Word.63 終幕 〈3〉
「……っ」
あまりに強い風に目を開けていられず、強く瞳を閉じていたアヒルは、やがて吹きつける風が弱まったことを感じ、ゆっくりと恐る恐る、その瞳を開いた。
「あ…」
俯いていたアヒルが目を開くと、眼下に広がる、穏やかな町並み。
「言ノ葉、町…」
生まれ育ったその町の名を、アヒルが確かめるように口にする。瞳に映るその町は、少しも失われておらず、いつもと同じ、見慣れた景色が広がっている。
「やった…やったっ…」
アヒルの口から言葉が落ち、その表情にも笑みが溢れ出る。
『おっしゃああああ!』
『やったあああ!』
スズメや守が手をあげ、集まった五十音士たちの中から、歓喜の声が響き渡る。紺平と守、そしてライアンが抱き合って喜び、七架たちが涙ぐみ喜び、皆が皆、嬉しそうな、晴々とした笑みを浮かべる。
「ハハ、ハっ…」
皆の嬉しそうな笑顔を見回し、アヒルがさらに、嬉しそうに笑う。だが笑みを浮かべると同時に、全身の力がすべて、抜けていくのを感じた。
「うおっ」
「神…!」
「アヒルさん!」
力を使い果たし、上空に浮かんでいる力すらも失くして、バランスを崩すアヒルに、篭也たちが焦ったように、身を乗り出す。
「……っ」
そんなアヒルを、掴み止める一本の手。
「阿修羅…」
その手は、アヒルのすぐ横に立っている、阿修羅の手であった。
「ありがとう…」
「いや…」
穏やかな笑みを零し、礼を言うアヒルに、阿修羅もそっと笑みを浮かべた。互いに笑みを向けるアヒルと阿修羅の姿を見て、皆が目を細め、口元を緩める。
「見て!」
後方に居たエリザの声に呼ばれるように、皆が東の空を振り向く。
「朝日がっ」
東の空から徐々に昇っていく、明るい光。光に照らされ、ずっと暗闇に包まれていた皆の居る空が、その下に広がる言ノ葉町が、まるで輝くように、その姿を明らかにしていく。
「夜が、明ける…」
「礼獣は完全に消えた」
眩しいことも気にせずに、ただまっすぐに朝日を見つめるアヒルへと、恵が横から声を掛ける。
「人々の“言葉”も、戻っているだろう」
「ああっ…」
恵の言葉に、アヒルは嬉しそうな笑みを浮かべ、大きく頷いた。
その後、すぐに韻の者たちが言ノ葉町へと駆けつけ、まだ気を失ったままの錨、エカテリーナ、沖也の三人の堕神たちを拘束した。
「元“安の神”、“堕神”阿修羅こと、安積晶」
韻の者により、地上へと降りた阿修羅の両手首に、手錠がされる。
「五年前の言葉による大量殺戮、また、今回の複数名の人間の言葉奪取の罪で、お前を拘束する」
「…………」
阿修羅は反抗する素振りも一切なく、大人しく韻の言葉に従った。
「お姉ちゃん…」
同じように両手首を拘束された棗が、韻の者たちに連行されていこうとする中、名残惜しそうに、姉の櫻と向き合った。櫻は手を伸ばし、拘束された棗の手を握り締める。
「待ってるわ…」
切ない笑みを浮かべ、まっすぐに棗を見つめる櫻。
「例え、何年かかっても…」
「うん…」
櫻の言葉に頷いた棗の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「阿修羅…」
スズメとツバメに支えられるようにして、何とか地面に立っているアヒルが、棗たちと共に連行されていく、阿修羅の背中を見つめ、複雑そうな表情を見せる。
「え…?」
じっと見つめていると、その視線が届いたかのように、阿修羅がゆっくりと、アヒルの方を振り返った。
「……っ」
少しアヒルと目を合わせた後、阿修羅がアヒル、そしてアヒルのすぐ後ろに立つスズメ、ツバメへ向けて、深々と頭を下げる。十数秒、長々と頭を下げると、阿修羅は再び顔を上げ、アヒルたちへと背を向けて、韻へと連行されていった。
「…………」
遠ざかっていく阿修羅の背を見つめ、アヒルがそっと、目を細める。阿修羅の犯した罪は重い。これから阿修羅には、無間とも言えるほどの贖いの日々が待っているのだろう。その日々へと向かっていく阿修羅の背を、アヒルは目に焼きつけるように、ただ必死に見つめ続けた。
「終わったな…」
「ああ…」
すぐ隣で、保や囁に支えられ、立つ篭也に言葉を掛けられ、アヒルがゆっくりと頷く。
「さぁーてと、とっとと帰ろうぜぇ」
「うわっ」
ぼんやりと佇んでいたアヒルの頭に、スズメの腕が乱雑に乗ってくる。
「晩飯、つーか、もう朝飯かぁ。とりあえず何か食わねぇと、俺もう、腹減っちまって」
「そういや俺も、腹減ったかも」
スズメの言葉に、思い出したように腹部に手を当て、アヒルが呟く。戦いばかりで気が逸れていたが、意識してみると、急激に空腹が感じられてきた。
「“今日の晩御飯は、キャベツとナスビのセロリあんかけ、ニンニク味だ”って…昨日、父さん言ってたよ…」
「げぇ!?それ、美味いのかよ!?」
「さぁ…?」
「ハハハっ」
スズメとツバメの会話を聞きながら、アヒルが穏やかに笑みを零す。帰る家を、待っていてくれる家族を思うと、自然と笑みが溢れる。
「ああ、帰ろう…」
やっと安心したように肩を落とし、アヒルがそっと呟いた。
夜明けを迎えた言ノ葉町の、とあるマンションの屋上から、一連のことをすべて見ていた和音が、解散していく五十音士たちを見下ろし、そっと目を細める。
「従者たちが罪人を連れ帰る前に、本部へ戻らねば、マズイのではぁ?」
背中に届く声に、和音がゆっくりと振り返る。
「毛守さん」
「勝手に外出していたことが、バレてしまいますよぉ?言姫様」
屋上の入口から現れ、和音の方へと歩み寄って来るのは、含んだような笑みを浮かべた“毛守”の百井桃雪であった。
「ええ、わかっています。すぐに戻りましょう」
桃雪の言葉に答えながら、和音がもう一度、視線を下ろし、兄や仲間たちと共に家へと戻っていくアヒルの姿を見つめる。
「朝比奈アヒル」
和音の視線の先を知るように、和音のすぐ横へと並んだ桃雪が、アヒルの名を口にする。
「彼、“う”の文字に目醒めたようですねぇ」
「ええ」
桃雪の言葉に、和音が満足げに頷く。
「あなたの目的は達せられたというわけですか」
「ええ」
もう一度頷き、和音が口元を緩める。
「長い時を経て、すべての神が揃いました…」
明るくなっていく空を見上げ、どこか遠くを見るような瞳を見せる和音。
「これでやっと、彼の“封印”を解くことが出来る…」
「“封印”…?」
マンションの入口が作られた、小さな塔の上部に身を潜め、和音と桃雪の会話に耳を傾けているのは、衣団“計守”の女忍者、慧であった。慧は、エリザの命により、和音を見張っていたのである。
「一体、何の話を…?」
まったく理解出来ない二人の会話に、慧が怪訝そうな顔を見せる。
「よくわからないけれど、言姫様が何か企んでいるのは、間違いなさそうだし、一度、エリザ様にお伝えした方が…」
「それは困りますねぇ」
「……!」
考えを巡らせていた慧が、すぐ傍から聞こえてくる声に、大きく目を見開き、顔を上げる。慧の目の前には、慧を高々と見下ろすようにして、満面の笑みを浮かべた桃雪が立っていた。
「あなたの神様にしゃべられると、困る話なんですよぉ。実は」
「ク…!」
慧が素早く飛び上がり、屋上へと降りていきながら、懐から緑色の言玉を取り出す。
「第九音“け”、解放…!」
輝く言玉を、一つに結いあげている長い髪の中へと、吸収させる慧。言玉を呑み込み、ほんのり緑色に輝いた髪が、縛り紐を解き、空中に自由に広がる。
「“蹴散らせ”…!」
屋上に足をついた慧が、広がった髪から、鋭い針のようになった髪を何本も飛ばし、桃雪へと向ける。
「……っ」
迫り来る髪を見つめ、桃雪が余裕の笑みを浮かべると、どこからともなく素早く、白色の言玉を取り出した。
「第三十五音“も”、解放…」
白く輝く言玉を、桃雪が鋭く突き出す。
「“燃やせ”」
冷たい笑みと共に、放たれる言葉。言玉から、真っ白で巨大な炎が、勢いよく放たれと、慧が向けていた髪は一本残らず、灰となった。
「うあ…!」
慧の攻撃を燃やし尽くし、さらに勢いを増して迫って来る炎に、慧が表情を引きつる。
「きゃあああああ!」
炎を正面から食らい、広げていた髪を燃やされ、慧が悲痛な叫び声をあげて、その場に力なく倒れ込む。倒れ込んだ慧の髪の毛は、肩よりも短いところまで燃やし尽くされ、吸収されていた言玉が、力なく地面へと零れ落ちた。
「う、ううぅ…」
「他愛ないですねぇ」
呆れたように笑いながら、目の前へと降りてくる桃雪に、顔を上げた慧が、険しい表情を見せる。一度言葉を受けただけでも、桃雪と自分との力の差を、慧は十分に感じ取ることが出来ていた。感じ取れているからこそ、もう一度、攻撃をしようとすることが出来なかった。
「殺しますか?言姫様」
慧から視線を上げ、涼しげな表情で問いかける桃雪。いつの間にか慧のすぐ後ろまで、和音が歩み寄って来ていた。上半身を起こした慧が、厳しい表情で和音を見上げる。
「いえ…」
「え…?」
否定するように言葉を発する和音に、少し驚いたように声を漏らす慧。
「今は慎重に行動せねばならぬ時…派手な行動を起こして、これまでのすべてを無駄にすることだけは、あってはなりません…」
「では、どうすると?」
問いかける桃雪に、和音がそっと目を細める。
「わたくしの言葉を、使いましょう…」
「あ…!」
着物の袖口から、赤い言玉を取り出す和音の姿に、慧がひどく驚いた様子で、目を見開く。本来、忌と戦う五十音士とは異なる立場である言姫が、自らの言玉を見せることは、極めて稀であった。
「う…!」
「大丈夫です。何も恐れることはありません」
少し怯えたように表情を引きつる慧に、優しく言葉を掛け、和音が言玉を、慧へ向けて突き出す。
「“わ…………”」
「……!」
和音の口から言葉が放たれると同時に、大きく目を見開く慧。
「あ…ああああああ!」
耳が裂けそうなほどに、激しい叫び声をあげると、慧はそのまま瞳を閉じ、力なく地面へと倒れ込んだ。倒れ込んだまま、ピクリとも動かない慧を見て、和音がゆっくりと言玉を下ろす。
「どこまで消したんですか?」
「さぁ。どうでしょうね」
問いかける桃雪に、はぐらかすように答えながら、和音が言玉を袖の中へと戻す。
「命を奪うよりも、ある意味、残酷かも知れませんねぇ。あなたの言葉は」
「どう言われようと、構いません…」
皮肉ったような桃雪の言葉を気にかけることもなく、言玉を片した和音が、屋上の端へと歩を進めながら、昇っていく朝日を見つめる。
「わたくしは、わたくしの願いを叶える為ならば、どんなに酷な言葉であっても口にします」
「やれやれ…」
和音の言葉を聞きながら、桃雪が少し困ったように肩を落とす。
「本当に恐ろしい人だ。あなたは」
一方、その頃、紺平を送り出し、空音と共に言ノ葉町を出た檻也は、人里離れた静かな山奥にある、とある施設を訪れていた。
「そうですか。言姫に不審な動きあり、と…」
「はい」
大きな部屋の中央部に立った檻也が、その部屋の奥の、数段上がった先に立っている人物を見つめ、真剣な表情を見せて頷く。檻也のすぐ後ろに立つ空音も、緊張した面持ちを見せていた。
「彼女が、実際に何を行おうとしているのか、俺には分かりかねます。ですが、予感がするんです」
檻也が視線を落とし、少し不安げな表情を見せる。
「このまま放っておけば、とんでもない事態になってしまうような…そんな予感が…」
「…………」
段上で檻也と向き合うその人物は、深刻そうに呟く檻也の言葉を聞き、かすかにその眉をひそめた。
「わかりました」
部屋に響き渡る凛とした声に、俯いていた檻也が顔を上げる。
「いつか、こんな時が来ると、わかっていました。もう二十年以上も昔から」
「では…」
「動き出すとしましょう」
短く声を発した檻也に、その人物は大きく頷きかける。
「彼等、“韻”が動くというのであれば、我々、“謡”もまた…」
「……っ」
その人物の言葉を聞き、檻也は細めた瞳を、さらに鋭く光らせた。




