Word.62 罪ト罰 〈5〉
「はぁ…はぁ…」
右手の銃を突き出した態勢のまま、肩で大きく息をするアヒル。
「う、うぅ…!」
だが次の瞬間、アヒルの体中を激しい痛みが駆け巡り、アヒルは苦々しい表情を見せて、思わずその場に膝をついた。銃を下ろした右手が、激しく痙攣する。どうやらアヒルも、体の限界が来てしまったようである。
「はぁ…はぁ…」
「殺せ」
「……っ」
耳に届く短い言葉に、乱れていたアヒルの呼吸が止まる。
「阿修羅…」
アヒルへと言葉を向けたのは、仰向けに地面へと倒れ込んだままの阿修羅であった。阿修羅は今までのように、立ち上がろうとする素振りはない。最後に撃ち抜かれた弾丸により、自身の銃は砕かれ、体はもう傷だらけであった。立ち上がるどころか、手足を動かすことさえ出来ないだろう。
「引き金を引くだけだ。痙攣していない左手を使えばいい」
「…………」
こんな状況でも直、冷静に聞こえてくるその声に、アヒルがそっと俯く。少し考えるように目を細めた後、意を決した表情で顔を上げ、地面に膝をついたまま、金銃を持った左手を、倒れている阿修羅へと向けた。視線だけをわずかに動かし、銃口をこちらへと向けるアヒルの姿を確認し、阿修羅がそっと目を細める。
「カモメ…」
そのアヒルの姿を、かつての友の姿と重ね、阿修羅が思わず、カモメの名を口にする。
「これで、いい…」
諦めるように呟いて、阿修羅が穏やかな笑みを浮かべる。
「お前に“許されず”に逝けるのなら…俺も、文句はない…」
「う…」
阿修羅がゆっくりと瞳を閉じる中、アヒルが口を開いた。
「“撃ち抜け”」
―――パァァン!
静けさの戻った丘の上に、一発の銃声が響き渡る。
「え…?」
確かに音は聞いたというのに、自分の体のどこも貫くことのなかった弾丸に、阿修羅が戸惑うように瞳を開く。必死に視線を動かすが、やはり体は撃ち抜かれていなかった。
「なっ…」
「…………」
阿修羅がアヒルへと視線を移すと、アヒルは、構えた金色の銃のその先を、ただまっすぐに空へと向けていた。そのアヒルの姿を見て、阿修羅がさらに戸惑うように声を漏らす。
「何を…何をしている?」
すぐに表情を曇らせ、まるで責めるように、アヒルへと問いかける阿修羅。
「俺が絶対に“許せない”のだろう…!?カモメを殺した俺を、決して“許せない”この俺を殺せ…!」
まるで死を望むように、阿修羅が必死に声を放つ。
「早く殺せ…!!」
「殺せねぇよ」
「何故だ!?」
短く答えたアヒルに、阿修羅はすぐさま問いを投げかける。
「何故、殺さない!?俺が“許せない”のだろう…!?絶対に“許せない”というのに、何故…!」
「思い出しちまったんだ。カー兄の言葉」
阿修羅の問いかけを遮り、空へと向けていた銃を下ろしながら、アヒルがそっと言い放つ。
「“人の、許し合えるところが好きだ”って、言葉」
「……っ」
アヒルが放ったその言葉に、阿修羅がハッとした表情を見せる。
―――俺は“人”の、許し合えるところが好きだよ―――
その言葉は、阿修羅が初めて心を動かされた、カモメの言葉であった。
「……“許す”というのか?俺を…」
少し躊躇うように、阿修羅がアヒルへと問いかけを向ける。
「そのカモメを殺した、俺を…」
まっすぐに向けられる問いかけに、アヒルは少し迷うように俯く。
「俺は、やっぱ天使さまとかじゃねぇから、今、この場で即効、あんたを“許す”とか、そういうことは出来ない」
低く曇ったアヒルの声が、その言葉が本音であることを知らせるようであった。
「カー兄を殺したあんたを、やっぱり“許せない”…」
正直に伝えられるアヒルの言葉を、阿修羅はしっかりと聞き入れる。
「でも…でもいつか、“許したい”…」
顔を上げたアヒルが、真剣な表情を阿修羅へと向ける。
「いつか“許して”、カー兄が大好きだって言ってた“人”に成りたい」
まっすぐに向けられる真剣な眼差しに、アヒルのカモメへの思いが溢れているようで、阿修羅はそれを受け止めるように、ただ一瞬も逸らすことなく、見つめ返した。
「そして、あんたにもいつか、言葉のことを“許して”ほしい」
まるで願うように、向けられる言葉。
「いつか“許し合える”ように、その為に、あんたには生きてほしい」
「…………」
告げられる願いを噛み締めるように、阿修羅は唇を噛み締め、深々とその瞳を閉じた。
「晶さま!」
「……っ」
久し振りに呼ばれる本当の名に、阿修羅が閉じていた瞳をゆっくりと開く。
「晶さま…!」
「棗…」
丘の下方から、阿修羅のもとへと、勢いよく駆け込んで来たのは、棗であった。棗の姿を目にし、阿修羅が少し驚いたような表情を見せる。
「今、傷の治療を…!」
倒れている阿修羅のすぐ横にしゃがみ込み、阿修羅へと両手を向ける棗。必死な棗のその様子を、阿修羅は特に言葉もなく見つめる。
「あ…」
棗の後方から見えてくる姿に、思わず声を漏らす阿修羅。
「晶…」
棗に続き、丘の上り坂を、車椅子の車輪を強く回し、必死にその場へとやって来たのは、櫻であった。かつての名を呼び、櫻が、穏やかな笑みを、阿修羅へと向ける。
「大丈夫…?晶…」
「櫻…何故…」
久し振りに会った仲間の姿に、阿修羅が戸惑うように目を細める。
「何だ、ちゃんと残ってんじゃねぇか」
「え…?」
前方から聞こえてくるアヒルの声に、阿修羅が視線を動かす。阿修羅が見つめる先で、アヒルはどこかやさしい笑みを浮かべていた。
「あんたの手の中に、大切なもの」
「……っ」
―――初めから、この手の中には、何もありはしない…―――
戦いの中で自分の放った言葉を思い出し、阿修羅がまたゆっくりと視線を動かしていく。銃を失い、傷だらけで地面に落ちた、自身の右手を見る。
「晶さま…」
しっかりと阿修羅の右手を握り締め、棗は泣き出しそうな笑みを、阿修羅へと向けた。
「…………」
手の中にある温もりを感じ、阿修羅がまた、噛み締めるように、その目を閉じる。
「櫻、棗…」
瞳を閉じたまま、姉妹の名を口にする阿修羅。
「長い間、済まなかった…」
『……っ』
発せられる、かすかに震えたその声に、櫻と棗は嬉しそうな、安心したような、大きな笑みを零した。
「はぁ…」
「神!」
「ん?」
阿修羅たちの姿を見て、ホッとした様子で深々と息を吐いたアヒルが、後方から聞こえてくる聞き覚えのあるその声に、ゆっくりと振り返る。
「アヒるん…」
「朝比奈くん!」
「篭也、囁と奈々瀬も」
膝をついたままのアヒルのもとへと、不安げな表情で必死に駆けてくるのは、篭也、囁、七架の三人であった。棗たちと共に遠くで戦いを見守っていたが、戦いの終わりを察知し、ここへとやって来たのであろう。篭也がアヒルのすぐ横へと座り、痙攣している右手を持つようにして、今にも倒れそうだったアヒルの体を支える。
「悪りぃ」
「神附きとして、当然の責務だ」
小さく微笑みかけるアヒルに、素っ気なく答える篭也。相変わらずの様子の篭也を見て、アヒルもどこか安心したように笑った。
「腐りかけの死体になってない…?フフフ…」
「死体はしゃべんねぇだろ?ったく」
不気味に問いかける囁に、アヒルが少し呆れた様子で肩を落とす。
「大丈夫?朝比奈くん」
「ああ。俺なら大丈夫だ」
不安げに顔を覗き込む七架へと、安心させるように、大きく笑みを向けるアヒル。
「右手の感覚はもう完全ねぇけど、まぁ後は何とかっ…」
「フハハハハハハ…!!」
「……!」
七架へと言葉を向けていたアヒルが、上空から聞こえてくる大きな笑い声に、眉をひそめ、素早く顔を上げる。
「無様…!実に無様な姿じゃのぉ、阿修羅…!」
「あれは…」
「現…!」
戸惑う櫻の横から、棗が険しい表情でその名を呼ぶ。暗い空の中に浮かんでいるのは、白髪の小柄な老人、現であった。棗に支えられ、上半身だけを起こした阿修羅が、上空の現を見上げ、眉間に皺を寄せる。
「誰だ?あいつ」
「恐らくは、堕ちし“宇の神”だ」
「宇の…?」
篭也のその言葉に、戸惑っていたアヒルが、少し眉をひそめる。
「これも、わしの手を煩わせた罰かのぉ」
上から見下すような視線を注ぐ現に、阿修羅が不快そうに表情をしかめる。
「俺を笑いに来たのか…?随分と暇なことだな」
「相変わらずの減らず口じゃのぉ」
阿修羅が挑戦的に言うと、現は笑みを止め、表情を歪めた。
「まったく、とんだ役立たずじゃったわい。お前も、他の堕神たちも、こんなヒヨっこ共に敗れるとはのぉ」
阿修羅たちが鋭い視線を向ける中、現はアヒルたちを見下ろし、呆れ果てたように首を横に振り、深々と肩を落とす。
「お陰で、五母の光はすべて失われて、我が可愛い礼獣は、集まった五十音士共によって倒されようとしておる」
「だったら、何だ…?」
上空の現を睨みつけるように見て、強気に言い返す阿修羅。
「だったら、とっとと次の鴨でも見つけて、また何なりと生み出していればいいだろう」
「ほぉ、どうやら自分が鴨であった自覚はあるようじゃのぉ」
揚げ足を取るように言う現に、阿修羅がまた少し、表情を引きつる。
「お前などに言われんでも、そうするわい。じゃが、その前に…」
皆が戸惑う中、現が右手の杖を、高々と掲げる。
「一つ、やることがあってのぉ…!」
掲げられた杖の先端についた、金色の言玉が、強く輝き始める。
「“浮かべ”…!」
「うお!」
もう瀕死の状態である礼獣へと、トドメとなる攻撃を繰り出そうとしたスズメとツバメが、急に強い光に包まれ、その巨体を浮かびあがらせていく礼獣に、思わず攻撃を止める。
「これは…?」
ゆっくりと浮かび上がっていく礼獣の巨体を見上げ、その場に居る五十音士の皆が、戸惑いの表情を見せる。
「……っ」
その中で恵が一人、険しい表情を見せる。
「何だ?あのデカ獣が…」
町の中央部から、ゆっくりと空へと浮き上がっていく礼獣の姿を捉え、アヒルが首を傾げる。篭也たちや阿修羅も戸惑った様子で、巨体の浮き上がるその光景を見つめていた。
「フハハハハハ…!」
再び大きな笑い声をあげた現が、遥か上空へと浮かび上がり、空中で動きを止めた礼獣へと、言玉のついた杖の先を向ける。
「“生まれ変われ”…!」
「ギャアアアアアア…!!」
『……っ!』
言葉と共に、現の杖の先から飛び出た光線を浴びた途端、礼獣が激しい叫び声をあげて、その原型を崩していく。粘土細工のように、無理やり捻じ曲げられて、姿を変えていく礼獣に、アヒルたちが皆、目を見開き、驚きの表情を見せる。
「現!何を…!」
阿修羅の横から身を乗り出し、皆の代わりに、現へと問う棗。
「なぁに、わしの可愛い礼獣の体を、少し便利なように造り変えただけじゃよ」
下方に居る棗へと、現が冷たい笑みを向ける。
「便利な、ように…?」
「ああ」
曇らせた表情で聞き返す阿修羅へと、現が大きく頷きかける。
「礼獣が今、この瞬間までに溜め込んだ言葉の力を、この場で、一気に爆発させられるようにな」
「何だと…!?」
現の言葉に、目を見開く阿修羅。
「後二分じゃ」
そんな阿修羅へと、現が指を二本、突き立てた左手を向ける。
「後二分もすれば、あの礼獣であったものは爆発し、お前たち諸共、この町は跡形もなく消え失せるのじゃよ!」
『なっ…!?』
現が告げるその言葉に、衝撃を走らせる皆。
「言ノ葉町が、消える…?」
現の言葉を繰り返し、アヒルも大きく目を見開いた。




