Word.64 動キダス永遠 〈1〉
カモメの命日だった、その日の深夜。一日の授業を終え、山程溜まっていた仕事を終えて、夜も遅い時間にやっと言ノ葉高校を出た恵は、閉店間際の花屋で花を買い、すっかり暗闇と化し、まるで人気もない、言ノ葉霊園を訪れていた。
「…………」
すでにアヒルたちにより掃除され、きれいになっている朝比奈家の墓を見つめ、この墓の下で眠る、心優しい笑顔の青年の姿を思い出し、恵はそっと目を細めた。
「ん…?」
こんな遅くだというのに、近付いてくる足音を耳に入れ、恵が顔を上げて振り向く。
「あ…」
霊園に設置された小さな電灯に照らされ、見えるその人影に、少し驚いたような表情となる恵。
「こんばんは」
現れたその人物は、まるで敵意のない、美しく響く凛とした声を、恵へと向けた。その声を聞いた恵が、特に挨拶を返そうとはせずに、少し呆れたように肩を落とす。
「随分と遅い面会だな。もうすぐ明日だぞ?」
「仕事で遅くなってしまって。そちらもお仕事で、遅くなりましたか?」
「いや。仕事もあったが、私は毎年、この時間だ」
「え…?」
再び墓へと視線を落としながら、そう言う恵に、その者は首を傾げ、戸惑ったように声を漏らす。
「率先して会いに来るほどでもないだろ。私なんて」
力なく声を落とした恵が、自嘲するような笑みを浮かべる。
「こいつを大切に思ってる連中は、山程いる。そいつ等が会いに来てやってれば、それで十分さ」
「自分を卑下する物言いは、相変わらずですね…」
恵の言葉を聞き、その者は少し困ったように肩を落とした。
「いつまでもあなたがその調子じゃ、カモメが哀しんでしまいますね」
「私はいつも、哀しませてばかりさ」
すぐさま言葉を発し、恵がまっすぐに墓を見つめる。
「喜ばせたことなんて、一度だってない」
「…………」
まるで悔いるように響く恵の声に、その者は掛ける言葉を見失い、口を閉じてしまった。
「今回のことは…?」
「従者から報告を受けて、おおよそは」
恵が探るように問いかけると、その者が再び口を開く。
「丁度その日、於の神が私のところへ来ました」
「於崎檻也が?」
その者の言葉に、恵が眉をひそめ、振り向く。
「言姫に不審な動きあり、と」
「……っ」
その者の口から和音の名が出ると、恵の表情がさらに曇る。
「動くのか…?」
「動かざるを得ないでしょう」
険しい表情で問いかける恵に、その者は少し音調を落として呟いた。
「あの子が、安の神が“う”の文字に目醒めてしまった、今…」
「…………」
深く俯いた恵は、込み上げる感情を押し潰すように、きつく唇を噛み締め、拳を握り締める。
「あの封印だけは、絶対に守り抜かねばなりません…」
「ああ、わかってる」
鋭い瞳を見せ、恵が頷く。
「解かせやしないさ。死んだってな…」
強い決意のこもった表情で、恵ははっきりと言い放った。
カモメの命日、翌朝。言ノ葉町の小さな八百屋『あさひな』。
「んん、ん~…ビーフストロ…ガンプ…」
「おは四キロカロリー!アーくぅ~ん!!」
アヒルが自室のベッドの上で丸まり、相変わらずよくわからない寝言を呟いていると、扉を蹴破るほどの勢いで、朝比奈家のヒゲ親父、ウズラが飛び込んでくる。
「これでピーマン、きっと大好きになるアタックぅぅ~!」
「だああああ!」
嵐のようにピーマンを叩きつけられたアヒルが、一瞬にして大きく目を開き、ベッドの上で勢いよく起き上がる。
「ピーマンなんて、元から大好きだってのぉ!」
「ぐほぉぉう!」
アヒルの投げ返したピーマンの一つが、見事にウズラの顎下に直撃し、ウズラがそのまま後方へと倒れ込んでいく。ウズラが倒れた振動で、朝比奈家の二階がかすかに揺れた。
「ナ、ナイスアッパー…ピーマンっ…」
倒れたウズラが、息も絶え絶えな声を漏らす。
「ったく、だいたい俺が呼んだのは、ビーフストロガンプでっ…」
「それを言うなら、ビーフストロガノフよ…?アヒるん…」
「出来ないのは、国語だけではないらしいな」
「うっせぇ!放っておけ!」
部屋のすぐ外、外野から野次を飛ばす篭也と囁に、アヒルは勢いよく怒鳴り返した。
「今日も派手だなぁ」
騒がしい二階を見上げながら、台所で朝食の準備をしているスズメが、少し呆れたように肩を落とす。
「アヒルの奴、兄貴のこと、吹っ切ったみてぇだし、あの恒例行事もなくなるかと思ったけど…」
「そうだね…けどまぁ、いいんじゃない…?」
洗濯機からカゴの中へと、洗濯物を移す作業をしていたツバメが、スズメと同じように天井を見上げ、どこか柔らかな笑みを浮かべる。
「この騒々しさにも…もう慣れたし…」
「それも、そうだな」
ツバメの言葉に頷き、スズメもそっと笑みを零した。
「クッソ!紺平の野郎、篭也たちと先に行きやがって!」
あれから結局、ウズラやスズメたちと、またあれこれと騒いでいたアヒルは、迎えに来たはずの紺平にさえ置いていかれ、一人、必死に学校への道を駆け出していた。
「ああ!これじゃあまた、遅刻だ!」
腕時計で時刻を確認した後、アヒルがひどく困った様子で頭を抱える。また遅刻してしまえば、担任の恵に、どれほど怒られるか、わかったものではない。
「ええい!とにかく急い…!」
「朝比奈!」
「ああ!?」
急いでいる真っ最中のアヒルを、遠慮もなく呼び止める大きな声。
「ここで会ったが二百年目ぇぇ!」
『ほんの数日振りです、アニキ!』
「うるっしゃーい!」
アヒルの行こうとしている道を塞ぐように現れたのは、もうすっかりお馴染みとなっている、守とその他多くの子分たちであった。
「安二木、悪いけど俺、今、マジで急いでっ…」
「朝比奈」
その場に留まってはいるが、いつでも前へと踏み出せるように足は動かしたまま、急いでいることを説明しようとしたアヒルの声を遮って、守が呼びかけ、アヒルのもとへと歩み寄って来る。
「パッツンの言葉、ばっちり戻った」
「へ?」
小声で囁かれた守の言葉に、アヒルが顔を上げ、すぐさま子分たちを見回す。派手な頭の子分たちの中に、一際目立つパッツンの姿を見つけた。パッツンはアヒルを威嚇するように睨んでおり、あれこれと罵声を浴びせているが、この前会った時よりも、ずっと生き生きとしていた。
「感謝する。ありがとう」
「安二木…」
しっかりと礼を告げる守に、アヒルがそっと口元を緩める。
「というわけで、今日という今日こそは、コッテンパンのパンチパーマにしてやる!」
「だあああ!」
詰めていたアヒルとの距離を、後ろに飛び下がるようにして再び開き、大声を放って構えを取る守。そんな守に、アヒルが肩透かしを食らったように、思いきりバランスを崩す。
「何っで、そうなるんだよ!?お前、今、“感謝する”っつったろ!?感謝はどうした、感謝は!」
「それとこれとは別問題だ」
勢いよく怒鳴りあげるアヒルに対し、しっかりと腕組みをし、口を尖らせて言い放つ守。
「というわけで…覚悟だ、朝比奈ぁぁぁ!」
再び構えを取り、守がアヒルへと飛びかかっていく。向かってくる守に、しかめっ面を見せていたアヒルは、すぐさまその目つきを鋭くした。
「ぎゃああああ!」
『ア、アニキぃぃ~!』
アヒルの振り上げた右足により、腹部を思いきり蹴り飛ばされ、守が高々と空を舞って、路上へと倒れ込んでいく。そんな守を見て、悲鳴のような声をあげる子分たち。
「痛たたたたたっ…」
守が蹴られた腹を押さえながら、何とかその場で体を起こす。
「てっめぇ、朝比奈!お前、同じ五十音士である俺に、ちったぁ労りとか、そういうもんはないのか!?」
「それとこれとは別問題なんだろ?俺急いでるから、じゃあな!」
「あ!待て、朝比奈…!」
守の制止に応じるはずもなく、アヒルはそのままその場を駆け出し、守の子分たちの間を通り抜けて、学校の方へと去っていってしまう。
「あ…」
あっという間に取り残され、少し呆然とした声を漏らす守。
「明日こそは、勝ってやるぅぅ!」
『いや、そんな急には無理ですって。アニキ…』
空へ向けて、勢いよく叫びあげる守に、子分たちは冷静に声を掛けた。
言ノ葉高等学校、一年D組。
「セェェェーフ!」
大きく両手を横へと広げ、教室へと飛び込んでくるアヒル。
「アウトだ、阿呆」
「ぎゃあああ!」
そんなアヒルの額に、飛んで来た白チョークが勢いよく突き刺さると、アヒルが、危うく後方へと倒れ込みそうになるところを、必死に堪える。
「痛ってぇなぁ!体罰で訴えんぞ!?」
「これは、何度注意しても、反省の色を見せないお前への愛の鞭だ。問題ない」
怒鳴りあげるアヒルに対し、教壇に立った恵は、出席簿へと視線を落としたまま、何食わぬ顔で答える。
「セ、セーフですかぁぁ!?」
そこへ、アヒルに一歩、遅れるようにして、飛び込んでくる保。
「お前もアウトだ、馬鹿野郎」
「ひええぇ~!こんな年中寝惚けてる俺が、寝惚けて鍋焦がしたせいで遅刻しちゃって、すみませぇ~ん!」
「鍋、大丈夫だったのか…?」
恵からチョークを飛ばされ、それを甘んじて受けながら、謝り散らしている保を見て、アヒルが少し呆れた表情で問いかける。
「罰として、朝比奈は居残り掃除、高市は反省文な」
「ええ!?」
「はぁ!こんな大した発言もしない俺が、一丁前に反省文とか書こうとしてて、すみませぇ~ん!」
恵の言葉に、アヒルが不満げに顔を上げ、保は相変わらずの様子で叫びあげる。
「なんで、俺が居残りで、保だけ反省文なんだよ!?」
「こんなウルサイ奴に資料室来られたら、読書が出来ないだろうが」
まだ叫びあげている保へと冷たい視線を向けながら、恵がはっきりと言い放つ。
「だったら、俺も…!」
「反省文書くかぁ?国語成績“二”」
「うっ…」
恐らく、居残り掃除よりも反省文の方が時間が掛かるであろうアヒルは、恵のその言葉に、反論することが出来なかった。
「掃除、させていただきます…」
「宜しい。じゃあ二人共、とっとと席着けぇ」
了承したアヒルを見て、満足げに頷くと、恵はアヒルと保に席に着くよう指示し、出席の続きを取り始める。
「ったく、相変わらず馬鹿ガァねぇ~」
「アハハ」
呆れたように言い放つ想子の前で、七架は楽しげな笑みを浮かべる。
激しい戦いを終えたアヒルたちに、穏やかな日常が戻って来ようとしていた。
その日、放課後。
「神月くん!」
「ん?」
一日の授業を終え一人、正門を出て、帰路につこうとしていた篭也は、後方から聞こえてくる呼びかけに、立ち止まり、振り返る。
「奈々瀬」
校舎から、グランドを少し駆けるようにして、篭也のもとへとやって来るのは、七架であった。
「今、帰りか?」
「うん、これからバイトなの。神月くんは一人?珍しいね」
「ああ。神は相変わらず、居残り掃除だからな」
「あ、そっか」
篭也のすぐ横へと並んだ七架が、すぐさま納得した様子で頷く。最近はいつもこんな調子で、アヒルが掃除をせずに帰ることの方が、珍しいくらいだろう。
「高市くんは反省文だよね。あ、じゃあ囁ちゃんは?」
「部活だ」
「部活?部活なんてやってたっけ?囁ちゃん」
「お料理クラブというものに入ったらしい」
「へぇ。囁ちゃん、お料理とかするんだぁ」
感心するように言う七架の隣で、囁が作っていた紫色をした味噌汁のことを思い出し、あれを料理と呼んでいいものかと、篭也が険しい表情で考えを巡らせる。
「それで神月くんは、一人帰宅なんだね。あれ?でもお家、こっちだっけ?」
「いや、今日は為の神のところへ寄るんだ」
「為介さんのところへ?」
篭也の言葉に、七架が不思議そうに首を傾げる。
「衣の神から何か、話というものがあるらしい。恵先生に、絶対に行くよう命令されてな」
篭也が肩を落としながら、少し煩わしそうに答える。
「まったく偉そうに…旧世代の神とはいえ、僕はあの人の神附きでも何でもないというのに」
「恵先生、かぁ…」
しみじみと恵の名を呟く七架に、篭也が眉をひそめる。
「どうした?」
「え?あ、ううん。大したことじゃないんだけどね、あの写真…」
「写真?」
「うん。ほら、始忌との戦いの時、恵先生のお家にお邪魔したでしょ?その時、私、たまたま部屋に飾られてた写真を見ちゃったんだけど…」
―――勝手に見てるんじゃない―――
―――あ、すみません―――
恵により、すぐさま伏せられた、笑顔の青年が写っていた、あの写真。
「あれ、朝比奈くんのお兄さんだったんじゃないかなぁ、と思って」
「神の兄…?カモメさんのことか?」
「うん。この前、お焼香させてもらった時に仏壇の写真見て、それで」
初めて、その写真を見た時、七架はその写真の中の青年に、どこか見覚えのようなものを感じた。あれは、その青年と出会ったというわけではなく、その青年と、ずっと共に居るアヒルが、似ていたからなのだろう。
「生徒、なわけはないよね。恵先生、二十四くらいだし。同級生、とかだったのかなぁ?」
「カモメさんと、恵先生が…」
首を傾げる七架の横で、篭也は鋭い瞳を見せ、考え込むように俯いた。




