Word.59 死ンダ言葉 〈4〉
それから、さらに、半年の時が流れた。
言ノ葉高校、国語資料室。
「えぇ!?また居残り掃除ぃぃ!?」
「当然だろう」
激しく驚くカモメに、分厚い本を読んでいる恵が冷たく言い放つ。
「お前、現国のテスト、何点だったか覚えてるか?二点だ、二点」
「五点はいったと思ったんだけどなぁ」
「補習は私が面倒だから、掃除で勘弁してやる。とっとと片付けろ」
「それって単に、恵先生が得するだけのような…」
自分勝手な理由を述べる恵に呆れながらも、カモメが鞄を置き、隅に置かれていたホウキを手に取って、相変わらず埃を被っている資料室の掃除を始める。
「はぁ~あ。今日は“恋盲腸”最新巻の発売日なのにぃ」
「お前、十八にもなってまだ、あのデロ甘小説読んでんのか?」
嘆きつつ深々と肩を落とすカモメに、恵が読んでいる本から目を離し、呆れた表情を見せて問いかける。
「先生を一途に想ってる主人公のヒトミが、恵先生を一途に想ってる俺にそっくりで、もう共感しまくっちゃってぇ」
「言ってろ、阿呆」
満面の笑みで答えたカモメに、冷たく言葉を投げかけ、恵が再び本へと視線を落とす。
「そんなこと言って、その内、俺が超イイ男になった時に、後悔しても知りませんよぉ~?」
「ハイハイ。くだらないこと言ってないで、とっとと掃除を終わらせろ」
カモメが忠告するように言うが、恵は相手にもせずに本へと集中する。
「ちぇ~」
口を尖らせながら、壁に掛けられた時計を見上げるカモメ。
「今日もお見舞いには、行けそうにないなぁ…」
ホウキに顎を乗せながら、カモメはどこか残念そうに呟いた。
その頃。栞町、栞総合病院。
「四時…」
ベッドのすぐ横にある棚の上に置かれた時計を見つめ、飛鳥がゆっくりと、時計の指し示している時刻を呟く。病室の中は飛鳥一人で、とても静かであった。
「カモメくん、今日も来れないのかなぁ…」
飛鳥が視線を、時計から、閉まったままの扉へと移す。
「お兄ちゃんも、今日は遅くなるって言ってたし…」
一人きりの病室で、晶やカモメが居る時の明るい笑い声を思い出し、飛鳥が寂しそうに俯く。
「…………」
飛鳥が言葉を止めると、病室が一層、静かになる。塞ぎ込むような不安が、襲いかかってくるようで、その場にじっとしていることが、どうにも耐えられなかった。
「ちょっと、ちょっとだけ!」
意を決したように顔を上げ、自分に言い聞かせるようにそう言った飛鳥が、素早く布団の中から出て、ベッドを降りる。足音を立てずに扉へと近付くと、ほんの少しだけ扉を開き、そこから廊下を覗く。人通りがないことを確認すると、飛鳥はそっと、廊下へと出た。
「誰か、遊び相手になってくれそうな人、居ないかなぁ。でも看護婦さんに見つかると、怒られそうだし…」
周りを何度も確認しながら、廊下を進む飛鳥。
「入口で待ってみよっかなぁ。でも見つかっちゃうかなぁ」
あれこれと考えを巡らせながら、飛鳥が歩を進めていく。
「そういえば知ってる?四〇三号室の安積さん」
「ええ、知ってるわ。飛鳥ちゃんでしょう?」
「私?」
どこからか聞こえてくる自分の名に、思わず足を止める飛鳥。声の聞こえて来た方を振り向くと、そこには談話室と書かれた部屋があった。患者同士や、患者と面会客が歓談する場所である。飛鳥は歩を進む向きを変え、ゆっくりとその談話室へと向かっていった。
「重い病気なんでしょ?生まれた時からずっと、入院してるって」
「そうなのよ。十二年間ずっと、ろくに病室からも出られてないんですって」
「可哀想よねぇ」
「……っ」
談話室で話しているのは、患者らしき女性三人であった。中年二人の中に一人、若めの女性が入っている。その会話の内容に、飛鳥は思わず、部屋へと入ろうとした足を止めた。
「可哀想、か…」
女性の口にした言葉を繰り返し、悲しげに目を細めた飛鳥が、談話室の前で静かにしゃがみ込む。
「ずっとお兄さんが一人で、面倒みてるんでしょう?海外でお仕事してるご両親の代わりに」
「まだ高校生だっていうのに、大変ねぇ」
話題が自分から兄に移ったことに、飛鳥が少し、肩を揺らす。
「こう言っちゃなんだけど、妹さんが居ない方が、幸せだったかも知れないわよねぇ。お兄さんも」
「……!」
聞こえてくるその言葉に、しゃがみ込んでいた飛鳥が、大きく目を見開く。
「あの子だって、そうよぉ?ずっと病室にこもりきりで、ろくに外にも出れないんじゃ」
「辛いわよねぇ。何のために生まれてきたんだか、わかったもんじゃないわぁ」
「ずっとこのままだなんて、生きている意味がないものねぇ」
聞こえてくる同情の声を、確かに耳に入れながら、それでも耳を塞ぐように、飛鳥がゆっくりと小さな両手を顔の横へと持っていく。
「あ…」
少しだけ開いた口から、掠れたような、弱々しい声を零す飛鳥。
「あぁ…」
声を言葉に出来ぬまま、飛鳥はただ、深く頭を抱え込んだ。
今日も韻本部からの呼び出しを受けていた晶は、素早く用件を済ませ、やっとのことで、飛鳥の待つ病院までやって来ていた。
「はぁ…」
病院の廊下を歩きながら、晶が深々と溜息を零す。
―――幸せを呼び込むためには笑顔!笑顔~!―――
「……っ」
溜息を零してすぐに、晶の脳裏に、能天気なカモメの笑顔が思い出された。
「そう、だったな…」
思い出したようにそう言って、晶が口元を緩め、穏やかな笑みを浮かべる。やがて晶は、飛鳥の病室の扉の前へと辿り着いた。
「ふぅ」
一息ついた晶が、ゆっくりと扉を開ける。
「ただいま、飛鳥。遅くなって、悪かっ…あれ?」
扉を開けた晶が、戸惑うように声を漏らす。
「飛、鳥…?」
病室のベッドの上に、いつも笑顔で晶を迎えていたはずの、飛鳥の姿はなかった。
「…………」
病院の屋上で、柵のすぐ手前に立ち、そこから見える栞町の景色を眺めている飛鳥。その表情は、あどけない少女のものとは思えないほどに落ち着いていて、そして、どこか儚げであった。
「飛鳥…!」
「……っ」
勢いよく扉の開く音と、自分を呼ぶその声に、飛鳥がゆっくりと振り返る。
「お兄ちゃん」
息を切らしながら、必死の表情で屋上へと現れたのは、晶であった。晶の姿を瞳に映し、飛鳥がそっと笑みを浮かべる。
「おかえり、お兄ちゃん」
「病室に居ないから、心配したぞ?飛鳥」
晶は飛鳥の出迎えの言葉には答えずに、注意するように言い放つ。
「外に出ていると、体調が悪化する。早く病室に戻るぞ」
「…………」
強く扉の方を指差す晶を見つめ、飛鳥は目を細めると、ゆっくりと俯いた。
「ねぇ、お兄ちゃん…」
「ん?」
静かに呼びかける飛鳥に、首を傾げ、答える晶。
「私は…どうして生きているのかな…」
「え…?」
飛鳥のその言葉に、晶は強く眉をひそめた。
「飛鳥?何を言って…」
「私ね、生きてる意味なんてないんだって」
困惑の表情を見せた晶が、聞き返そうとした言葉を遮って、飛鳥が言葉を続ける。言葉を紡ぐ飛鳥の声は、小刻みに震えていた。
「お兄ちゃんね、私が居ない方が幸せなんだって」
「何をっ」
飛鳥の口にした言葉に、思わず声をあげる晶。
「そんなわけがないだろう…?飛鳥、馬鹿なことを言うんじゃ…」
「ねぇ、お兄ちゃん」
必死に否定しようとした晶の言葉を、飛鳥が再び遮る。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
何度も何度も噛み締めるように、晶を呼ぶ飛鳥。
「飛鳥…?」
「お兄ちゃん」
晶が戸惑う中、深く俯いていた飛鳥が、ゆっくりとその顔を上げる。
「大好きだったよ」
顔を上げた飛鳥は、両目にいっぱい涙を溜めながら、晶へと、精一杯の笑顔を向ける。
「さようなら」
「え…?」
晶へと別れを告げて、飛鳥が背中から柵を越え、屋上の下へと身を投げ出す。青い空の中へと消えていく飛鳥の笑顔に、晶は大きく目を見開く。
「飛鳥ぁぁぁぁ…!!」
晶の悲痛な声が、空へと突き上げた。
屋上の下へと駆け降りた晶を待っていたのは、頭から血を流し、生きている体温を失くして、動かなくなった飛鳥であった。
「飛鳥…飛鳥…」
周囲に騒々しく人が集まっていく中、晶は虚ろな瞳で飛鳥の名を呼び、覚束ない足取りで、倒れている飛鳥の方へと歩み寄っていく。周囲の人間も自然と、晶が飛鳥へと向かっていく道を開いた。
「飛鳥…?」
晶が飛鳥の小さな体を抱え上げ、眠りから起こすように、優しく呼びかける。だが、その声に、飛鳥が目を開くことはなかった。
「飛鳥っ…」
声を震わせた晶が、冷たくなった飛鳥の体を、掻き抱く。
「飛鳥…!」
飛鳥の小さな体に身を寄せ、深く瞳を閉じた晶が、堪え切れないものを滲ませるように、強く全身を震わせる。
「自殺…?」
「病院にずっと入院してた子でしょ…?あの子」
「どうして、こんなことに…」
「……っ」
小声で聞こえてくる言葉たちを耳に入れ、晶が再び目を開く。その瞳は先程までの虚ろなものではなく、一切の光を失くした、冷たいものであった。
「とにかく、警察を…」
「ぐあああぁぁ!」
「え…?」
警察を呼ぶため、その場を離れようとした若い女性が、すぐ傍から聞こえてくる叫び声に気付き、振り向く。女が振り向くと、女の横に立っていた中年の男が、胸を貫かれ、白目を剥き、激しく血を流して、地面へと倒れていった。
「き…きゃああああ!」
女の悲鳴を合図に、集まっていた人の群れが、一気に大混乱となる。
「誰、だ…」
左腕で強く飛鳥の体を抱えたまま、いつの間にか言玉を解放させた晶は、その真っ赤な銃を、倒れた男の立っていた方角へと向けていた。
「誰だ」
「がああああ!」
晶がもう一度、引き金を引き、倒れた男へと駆け寄っていた、別の男の肩を撃ち抜く。
―――私ね、生きてる意味なんてないんだって―――
「飛鳥に、あんなことを言った奴は…」
―――お兄ちゃんね、私が居ない方が幸せなんだって―――
「飛鳥に、あんな言葉を向けた奴はっ…」
人々が混乱に陥る中、晶が震える声を発し、銃を握る手に力を込める。
「誰だぁぁぁぁぁっ…!!!」
「何かしら?」
見舞いに訪れた櫻と棗は、病院の前に出来ている人集りに気付き、戸惑うように首を傾げた。一度、目を見合わせた櫻と棗が、ゆっくりと歩を進め、その人集りへと近寄っていく。
「お、お姉ちゃん…!」
「こ、これは…」
思わず声をあげる棗の横で、櫻もすぐさま険しい表情を作る。病院の前には、大量の血を流した人間が何人も倒れており、倒れていない数人の人間もひどく動揺した様子で呻き、茫然とし、泣き叫んでいた。まるで地獄のような、そんな光景であった。
「一体、何が…」
「きゃああああ…!」
「……っ」
その時、病院の中から、尋常ではない悲鳴が聞こえて来た。櫻と棗がさらに眉をひそめ、すぐに病院の方を振り向く。
「中ね…」
「あ、お姉ちゃん…!ま、待って!」
居ても立ってもいられないといった様子で、病院の中へと駆け出していく櫻を、棗が慌てて追っていく。櫻は棗の呼び止めにもスピードを落とさず、自動ドアをくぐり、勢いよく病院の中へと駆け込んだ。
「……!」
病院の中へと入った櫻が、大きく目を見開く。
「ぐああああ!」
必死に食らいついてきた白衣の男を、右手の銃で容赦なく撃ち抜く、一人の男。
「あき、ら…?」
櫻は自分の瞳さえ疑うように、ゆっくりと、その名を呼んだ。その声に気付き、全身に返り血を浴び、身に付けた洋服を真っ赤に染めたその男が、そっと振り返る。
「晶…」
それは見間違えるはずもなく、まさしく、晶であった。
「何を…何をしているの…?」
未だに信じられないといった表情を見せながら、櫻が、震えた声で問いかける。
「晶…!!」
「……っ」
責め立てるように、力強く名を呼ぶ櫻を見つめ、冷たく微笑んだ晶は、迷うことなく、その銃口を櫻へと向けた。
「晶…?」
銃口を向けられ、櫻が戸惑うようにもう一度、晶を呼ぶ。だが、あまりにも冷たい晶の笑みに、櫻は悪寒すら覚え、険しい表情を作った。
「お姉ちゃん…!」
「棗っ…」
後方から聞こえてくる声に、櫻が動揺しながら、素早く振り返る。入口の自動ドアを抜け、棗がこちらへと来ようとしていた。
「来ちゃダメ!棗…!」
「え…?」
「“当たれ”」
櫻が必死に叫んだその瞬間、晶の口から、言葉が落とされた。
「ううぅ…!」
「……!」
病院の中へと入った途端、足を撃ち抜かれ、激しい叫び声をあげて倒れていく姉の姿を視界へと入れ、棗が大きく目を見開く。
「お姉ちゃ…!……っ」
すぐさま姉へと駆け寄ろうとした棗であったが、櫻を撃ったその人物を見て、まるで凍りついたように、その場で動きを止めてしまう。
「か、神…?」
か細い声でそっと、晶を呼ぶ棗。
「“当たれ”」
「ああああああ…!!」
晶は棗の呼びかけには答えず、その代わりもう一度、弾丸を放ち、櫻の先程撃ち抜いた方とは別の足を撃った。さらに血が飛び散り、櫻がまた、痛々しい叫び声をあげる。
「…………」
「う…!」
眉一つ動かさず、今度は棗へと、その銃口を向ける晶。そんな晶に、棗が怯えるように肩を上げる。
「え…、え…?」
目の前で起こったこの光景を、受け止めることが出来ず、棗がひどく困惑した様子で頭を抱える。
「逃げ、なさい…棗っ…」
「あ…あぁ…」
両足を撃ち抜かれ、痛みに表情を歪めながらも、必死に上半身を起こし、茫然と立ち尽くす妹へと指示を送る櫻。だが棗は頭を抱えたまま、その場を動こうとはしない。
「逃げなさい…!棗…!!」
「あ…!」
櫻の決死の声に、やっと正気を取り戻したかのように、棗が大きく目を見開く。
「ううぅ…!」
棗は両目から涙を零しながら、必死にその場を駆け出していった。
「兄ちゃんなんか、居なくなればいいんだ…!」
「あ、アーくん…!」
カモメが呼び止めるのも聞かず、朝比奈家の末の弟は、勢いよく家を飛び出していってしまった。
「あっちゃ~」
居間に残ったカモメが、深々と頭を抱える。
「言い過ぎちゃったかなぁ」
「放っとけよ、兄貴。あいつが馬鹿なだけなんだからさ」
恐らくはカモメの所有物であろう『恋盲腸』の本を読みながら、居間で寛いでいるスズメが、不安げに呟くカモメへと、素っ気なく言い放つ。
「やっぱり俺、アーくんに謝りに行ってくる!」
「さいですか」
「結局はアヒルくんに弱いよね…カモメ兄さんて…」
すぐさま謝ることを決心して、立ち上がるカモメに、どこか呆れたように肩を落とすスズメとツバメ。
「よし、じゃあ行って…!」
「カモメさん…!!」
「へ?」
アヒルを追って出て行こうと、居間から店へと降りたカモメが、店へと駆け込んでくる必死の声に、戸惑うように顔を上げる。
「なっちゃん?」
「カモメさん…!」
店の中へと駆け込んできたのは、大きく息を乱し、頬に涙を滲ませた棗であった。
「なっちゃん、どうし…」
「神が…!」
カモメが問いかける前に、棗が大きく口を開く。
「神がぁ…!!」
「え…?」
棗のその言葉に、カモメはそっと、眉をひそめた。
あの時、たった一つでも、言葉が少なければ、
あの時、たった一つでも、言葉が多ければ、
僕たちは、こんな結末を、迎えずに済んだのだろうか。




