな表情を見せた篭也であった。
「和音の、言葉…」
さらに目を細めながら、篭也がゆっくりと呟く。
「“忘れろ”…?まさか、その言葉で、慧の記憶を…?」
「…………」
聞き返すように問うエリザに答えようとはせず、篭也はただ、その場で深く俯く。
「二度と…」
俯いた篭也の口から、小さな弱々しい声が零れ落ちる。
「もう二度と、あの言葉は口にしないと…そう、約束したじゃないか。和音…」
責めるような言葉を落とした篭也は、ひどく哀しげな表情を見せていた。
韻本部、和音自室。
「失礼します」
扉を二度叩き、和音の部屋の中へとやって来たのは、“毛守”の桃雪であった。机で何やら書類を読んでいた和音が、ゆっくりと顔を上げる。
「どうでしたか?」
「ええ。この通りバッチリ、“貰い受けて”きましたよぉ」
和音の問いかけに笑顔で答え、右手をあげる桃雪。その右手の中には青と白の言玉が一つずつ、計二個の言玉が収められていた。
「そうですか。ご苦労さまでした」
「いいえぇ、お易い御用ですよ」
労う和音に、微笑みながら、桃雪は鋭い視線を和音へと投げかける。
「集めて来るのは、二つだけで、宜しかったんですかぁ?」
「ええ」
問いかけた桃雪に、迷うことなく頷く和音。
「残り三つは、もう間もなく、あちらからやって来ますから…」
桃雪から受け取った言玉を見つめ、和音は冷たい笑みを浮かべた。
「…………」
「エリザ様?」
黙ったまま、立ち上がるエリザを見上げ、慧が少し戸惑うように首を傾げる。
「慧、君はしばらく、南の島でトロピカル療養してなさい」
「え?ですが別に、療養するほど疲れておりませんし、それにトロピカルって…」
「神命令よ!聞けないの!?」
「あ、は、はい!」
困惑していた慧であったが、エリザにきつく言われ、少し肩を上げながら、慌てて返事をする。
「だったら、今すぐ向かいなさい。今、すぐよ!」
「わ、わかりました。失礼します」
エリザは険しい表情で、少し怒鳴るように指示をすると、エリザの真意も知らぬまま、慧はかしこまった様子でエリザへと頭を下げ、篭也と為介にも挨拶をして、足早にその場を去っていった。
「あ~あぁ。あんなきつい言い方しなくってもぉ~」
「出掛けてくるわ」
「え?」
慧の出ていった方を見つめ、少し呆れたように為介が言う中、エリザも歩を進め、部屋から出ていく。去っていくエリザの背中に、驚いた様子で顔を上げる篭也。
「ま、待て!衣の神!」
篭也が慌てて立ち上がり、屋敷の外へと出ていこうとするエリザを、必死に追いかける。エリザが出掛けようとしている先がどこなのか、篭也には十分に予想がついていた。
「待て!落ち着け、衣の神!」
勝手口までエリザを追っていき、篭也がエリザの背中へと声を掛ける。
「今はまだ、何もわかっていない状況だ!こんな時に、一人で動くことは…!」
「私ね」
勝手口の前で靴を履いたエリザがやっと足を止め、篭也の言葉を遮るように、声を発する。
「私ね、自分で言うのもなんだけど、わがままだし、自己中だし、正直、神附きからしたら、附いていきますってほどの神様ではないと思う」
態度とは裏腹に、落ち着いたエリザの声が、廊下にそっと響く。
「けどね」
付け加えられると共に、力を増す声。
「自分の神附き傷つけられて、黙ってられるほど、ものわかりのいい神でもないのよ」
「衣の神…」
篭也の方を振り返ったエリザは、射るような、鋭い瞳を見せていた。神附きである慧を傷つけられ、記憶を消され、エリザは激しく怒っている。エリザの怒りが十分に理解でき、篭也はただ、目を細めることくらいしか出来なかった。
「じゃあ、そういうわけだから」
「ま、待て!」
勝手口の扉を開け、屋敷を出て行こうとするエリザを、篭也がもう一度、力強く止める。
「いくら何でも、一人では危険だ!どうしても行くというのであれば、僕も一緒に…!」
「ダメよ」
「何…?」
すぐさま反対するエリザに、篭也が眉をひそめる。
「君はアヒルの神附きでしょ?なら、アヒルに附いていなきゃダメ」
「だが…!」
「何となく、予感がするの」
「え…?」
エリザのその言葉に、戸惑うように首を傾げる篭也。
「言姫が何考えてんのかなんて、私にはわからないけど、でも、その、言姫がやろうとしてることの、鍵を握ってるのは、アヒルなんじゃないかって」
「……っ」
その言葉に、篭也がハッとした表情を見せる。篭也もエリザと同じように、和音がやろうとしている何かには、アヒルの存在が大きく関わっているのではないかと、考えていた。
「アヒルが残っていれば、きっと、その何かは阻止出来るはず。だから君は、アヒルの傍で、アヒルを守って」
笑顔を見せたエリザが、まっすぐに篭也を見つめる。
「もしも私に何かあった時は…その時は、お願いね…」
「衣の神…」
今から自分の身に起こることを、知っているようなエリザのその言葉に、篭也が一層、険しい表情を見せる。
「だぁ~い丈夫よ!私はなんせ、“衣の神”なんだから!」
無理に作ったような明るい笑みを浮かべ、エリザが堂々と胸を張る。
「アヒルのこと、頼んだわよ。安附」
「あ…!」
最後にアヒルのことを託し、エリザが篭也へと背を向けて、勝手口を飛び出していく。篭也は思わず手を伸ばしたが、その手は、勢いよく閉まった勝手口の扉により遮られた。伸ばそうとしていた手を下ろし、篭也が堪えるように、きつく唇を噛み締める。
「あぁ~あ、行っちゃったのぉ」
家の奥から、二人に遅れるようにして、為介がやって来る。
「弱ったなぁ~一応、恵サンに報告しとこうかぁ」
困ったように頭を掻きながら、為介が電話のある店の方へと向かっていく。その背を少し見た後、篭也は立ち尽くしたまま、深く俯いた。
「和音っ…」
名を呼ぶその声は、まるで祈るような声であった。
「ようこそ、お出で下さいました。衣の神」
「……っ」
為介の屋敷を出てすぐに、韻本部の和音の部屋へとやって来たエリザは、満面の笑みで迎える和音へと、鋭い視線を投げつけた。
「私が何故、ここへ来たのかは、わかるわね…?」
「ええ、何となくは」
まるで脅すように、低く響く声で問いかけるエリザであったが、和音はそれに一切動じず、笑顔を崩すことなく頷く。
「恐らくは、あなたの神附きである、計守さんのことでしょう」
涼しげな表情で言うと、和音がまっすぐにエリザを見つめる。
「彼女、ちゃんと“忘れて”いましたか?」
「……!」
嘲笑うように問う和音に、エリザが大きく目を見開く。
「第四音“え”、解放…!」
すぐさま懐から言玉を取り出したエリザが、大きく声を張り上げ、言玉を解放させると、緑色に輝く言玉を、自分の右足へと吸収させる。
「私は神っ…私の神附きを傷つけることは、例え言姫であっても、許しはしないわ!」
力強く叫んだエリザが、輝く右足で床を蹴り上げ、高々と上空へと飛び上がる。
「“抉れ”…!」
空中で大きく右足を振り上げ、和音に向かって、まっすぐに降りていくエリザ。
「毛守さん」
「かしこまりました」
和音に呼ばれ、和音の前へと出た桃雪が、降りてくるエリザを見上げ、冷たい笑みを浮かべた。




