Word.7 神ニ、誓ウ 〈1〉
――――五年前。アヒル、十歳の冬。
「あぁ~!スー兄が俺の唐揚げ取ったぁ!」
「あっれぇ~?最後まで残ってるから、いらないのかと思ったぁ~っ」
「んだとぉっ!?」
小学生のアヒルと、中学生のスズメが並び、朝比奈家の食卓は、今日もとても賑やかである。おかずの取り合いは、日常茶飯事であった。
「唐揚げなんて、貧乏な我が家じゃ滅多に出ねぇんだぞ!?勿体振るのも無理ねぇーだろっ!」
「そういう文句は、俺じゃなくてオヤジに言えよっ」
「アーくん!ごめんねぇ!お父さんに甲斐性がないばっかりにぃ!」
「ホントにな」
今にも泣き出しそうな表情で謝る父に、アヒルが冷めた視線を送る。
「その代わり、お父さんの唐揚げあげるからぁ~!」
「マジ!?やったぁ!」
父から唐揚げをもらい、満面の笑みを見せるアヒル。
「へっへぇ~っ!」
「スズメ…アヒル君…」
『へっ?』
どこからか聞こえてくる不気味な声に、唐揚げを食べようとしていた二人が、それぞれ振り向く。
「呪われたくなかったら…唐揚げ頂戴…」
『……どうぞっ』
藁人形片手に、有無を言わさぬ威圧を与えてくるツバメに、逆らうことも出来ず、アヒルとスズメが大人しく唐揚げを差し出す。
「結局、この家で一番強いのって、ツー兄だよな…」
「ってか、お前がうるさく騒がなきゃ、俺は無事に唐揚げを食えてたんだよっ」
「元はと言えば、スー兄が俺の唐揚げ取るから、いけないんだろうっ!?」
「何、騒いでんのっ?食事中だよっ」
『……っ』
台所から、居間へと入ってくる声に、アヒルとスズメが勢いよく振り向く。
「カー兄っ!」
「食事中は静かにって何度も言ってるでしょう?アーくん」
エプロン姿で居間へと現れたのは、高校生になる朝比奈家の長男・カモメであった。当時の朝比奈家は、母が出て行った関係で、炊事洗濯掃除はすべて、長男のカモメが担当していたのである。
「だってスー兄がぁっ…!」
「またアーくん、いじめたの?スーくんっ」
「いじめてねぇよっ。兄弟のコミュニケーションだ、コミュニケーションっ」
「どこがコミュニケーションなんだよっ!」
適当なことを言うスズメに、アヒルが勢いよく怒鳴りあげる。
「スーくんはお兄さんなんだから、アーくんに優しくすることっ」
「へぇ~いっ」
「やぁ~いっ!」
「アーくんも、いちいち騒がないっ」
「はぁ~いっ」
カモメに注意され、アヒルが少し拗ねるように肩を落とした。
「ほらっ、野菜スープ運ぶの、手伝って」
「野菜スープ!?」
その言葉を聞き、拗ねていたアヒルが、一気に表情を輝かせる。
「“売りもんの残り汁”、の間違いじゃねぇーのぉっ?」
「そういうこと言うんなら、飲まなくていいよ?スーくん」
「えっ!?いやっ!ウソウソ!いるいるっ!」
茶化すように言ったスズメであったが、悪戯っぽく問いかけるカモメに、焦ったように必死に言い繕う。売り物の残りでカモメが作る野菜スープは、朝比奈家の定番メニューであった。
「俺っ!カー兄の野菜スープ、大好き!」
「そう?じゃあ今度は、一緒に作ろうか?」
「うん!」
穏やかな笑顔を見せるカモメに、アヒルは満面の笑顔で、大きく頷いた。
アヒルにとって、カモメは兄である前に、母のような存在であった。
「カー兄!買い物、俺も行くよぉ!」
「いいけど、おやつは買ってあげないよぉ?」
「えぇ~っ?」
「カー兄!今日、俺っ、リレーで一番になったよっ!」
「凄いねぇ、アーくんはっ!さすがは僕の自慢の弟だっ」
「エヘへっ!」
本当の母は、アヒルがまだ小さい頃に家を出て行ってしまったので、アヒルに母の記憶はなかったが、優しく包み込んでくれる存在を“母”と呼ぶならば、カモメは“母”そのものであった。
そんな優しいカモメを、アヒルは誰よりも深く、慕っていた。
だがある日、二人は、些細なことで、言い争いとなった。
「ねぇ、アーくん、何度も言ってるでしょ?」
「うるさいなぁ!カー兄には関係のないことだろっ!」
原因は何であったのか、きっとほんの些細なことであった。ただ虫の居所が悪かったのか、いつものように注意するカモメに、アヒルは激しい剣幕で怒鳴り返した。
「関係ないって…あのねぇアーくん、僕はアーくんのお兄ちゃんでっ…」
「別に俺が兄ちゃんにって選んだわけじゃないっ」
「僕はアーくんのためを思ってっ…」
「別に俺は頼んでないっ」
強く口を尖らせたアヒルは、カモメが言葉を言い終える前に、その言葉をすぐに否定した。
「アーくん、あのねぇっ…」
「あぁー!もうっ!ホントにうるさいっ」
大きく首を横に振ったアヒルが、鬱陶しそうにカモメを見る。
「兄ちゃんなんかっ…!居なくなればいいんだっ!!」
「あっ…!アーくんっ…!」
そう、カモメに強く言い放ち、そのままアヒルは、家を飛び出していった。
だが、帰宅したアヒルを待っていたのは、思いもよらぬ光景であった。
「えっ…?」
居間に敷かれた布団に横たわっていたのは、深く目を閉じたカモメであった。生気のない白い顔のカモメは、指一本動かさず、ただ眠っているよりも静かであった。
「うぅっ…!」
「クっ…!」
カモメのすぐ傍で座るスズメとツバメは、とめどなく涙を流しており、あのいつも無駄に明るい父でさえ、暗い表情を見せていた。
「何っ…?これっ…」
茫然と呟きながら、アヒルが、横たわったままのカモメへと歩み寄っていく。
「ウソ…だろっ…?ねぇっ…」
『……っ』
助けを求めるように問いかけたアヒルに、父たちは皆、ただ深く俯くだけであった。
「こんなの…ウソだよねぇっ…?ねぇっ?カー兄っ…」
再び助けを求め、アヒルがそっと、カモメの顔に手を伸ばす。
「うっ…」
触れたその顔はとても冷たく、生きている人間の体温は、カモメのぬくもりは、そこにはなかった。
「カー…兄っ…?」
深く目を閉ざしたカモメは、アヒルの問いかけに答えることもない。
「カー兄っ…」
アヒルが両手で覆うように、カモメの冷たい頬に触れる。
「違うんだっ…ねぇっ、違うんだよっ…カー兄っ…」
そう呟き、アヒルが必死に首を横に振る。
―――兄ちゃんなんかっ…!居なくなればいいんだっ!!―――
「こんなことっ…こんなことになって欲しくてっ、あんなこと言ったんじゃないんだっ…」
カモメに触れながら、アヒルが震えた声で、必死に言葉を続ける。
「あんなことっ…あんなこと、本当に思ってるわけじゃないんだよっ…!ねぇっ!カー兄っ…!」
「アヒルっ…」
必死に叫ぶアヒルを、スズメが目を細め、見つめる。
「居なくなればいいなんて、本当は思ってないんだよっ…!ねぇっ!カー兄っ…!」
カモメの体を揺らすアヒルの瞳からは、いつの間にか、透き通った涙が溢れ出していた。
「違う、んだっ…違っ…たのにっ…」
どんなに体を揺らしても、涙を頬へと落としても、カモメがその瞳を開くことはなかった。
―――アーくんっ―――
優しい笑顔が、思い出されて、そして、消えていく。
「うぅっ…!」
涙を流したアヒルが、強く唇を噛み締める。
「あああああああああっ…!!」
カー兄が、大好きだった…―――




