Word.60 鬼ト化シタ神 〈4〉
――――ただ、あの人に、笑ってほしかった。
「棗、この人が私の神様。安積晶よ」
「よ、よろしくお願いします…!」
「ああ…」
あまり、感情を表に出さない人。あまり、人と関わることを得意としない人。
「苦手でもしっかり野菜食べないと、体悪くなっちゃうよぉ~?晶~」
「苦手なわけじゃない。前世がベジタリアンだったから、今世は間に合ってるだけだ。きっと」
「何、それぇ~」
少し、見栄っ張りな人。かなり、照れ屋な人。困るくらい、不器用な人。
「おかえり、お兄ちゃん!」
「ただいま、飛鳥」
とても、優しい人。
笑ってほしかった。あの日と同じ笑顔で、優しく、笑ってほしかった……――――
言ノ葉町、中央部。
「ん、んんっ…」
大きな、扱いきれないほどに強い光に呑まれたはずの棗は、自分を覆い尽くしていた光が消えていることを肌で感じ、固く閉ざしていた瞳を、ゆっくりと、恐る恐る開いた。
「あ…!」
棗が開いたその瞳を、さらに大きく見開く。
「はぁ…はぁ…」
目を開いた棗のすぐ目の前には、息を乱し、上下に肩を揺らしながら、苦しげに呼吸している七架の姿があった。七架は、籠手を纏った棗の右手を、両手で握り締めており、その両手は激しく傷ついて、赤い血が滴り落ちていた。七架の周囲には、ぼろぼろに砕けた七個の十字が、無残に落ちている。
「と…止めた、のですか…?私の“奈変”を…」
状況を確認するように、周囲を一周見回した棗が、戸惑った表情で、七架へと問いかける。すると、顔を上げた七架は、そんな棗へ、優しく笑みを向けた。
「うん、私の奈変の力を正面からぶつけて。止められるかどうかは賭けだったけど、でも良かっ…」
「何故です!?」
「え…?」
七架の言葉が、棗の強い問いかけにより遮られる。
「何故…何故、このような無謀なことを…!」
「だって、あのまま無理に奈変をさせたら、棗さんが危ないと思って…」
「危なくて、何がいけないのです!?私はあなたの敵でしょう…!?」
「……っ」
非難するように、必死に言葉を浴びせる棗を真正面に、七架がそっと目を細める。
「言ったでしょ…?“優しさ”は捨てられないって…」
七架が口元を緩め、さらに柔らかく笑う。
「それに…私やっぱり、あなたのことを、“敵”とは思えない…」
「え…?」
七架のその言葉に、棗が眉をひそめる。
「私…よくわかるの。あなたの気持ち…」
「わかる…?」
その言葉を低い声で繰り返し、険しい表情となっていく棗。
「あなたに何がわかるというのです…?」
「棗さん…」
少し俯き、問いかける棗に、七架が眉をひそめる。
「あなたに…あなたなどに、私の何がわかるというのです…!?」
勢いよく顔を上げた棗が、喰ってかかるように、七架へと問いかけを向ける。
「あなたに、あなたなどにわかるはずがない!私の、私の気持ちなど…!」
「わかるよ」
棗の必死の声を遮って、七架はもう一度強く、主張した。
「だって、私も、私の神様が大好きだから」
「え…?」
そう言って笑う七架に、棗は必死に続けていた言葉を止め、戸惑うように声を漏らす。
「私も、あの人のことが大好きだから…」
その言葉を繰り返しながら、七架が少し俯く。
―――ごめんな…―――
自分が放ったわけでもない“居なくなれ”という言葉に、ただ悲しげに謝ったアヒル。ただ、悲しげだったアヒルの姿が目に焼きついて、それから七架は、アヒルのことを、目で追うようになった。
「だから、出来ることなら…あの人の背負う悲しみを、消してあげたい…」
願うように言う七架を、棗は目を逸らすことなく、まっすぐに見つめた。
「あの人の背負う悲しみを、少しでも軽くするために、私に出来ることがあるなら…何だってしたい」
俯いていた七架が、ゆっくりと顔を上げていく。
「あの人にはいつだって、笑っていてほしいから…」
「……っ」
棗の胸の中にあるその言葉を、同じように口にし、笑う七架の姿を見つめ、棗は思わず、驚いたような表情を見せた。力なく俯いた棗が、苦しげに目を細める。
「私も…私、だって…」
どこか戸惑うように、途切れ途切れの言葉を落とす棗。
「私だって、ただ、あの人に笑ってもらうためだけに…!」
「あなたの道の先に、あなたの神様の笑顔はあるの…?」
「……っ」
顔を上げ、主張する棗に、真剣な表情で七架が問いかけると、棗は思わず口ごもった。
「あなたが今、進もうとしている、この道の先に…本当に、あなたの大切な人の、笑顔はあるの…?」
「そ、それは…」
すぐに答えを口にすることが出来ず、棗がどこか逃げるように、七架から視線を逸らす。
「あ、ある…あるに決まっています!すべての言葉に秩序をもたらせば、あの人はきっと笑って…!」
「じゃあ、なんで、朝比奈くんを通したの?」
必死に答える棗の声を、七架はまたしても鋭く、遮った。
「朝比奈くんに止めてほしかったから、足止めもせずに、ここを通したんじゃないの?」
七架が射るように、まっすぐに棗を見つめる。
「本当は、わかってるんじゃないの!?この道は、間違ってるってこと…!この道の先に、その人の笑顔はないってこと…!」
徐々に声を荒げ、七架が熱く、言葉を放つ。
「……っ」
七架の言葉を聞きながら、棗が強く、唇を噛み締める。
「その人を止めてほしくて、だから、朝比奈くんを通したんじゃないの…!?」
「違う…!!」
「ああ…!」
強く否定した棗が、右手を掴んでいた七架の両手を振り払い、七架の体を勢いよく跳ね除ける。棗の奈変を止めることで力を使いきった七架は、抵抗することも出来ずに、力なく地面に倒れ込んだ。
「違いますっ…違います!」
「棗さん…」
何度も首を横に振り、必死に否定する棗を、七架が倒れたまま見上げ、どこか悲しげに眉をひそめる。
「私は…私は、あの人の望みを叶えるっ…」
自分に言い聞かせるように言葉を発し、棗が籠手を纏った右手を、強く握り締める。
「だから私は、あなたを倒す…!」
「あ…!」
強く決するように言葉を放って、飛び出してくる棗に、七架が焦ったように声を漏らす。すでに奈変の十字も崩れた七架には、向かってくる棗に対抗する術がなかった。
「“詰れ”…!」
「う…!」
振り下ろされる棗の右手に、七架は覚悟を決めたように、きつく両目を閉じた。
「“妨げろ”」
「何…!?」
「え…?」
耳に届くその言葉に、戸惑いながらも、すぐさま瞳を開く七架。七架が目を開くと、七架の周囲を取り囲むように、赤い光の膜が張られており、七架へと向けられた棗の拳は、その膜により、止められていた。
「こ、これは…!」
「大丈夫…?」
棗が戸惑う中、七架が声の聞こえてくる後方を、勢いよく振り返る。
「七架…」
「囁ちゃん…!」
後方に立つ、横笛を構えた囁の姿を視界に入れ、七架は嬉しそうな笑みを零した。
「左守っ…」
七架と同じように囁に気付いた棗は、少し表情をしかめながら、警戒するように後方へと下がり、囁との間に距離を取る。
「囁ちゃんも、大丈夫?堕神は?」
「大丈夫。ちょっと助けてもらっちゃったけれど、無事に終わらせたから…」
身を起こしながら、不安げに問いかける七架に、手を貸しながら、安心させるように笑みを向ける囁。七架を立ち上がらせると、囁がゆっくりと、棗の方を振り向く。
「さてと…」
横笛を握り直す囁に、素早く身構える棗。
「私の邪魔をするというのであれば、あなたも…!」
「もういいわ、棗…」
「……!」
今度は囁へと攻撃するべく、構えた右拳を振りかぶった棗であったが、右方から聞こえてきた、よく聞き覚えのあるその声を耳に入れ、大きく目を見開いた。拳の動きを止めたまま、棗が恐る恐る、声の聞こえてきた方を振り向く。
「もう、やめましょう…」
そこに居るのは、車椅子に乗った、一人の女性。
「棗…」
「お姉、ちゃん…」
その女性は、五年前に別れたきりの姉、櫻であった。久し振りに見る姉の姿に、棗の表情が曇る。
「……っ」
棗は確認するように、姉の両足を見ると、気まずそうに視線を落とした。車椅子に乗っているところから、五年前、晶に撃たれた櫻の両足が、動かなくなってしまったことを察したのだろう。
「櫻、さん…?」
「私が連れてきたの…」
戸惑う七架へと、囁が小声で言う。
「今更、何をしにきたんです…?そんな体でのこのこと、こんなところまで…」
「棗…」
どこか刺々しく言う棗を見つめ、櫻がそっと目を細める。
「私と我が神の邪魔でもしにきたのですか…?そうですよね。私たちは、あなたの“敵”ですもの」
続いていく棗の言葉に、櫻の表情が曇る。
「この子たちに、奈変を教えたのも、あなたなんでしょう…?私たちの邪魔をするために、教えた…」
「ええ、そうよ…」
櫻が棗の言葉をすべて認めるように、大きく頷く。
「あなたに、晶に…もうこんなことは、人の言葉を奪うようなことはやめてほしくて、彼女たちに力を与えた」
囁と七架に少し視線を流し、櫻が答える。
「もう、やめにしましょう…棗…」
櫻が棗へと、もう一度、その言葉を掛ける。
「五年前、私たちの止めることの出来なかったものは…たくさんのものを、傷つけ過ぎた…だからもう、ここで、終わりにしましょう…」
棗を見る櫻の瞳が、どこか悲しげに瞬く。
「これ以上、傷つけることは…」
「どうやって、止まれっていうの…?」
「え…?」
助けを求めるように聞こえてくる問いかけに、櫻が少し戸惑う。
「棗…」
「私たちは、もう、こんなところまで来てしまった…」
俯いたままの棗が、籠手を纏っていない左手を、そっと左胸に当てる。
「もう、この悲しみは止められないっ…」
言葉を続ける棗の声が、かすかに震える。
「人の言葉を奪うことでしか…」
胸に当てていた左手を下ろすと、棗が込み上げる想いを握り潰すように、右拳へと力を込める。
「もう、あの人は、笑ってくれないの…!!」
「棗さん…!」
力いっぱい拳を握り締め、櫻のもとへと飛び出していく棗に、七架が焦った様子で声をあげる。その横で、落ち着いた表情を見せた囁は、素早く横笛を奏でた。
「“叫べ”」
「ううぅあ…!」
櫻へと攻撃しようとした棗へ、囁が振動の塊を放つ。それが棗の振り上げた右腕に直撃し、籠手が砕けると、棗はそのまま力なく、その場へと倒れ込んだ。砕けた籠手が地面に落ち、もとの赤い言玉の姿へと戻る。
「う…うぅ…!」
七架との戦いと、未完成の奈変の発動もあり、すでにボロボロの状態の棗であったが、それでも必死に起き上がり、落ちた言玉へと手を伸ばそうとする。
「まだ…私は、まだっ…」
険しい表情で、棗が必死に言葉を繋ぐ。
―――俺に従うというなら、附いて来い…―――
思い出される、あの日の悲しげな瞳。
「私は…!」
まだ戦意は失わず、言玉へと手を伸ばす棗の姿を見て、囁がさらに言葉を向けようと、横笛の口に当てる。
「待って!」
「え…?」
音色を奏でようとした囁を止めたのは、七架であった。そんな七架に、囁が少し戸惑うように眉をひそめる。
「けれど…」
「私に任せて、お願い」
「……わかったわ」
真剣な眼差しを向ける七架に、反論することも出来ず、囁は諦めたように頷くと、構えていた横笛を下ろした。
「棗さん」
囁から棗の方へと顔を向けた七架が、凛とした声で棗の名を呼ぶ。
「どんなに悲しみを追いかけても、その先に待ってるのは、悲しみだけだよ」
「……っ」
聞こえてくるその言葉に、言玉へと届こうとしていた棗の手が、ふと止まる。言玉を掴むことにばかり集中していた棗が、ゆっくりと顔を上げ、七架の方を見る。
「悲しみの先には、悲しみしかない。悲しみを終わらせるには、きっと、立ち止まって、受け止めるしかないんだと思う」
顔を上げた棗をまっすぐに見つめ、七架が言葉を続ける。
「だから、止めないと…」
七架がどこか、促すように言う。
「止めないと、きっと、笑ってくれない…」
どこか悲しげに細められる、七架の大きな瞳。
「あの人は、笑ってくれないよ…」
「……っ」
真正面から向けられる七架の言葉を聞き、棗が見開いていたその瞳を、ゆっくりと力なく細めていく。
「あなたなら…止め、ましたか…?」
先程までとは異なり、落ち着いた口調となって、棗が静かに七架に問う。言葉を向けられると、七架はすぐに、穏やかな笑みを作った。
「うん」
「…………」
迷いなく頷く七架の笑顔を見て、棗はゆっくりと両目を閉じ、言玉へと伸ばしていた右手を地面に落とし、そっと俯いた。
「う…ううぅ…!」
深く俯いた棗の、その閉じた瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
「ううぅ…!」
「棗…」
櫻は車椅子を動かし、しゃがみ込んだままの棗へと近寄って、穏やかな笑顔を浮かべ、まるであやすように、優しくその髪を撫でた。
『……っ』
そんな姉妹の様子を見た後、囁と七架は目を合わせ、どこか安心したように笑みを浮かべた。




