Word.60 鬼ト化シタ神 〈2〉
「う、ううぅ…」
「お姉ちゃん!?」
背中で苦しげな声を漏らす姉に、階段を駆け上がっていた棗が、不安げな表情で振り返る。
「いい、の…大丈夫…いいから、行って…」
あくまで自身の治療よりも、晶とカモメのもとへ行くことを先決する櫻に、険しく眉をひそめながらも、棗は先へと進む足を速めた。このままでは、櫻は本当に死んでしまう。一刻も早く二人のもとへと辿り着き、治療を始める必要があった。
「あれ?扉が、開いてる?」
上っていく先に、乱暴に開けられたままの扉を見つめ、棗が首を傾ける。
「この階にカモメさんがっ…」
そう考えた棗は、素早く階段を駆け上がり、開け放たれたままの扉から、入院棟の中へと飛び込んだ。入った途端に、強い衝撃風が二人へと押し寄せる。
「きゃ!」
「ううぅ…!」
あまりに強い風に勢いよく押された棗が、右方の壁まで吹き飛ばされる。その際に櫻は棗の背から落ち、両足に傷を負っているため、力なく床へと倒れ込んだ。
「な、何がっ…」
背中を壁へと打ちつけた棗が、痛みに少し表情を歪めながら、ゆっくりと顔を上げていく。
「ああ…!」
目の前に広がる光景を見た瞬間、大きく目を見開き、表情を凍りつかせる棗。
「あぁ…」
床に倒れたまま、顔だけを上げた櫻の口からも、声にならない声が零れ落ちる。二人の見つめる先では、フロアいっぱいの大きさを誇る金色の巨鳥が、粉々に砕かれ、崩れ落ちていこうをしていた。
「う…うぁ…」
崩れていく巨鳥の前には、苦しげな声を漏らしている、全身から激しく血を流した、カモメの姿があった。巨鳥の受けた傷を、カモメが連動して受けているのだろう。カモメは足元がふらついており、立っているのもやっとという状況であった。
「クワアアアア…!」
苦しげな鳴き声を放って、巨鳥が完全に崩れ落ち、金色の粒子となって散っていく。
「…………」
金の粒子が散る中、感情の無い表情を見せた晶が、すでに戦える状態でないカモメへと、さらに、銃口を向ける。向けられる銃口を見つめ、カモメはそっと目を細めた。
「……晶」
弱々しく掠れた声で晶の名を呼ぶカモメであったが、晶はその声には答えず、眉一つ動かさずに、銃の引き金に人差し指を掛けた。
「やめて…やめてっ!やめて…!!」
「アキラぁぁぁぁ…!!」
櫻と棗の必死の叫び声が響くが、それでも、晶の動きが止まることはなく、掛けられた人差し指がゆっくりと引き金を引く。
「“当たれ”」
晶の言葉と共に、銃口から赤い光の弾丸が放たれ、その弾丸が、容赦なく、カモメの胸を貫いた。
『……!』
その光景に、櫻と棗が大きく目を見開く。
「カ…カモメぇぇぇぇ…!!」
櫻の悲痛な声が響き渡る中、胸を撃ち抜かれたカモメが、ゆっくりと後方へと倒れ込んでいく。
「ごめん、ね…」
倒れていくカモメの口から零れ落ちたのは、意外な言葉であった。すでに意識も薄れ、目も霞んでいる様子のカモメが、それでも穏やかに笑顔を作り、それを晶へと向ける。
「俺、神附きなのに…晶のこと、支えてあげられなくて…何の力にもなってあげられ、なくて…」
そのカモメの笑みには、どこか後悔の色が見えた。
「ごめん、ね…」
そして、ゆっくりと深く、瞳を閉じたカモメが、静かに床へと倒れ込む。そこへ倒れたまま、カモメが動くことはなかった。
『…………』
カモメが倒れた音を最後に、その場に居た者皆が黙り込み、辺りを静寂が包む。
「そ、そんな…カ、カモメさ…」
「カ…モメ…」
「あ、お姉ちゃん…!」
撃たれたカモメを目の当たりにしたことと、傷の痛みが限界に来ていたことが合わさったのか、力なくカモメの名を呟くと、櫻はそのまま意識を失い、その場に倒れ込んだ。床にうつ伏せに倒れ込む姉に、棗が思わず壁際から身を起こす。
「…………」
「う…!」
すぐに櫻のもとへと駆け寄ろうとした棗であったが、振り向いた晶に射るように睨まれ、凍りつくようにその場から動けなくなる。そんな棗へと、晶は先程、カモメを撃った銃口を向けた。
「ク…!」
銃口を向けられた棗が、諦めたように、固く目を閉じる。
「あ…」
言葉を放とうと、口を開く晶。
「お姉ちゃん…!」
「……っ」
だが、棗の口から零れ落ちた、助けを求めるその声に、晶の言葉は止まった。
―――お兄ちゃん―――
追い詰められ、ただ姉へと助けを求める棗の姿が、愛らしい笑顔の妹を思い出させた。
「…………」
口を閉ざした晶が、構えていた銃を、ゆっくりと下ろしていく。
「あれ…?」
いつまで経っても来ない衝撃に、棗が恐る恐る瞳を開く。すると晶はすでに銃を下ろし、その場を去ろうと、棗へと背を向けているところであった。
「あ…、あ…あ、待って!」
何人もの人間が倒れている廊下を、進んでいこうとしていた晶を、もう一度、撃たれてしまう危険もあるというのに、棗は何故か、呼び止めてしまった。呼び止められずには、いられなかった。棗の声に、晶は振り返ることはないが、足だけを止めた。
「あ、あの…」
呼び止めたものの、次の言葉が出て来ず、声を彷徨わせる棗。
「俺は、神を堕ちる…」
「え…?」
棗よりも先に、言葉を発したのは晶であった。
「それでも俺に従うというのなら、附いて来い」
そう言って、一瞬だけ棗の方を振り返った晶の瞳が、棗には、ひどく寂しそうで、壊れてしまいそうなほど脆いものに見えた。晶はすぐに前方を向き、再び歩を進めていく。
「……っ」
去っていく晶の足音を聞きながら、棗が悩み込むように俯く。
―――いつも済まない。棗―――
何年も前から焦がれていた、不器用で優しい笑顔。
「……!」
意を決した表情で立ち上がった棗は、去っていく晶の背を、必死に追っていった。晶と棗が去り、動く者の居なくなったフロアに、静寂が訪れる。
「カモメさん!」
しばらくの沈黙の後に、フロアへと駆け込んでくる幾つもの足音。階段を駆け上がり、その場へと現れたのは篭也と和音、それに大人数の韻本部の者たちであった。
「生存している者の救護を、最優先に!治療班を急がせて下さい!」
「カモメさん…!」
従者たちへと指示を送る和音の横を飛び出し、篭也がいち早く、倒れているカモメを見つけ、そちらへと駆け寄っていく。
「カモメさん…!カモメさん!」
カモメのすぐ横へと膝をつき、カモメへと必死に飛びかける篭也。
「すぐに治療を…!」
「は!」
和音に指示され、救護班とみられる、白い着物を纏った者たちが、カモメのもとへと駆けていく。
「これは…」
倒れているカモメの全身を見回し、眼鏡を掛けた、一番年上らしき男が、険しい表情を見せる。
「言姫様」
「どうしたのです?早く、治療を…」
「手遅れです。治療の施しようがありません」
「な…!」
「え…!?」
男の言葉に、篭也と和音がそれぞれ、衝撃を走らせる。
「そんな…!なんだよ、それ!?何とかしてよ…!ねぇ…!」
床に膝をついたまま、男の着物の裾を握り締め、必死に訴える篭也。だが男はその言葉には応えられず、ただ申し訳なさそうに、俯くだけであった。
「カモメさんを助けてよ…!ねぇ…!」
「か…ごや…?」
「え…?」
自分の名を呼ぶ小さな声に、篭也が素早く反応し、握り締めていた男の裾を離して、振り向く。
「カモメさん…!?」
「篭也…そこに、居るの…?」
薄らと開けた瞳をまっすぐに天井へと向けたまま、問いかけるように声を発するカモメ。恐らく、もう目は見えていないのであろう。
「居るよ…!」
篭也が頷き、床に落ちていたカモメの右手を、強く握り締める。
「僕はここに居る…!」
「良かった…丁度、渡したいって…思って、たんだ…これ…」
「え…?」
そう言ってカモメが、篭也が握り締めていない方の手を、震わせながらゆっくりと上げる。救護班の一人の女性が、素早くその手を支え、持ち上げる動作を手伝う。上げられたその手に握り締められているのは、真っ赤な言玉であった。
「これ、言玉…」
「ちょっと…早く、なっちゃったけど…」
言葉を紡ぎながら、カモメが少し口元を緩める。
「本当は…もう少し、篭也が大きくなってから、って思って、たんだけど…ごめんね。こんなこと、に…なっちゃって…」
手伝われながら、動いていったカモメの手が、カモメの撃たれた胸の上へと置かれている、篭也の左手へと辿り着く。
「けど、大丈夫…篭也、優秀だから…きっと、いい加守に、なる…」
「……っ」
瞳から大粒の涙を流しながら、篭也が拒むように、何度も必死に首を横に振る。
「いらない…いらないよっ…まだ、加守になんか、なりたくないよ…だから、死なないでよ!カモメさん…!」
耳に届くその声だけで、篭也が泣いていることがわかり、カモメは少し、困ったように眉をひそめる。
「大丈夫…俺、篭也を信じてる、から…俺、何にも心配してないよ…篭也…」
すぐに口元を緩め、優しい笑みを浮かべるカモメ。
「ああ、でもあっちが…心配、だな…」
そんなカモメの表情が、ふと曇る。
―――兄ちゃんなんか、いなくなればいいんだ…!―――
「きっと…凄く、傷つけちゃう…後悔、させちゃうな…」
「え…?」
カモメの言葉の意味がわからず、篭也が涙を流したまま、戸惑うように首を傾げる。
「帰りたい、けど…それももう、無理そう、だから…」
響くカモメの声が、どこか悲しげに聞こえる。
「伝え、て…届けて…俺の、最期の言葉…」
そう呟きながら、カモメがもうほぼ力の入らない指先で、そっと言玉を撫でる。すると言玉は、淡い金色の光を放ち始めた。その光を篭也や、周囲の治療班の者たちが見守る。
「“叶え”…」
カモメが言葉を放った瞬間、輝く言玉から飛び出すように、金色の鳥の姿が見えたかと思うと、鳥はあっという間にフロアを駆け抜け、どこかへ消えていってしまった。
「あ…!」
通り抜けていった鳥を見送り、大きく目を見開く和音。
「今のは…」
鳥の消えていった窓の外を見つめ、和音が険しい表情を見せる。
「これで、いい…」
「カモメ、さん…?」
どこか満足げに笑うカモメを、篭也が戸惑うように見つめる。
「いい…?篭也…誰よりも神の近くで、神を支えて…誰よりも強く、神の力になる、んだよ…?」
篭也の左手の中へと、もう光の収まった言玉を押し込むように握らせて、カモメが、もう何度も繰り返して来たその教えを、再度確認するように、篭也へと伝える。
「自分の神様を…守って、あげてね…」
篭也へと言玉を渡し終えたカモメの手が、役目を終えたと思ったのか、ゆっくりと力なく、床の上へと落ちていく。
「守れなかった…俺の、分まで…」
「あっ…」
カモメの瞳がそっと閉じられ、篭也が握り締めていた右手も、床へと零れ落ちていく。
「カモメ…さん…?」
深く目を閉じたカモメへと、小さく呼びかける篭也。だが、その呼びかけにカモメが答えることはなかった。鋭く振り向いた和音に、カモメの左手を取り、脈を取った治療班の女性が、首を横に振る。
「カモメさん…」
左手の中に残ったカモメの手の感触と、真っ赤な言玉を握り締め、篭也が声を漏らす。
「カモメさぁぁぁぁん…!!」
その日は、日の暮れた頃から、冷たい雨が降り注いだ。
「大丈夫かな…カモメ兄さん…」
「兄貴のことだし、大丈夫だって。情けねぇ顔してんなよ、ツバメ」
居間の掛け時計を見上げながら、どこか不安げに呟くツバメ。そんなツバメに、威勢よく声を掛けるスズメであったが、その表情もどこか浮かない様子であった。カモメが棗と共に家を出てから、すでに三時間以上の時が経過している。
「ふぅ」
そんな二人の様子を見て、軽く息を吐きながら、店の片付けをしているウズラ。
「そういえば、アーくんも帰って来ないなぁ」
カモメと喧嘩し、家を飛び出していったアヒルのことを思い出し、ウズラが店の前へと出る。
「一体、どこまで…ん?」
降り注ぐ雨を遮るように、顔の上に手のひらを置きながら、ウズラがアヒルの姿を探し、周囲を見回す。すると、激しい雨の中、傘も差さずにこちらへと向かってくる、小さな人影が見えた。
「アーくん…?」
アヒルと同じくらいの大きさの人影に、ウズラがすぐさま声を掛ける。だが、反応はない。徐々に人影が近付いてきて、その姿がはっきりとしてくる。アヒルと同じくらいの年の少年だが、アヒルではないようだ。
「君、は…あっ…」
戸惑いながら問いかけようとしたその時、少年が背負っている、少年より明らかに大きな人間の存在に、ウズラが気付く。気付いた途端、ウズラの表情がすぐさま、曇る。少年が背負っているのは、深くその瞳を閉じた、カモメであった。
「……っ」
カモメの身に何が起こったのかを察し、悔しげに目を閉じ、唇を噛み締めるウズラ。
「ごめん、なさい…」
激しい雨音の中に、か細い少年の声が落ちる。
「ごめん…なさい…」
誰も受け止めることの出来ない謝罪の言葉が、雨音の中にこだました。
この日、一人の五十音士が命を落とし、この日、一人の神が、神の座を堕ちた……――――




