Word.61 うケ継グチカラ 〈3〉
――――………………
「んっ…」
うつ伏せに倒れ込んでいたアヒルが、ゆっくりと、その瞳を開く。
「あれ?俺…」
先程まで、意識が飛んでしまいそうなほどに感じていた痛みがなくなっていることに気付き、アヒルが戸惑うように声を出しながら、体を起き上がらせていく。体は軽々と動き、起き上がってから見回してみると、負っていたはずの無数の傷は一つもなく、制服もきれいなままであった。
「な、何だ?」
自分の両手を見つめながら、アヒルが困惑の表情を見せる。
「確か俺…あれ?一体全体、何だってい…」
「アーくん」
「……!」
戸惑いをすべて口にするように、言葉を吐きだしていたアヒルであったが、耳に届く、その短い声に、すぐさま言葉を止め、大きく目を見開いた。恐る恐る、どこか怯えるように、アヒルが顔を上げ、声の聞こえてきた後方を振り向く。
「アーくんっ」
ただ、どこまでも白い世界に佇む、笑顔の青年。少し首を傾けて、アヒルへと微笑みかけている。
「カー兄…」
大好きだった兄の姿を瞳に映し、アヒルはさらに困惑するように、深々と眉をひそめた。
「久し振りだねぇ、アーくん。大きくなってぇ。今、俺と同い年くらいかなぁ?」
「…………」
「アーくん?」
満面の笑みで、親しげに話しかけるカモメであったが、アヒルは険しい表情でカモメを見つめたまま、まったく言葉を発しようとはしない。そんな様子のアヒルに、カモメは戸惑うように首を傾げた。
「カー兄…?いや…」
アヒルが何かを否定するように、首を横に振る。
―――アーくんが言ったんだ。“居なくなれ”って―――
「また、幻覚じゃ…」
警戒するように、身構えるアヒル。アヒルの脳裏には、かつて戦った始忌の一人、桃真が力で見せた、カモメの姿を騙った幻覚のことが過ぎっていた。カモメの姿に惑わされ、アヒルは自らの手で幻覚を破ることが出来なかったのである。今度はそういったことのないようにと、アヒルが警戒の色を前面に押し出す。
「……っ」
強張ったアヒルの表情を見ると、少し目を細め、カモメはより一層、大きく笑った。
「アーくん」
「あ…」
再び笑顔で呼びかけるカモメに、アヒルが表情を揺らす。泣いてしまいそうになるほど、懐かしい声。温かくなる笑顔。それは、幻覚で見たカモメとは、まるで違っていた。
「か、カー兄…?」
少し首を傾け、アヒルが恐る恐る、カモメを呼ぶ。
「うん」
「カー兄…」
大きく頷くカモメに、アヒルがもう一度、今度は確信するように、カモメを呼んだ。
「本、当に…幻覚じゃ、ないんだ…」
「まぁ、幻覚みたいなものなんだけどね。でもちゃんと本物だから、安心して」
カモメがアヒルの方へと歩み寄りながら、笑顔で言葉を放つ。カモメの言葉を聞いただけで、安心しきってしまう心に、アヒル自身が戸惑ってしまうほどであった。
「最期の言葉で、俺に残ったすべての力を、アーくんのところに送った」
「言葉で?」
「うん」
不思議そうに聞き返すアヒルに、カモメは優しく頷く。
「俺の力は、アーくんの中で眠ってたガァスケの一部になって、ずっとアーくんと一緒に居たんだ」
「ガァスケの…あっ」
カモメの言葉に驚いていたアヒルが、ふと何か思い出したように、声を漏らす。
―――大丈夫だよ…―――
桃真の幻覚に、完全に挫けてしまったアヒルへと、差し出された、温かい一本の手。
―――ガァスケ?―――
幻覚から目覚めると、アヒルの手の中には、小さなガァスケの体があった。
「じゃあ、あの時、俺を助けてくれたのはっ…」
戸惑うように、だがどこか確信を持って、アヒルが歩み寄って来るカモメを見つめる。
「晶の空間の中じゃ、自由に動くことが出来なかったんだけど、篭也に手伝ってもらってね、何とかこうして、アーくんのところへ来れたんだ」
「篭也、の…」
目の前へとやって来たカモメの手を借りて、アヒルがゆっくりと立ち上がる。
「アーくんに、どうしても伝えたいお願いがあって」
「お願い…?」
「うん」
首を傾けたアヒルに、カモメはまた笑顔で、大きく頷いた。そして笑顔のまま、そっと目だけを細める。
「晶を、救ってほしい…」
「……っ」
切々と伝えられる、カモメのその願いに、アヒルは少し驚くように、眉をひそめた。
「阿修羅、を…?」
「うん」
戸惑うように聞き返したアヒルに、カモメは少しの間を置くこともなく頷いた。
「あいつはっ…あいつはカー兄を殺したんだぞ…!?」
まっすぐにカモメを見つめたまま、アヒルが思わず声を荒げる。
「うん」
だが、そんなアヒルの声にも動じず、カモメはあっさりと頷いた。
「他にもたくさんの人を殺した!」
「うん」
「言ノ葉町の皆の、自由ある言葉を奪った!」
「うん」
必死に言い放つアヒルの言葉の一つひとつに、カモメは頷いていく。
「今、世界中の人たちから、自由ある言葉を、意志を、奪おうとしてる…!」
「うん、うん…。知ってる、全部」
悟ったような笑みを浮かべ、カモメがそっと頷く。そんなカモメに、険しい表情を見せると、アヒルが強く口を閉じ、荒げていた声を止めた。
「……それでも、救えって…言うのか?」
「うん…」
先程とは打って変わって、小さく届く問いかけに、カモメは深く頷いた。
「晶は、俺の神なんだ。たった一人の、大切な神様なんだ…」
願うように紡がれるカモメの声に、アヒルが徐々に顔を俯けていく。
「殺されたってのに、まだあいつのこと…“神”だなんて、呼ぶのかよ…?」
「うん、俺の神様だよ」
批判するように問いかけるアヒルに対し、カモメは一瞬も躊躇うことなく、すぐさま答える。
「そして、俺の親友だ」
カモメのその言葉に、俯いていたアヒルの表情が、かすかに動く。
「だから、救ってほしい」
俯いたアヒルの頭を見つめ、カモメがもう一度、願う。
「それはもう、アーくんにしか出来ないことなんだ」
「…………」
深く俯き、カモメの声を耳に入れながら、言葉を発しようとはせず、押し黙っているアヒル。何の反応も示さないアヒルに、カモメが少し戸惑うように首を傾げる。
「アーくん…?」
少し遠慮がちに、アヒルへと呼びかけるカモメ。だが、それでも、アヒルは反応を示さない。
「やっぱぁ、無理かな?調子良すぎる?あのぉ、えっとぉ…」
何も答えようとしないアヒルに、ひどく困り切った様子でカモメが言葉を繋いでいたその時、カモメの左肩へと、アヒルの強い拳が届いた。
「うわ、痛!」
重い音を立てて、やって来た拳に、カモメが痛みにというよりは、驚いた様子で声をあげる。
「アーくん、怒っちゃった!?えぇっと、じゃあその、俺の宝物だった“恋盲腸特製抱き枕”を…!」
「ムズいこと、言うよなぁ…」
「へ?」
焦った様子でその場を何とか取り繕おうとしたカモメが、アヒルの口から零れ落ちる小さな声を聞き取り、目を丸くする。
「“ぶっ倒せ”って言われた方が、全然楽だぜ。って、楽なわけじゃねぇけど、その方が、まだマシ?」
拳を引いたアヒルが、ゆっくりと顔を上げる。アヒルは少しばかり表情をしかめていたが、カモメが気にするように、怒っている様子はまったくなかった。
「ったく、カー兄も面倒なこと、頼んでくれるよなぁ」
「アーくん…」
困ったように頭を掻くアヒルを見つめ、カモメが再び笑みを浮かべる。
「けど、アーくんはわかっててくれたじゃない」
優しく微笑み、カモメがアヒルの頭を撫でる。
「俺がこうして頼む前から、俺の願い、わかっててくれたじゃない」
「それは…」
同じような年頃となってしまった兄に、頭を撫でられ、気まずそうに俯きながらも、アヒルは久し振りのその手の感触を、振り払うことなど出来なかった。
「当ったり前だろ?俺はカー兄の弟なんだから、カー兄の言いそうなことくらい、わかるっての」
「アハハ、それもそうだね」
悪態づくように言うアヒルに、カモメはどこか嬉しそうに笑みを零した。
『あ…』
アヒルの頭から離れたカモメの手が、金色の光を放ちながら薄れていく光景を目にし、アヒルとカモメが互いに表情を曇らせる。
「そろそろ、時間だね…」
金色の光に包まれていく自身の体を見つめ、カモメが少し悲しげに微笑む。
「かなり名残惜しいけど」
「カー兄…!」
縋るように名を呼ぶアヒルを見て、そっと目を細めると、カモメは薄れ始めている両手で、アヒルの左手を取り、力一杯握り締めた。握り締めた手を持ち上げ、自分の額へと当てるカモメの姿は、まるで祈りでも捧げているかのようであった。
「俺の力…これできっと、完全になるはずだから…」
「え…?」
握り締められたカモメの両手から、全身へと伝わってくる金色の光に、アヒルが戸惑うように首を傾げる。やがてカモメの両手から放たれた光が収まると、カモメはゆっくりと、額から手を離した。
「ごめんね。大変なことばっかり頼んでるのに、こんなことくらいしか、してあげられなくて…」
手を握り締めたまま、カモメがまっすぐにアヒルを見つめる。
「ごめんね。俺への言葉のせいで、ずっとずっと、いっぱいいっぱい、苦しめて…」
「……っ」
向けられるカモメの謝罪を、必死に否定するように、アヒルが何度も何度も、首を横に振る。
「ごめんね。たったの十年しか、アーくんのお兄ちゃんで、居てあげられなくてっ…」
カモメの声がかすかに震え、細められた瞳が、わずかに光るもので潤む。
「違う…違う。謝るのは俺だよ、カー兄っ…」
同じように瞳を潤ませながら、アヒルが光に包まれていく兄へと、必死に言葉を投げかける。
「あんな言葉っ…」
―――兄ちゃんなんか、居なくなればいいんだ…!―――
ずっと、背負ってきた言葉。
「あんな言葉っ…向けて、ごめん…!」
ずっと伝えられずに、胸に持ち続けていた言葉を、アヒルがやっと口にする。
「あんなこと言って、ごめん…!ごめん、カー兄…!ごめん…!」
何度も謝るアヒルの声が、大きく震える。
「居なくなればいいなんて、思ったことっ…一回もない!俺、カー兄が居てくれて良かった…!」
必死に言葉を放つアヒルの瞳から、涙が溢れ出す。
「カー兄が兄ちゃんで、本当に良かった…!!」
「……っ」
涙を流しながら、はっきりと言い放つアヒルのその言葉に、カモメが目を細め、心の底から嬉しそうな笑顔を見せる。
「うん、許すよ」
カモメの、もう完全に光と化し、感触すらも感じない手が、流れ落ちるアヒルの涙を撫でる。
「俺は、許すよっ…」
噛み締めるようにその言葉を呟いて、カモメがアヒルから手を離し、数歩、後ろへと下がる。すでにカモメの両足は、金色の光の粒子となって、消え始めていた。
「大丈夫。アーくんなら大丈夫だって、俺は信じてる」
目一杯の笑顔を咲かせ、カモメがアヒルへと言葉を向ける。
「だって、アーくんはっ…」
「あ…!」
光となって、どんどんと消えていくカモメの体に、思わず身を乗り出すアヒル。
「俺の、自慢の弟だから!」
誇らしげにそう言葉を放って、カモメの体が完全に金色の粒となって、掻き消えていく。
「カー兄っ…」
舞い上がっていく光の粒子を見上げ、目を細めるアヒル。
「カー兄ぃぃぃぃっ…!!」
アヒルの大きな声が、その何もない空間へと響き渡ると、空間全体が金色の強い光を放った……――――
「何…!?」
思わず顔をしかめ、声をあげる阿修羅。アヒルへと向けたはずの、今までで一番巨大な阿修羅の弾丸が、アヒルへと届くその前に、突如、跡形もなく、きれいに消えてしまったのだ。
「何だ?一体、何がっ…」
「……っ」
「な…!?」
消えてしまった弾丸の向こうで、ゆっくりと立ち上がるアヒルの姿を視界に入れ、阿修羅がさらに驚いた様子で目を見開く。
「馬鹿な…あの傷で…」
今までの落ち着いていた表情とは異なり、唖然とした様子で呟く阿修羅。アヒルの傷は重く、立ち上がるどころか、指一本動かすことも困難なほどの状態であるはずだった。
「何故だ…?何故、立てる…?」
困惑するように眉をひそめる阿修羅の額から、一筋の汗が流れ落ちる。
「…………」
戸惑う阿修羅が見つめる中、起き上がったアヒルは、ゆっくりと自身の体を見回した。全身は淡い金色の光に包まれており、その光の影響か、負った傷口から流れ出ていたはずの血が止まっている。
「行こう…」
誰かへと話しかけるように言って、アヒルが銃の握る手とは逆の手、左手を、ゆっくりと空へと掲げる。
「カー兄…!」
アヒルがカモメの名を呼んだその瞬間、掲げられたアヒルの左手から、強い金色の光が発せられた。
「ク…!」
目に飛び込んでくる強い光に、阿修羅が思わず顔をしかめる。
「何だ…?この光…あっ…!」
戸惑うように言葉を口にしていた阿修羅が、眩しさも忘れ、大きく目を見開く。掲げられたアヒルの左手の中に現れるのは、五十音士であれば誰もが見覚えのある、小さな丸い、金色の宝玉。
「言玉…?言玉だと…!?」
信じられないといった様子で叫びながらも、アヒルの右手の中を確認する阿修羅。アヒルの右手には確かに、アヒルの言玉から姿を変えた、真っ赤な銃が握り締められていた。
「アヒルの言玉は確かに、そこにっ…」
銃を確認し、阿修羅が再び、左手の中に現れた、金色の言玉へと視線を移す。
「二つ目の言玉、だと…?」
「五十音、第三音…」
阿修羅が困惑する中、アヒルがはっきりと口を開き、現れたばかりの金色の言玉を、力一杯握り締める。
「“う”、解放…!!」
アヒルの言葉と同時に、握り締めた言玉から、強い金色の光が発せられた。
「そう…」
アヒルと阿修羅の戦う丘から、少し離れたマンションの最上階に立ち、空へと突き上げている円柱状の空間を見つめながら、和音が満足げに頷く。
「あなたは、それでいいのです…」
空を仰いだ和音が、含んだような笑みを浮かべる。
「朝比奈アヒル…」




